吾が輩は、猫である。 名前はまだない。
……とかはじまる話があるらしい。 それでいくと、こうなる。
吾が輩は、犬である。 名前は竜太だ。
……犬の俺が言うのもなんだが、なんだかしまらない。 きっとこの文章を考えた奴は、二行目に苦労したに違いない。どんな名前にしてもしっくり来ないから、可哀想な猫は名無しにされたのだ。 まあそんなことはともかく、俺は犬だ。 竜太という名前は、ユウコがつけてくれた。 ユウコは俺の「飼い主」の一人だ。 そして、俺がこの十五年生きてきた中で、一番大きさの変わった人間だ。 俺の記憶が確かなら、俺がこの家に来たばっかりの時は、俺よりうんと大きかった。それが二年ほどの間に俺のほうが大きくなって、それから五年もした頃には、また俺よりも大きくなっていた。 他のオカアサンやオトウサン、テッチャンはずっと俺より大きいままなのに、不思議なことだ。 不思議ではあるが、賢い俺はちゃんとその理由に気付いている。 人間というヤツは、俺たち犬よりは成長するのが遅いのだ。だからユウコは、はじめは俺とおんなじ子供だったが、それから俺はさっさと大人になったのに対して、大人になって大きくなるのにずいぶん時間がかかったというわけ。 ま、犬の世界でこんなこと知ってるのなんて俺くらいのものだろう。
俺はこの町内じゃちょっとした顔だ。 長生きしていることもあるが、たいていのヤツはみんな俺より小さく、力も弱い。そのうえ頭も悪い。 けどまあ、年をとった今では俺の力もだいぶ弱くなってしまったし、足だってめっきり遅くなった。 昔はユウコと散歩に行けば、俺がぐいぐい引っ張れたもんだが、今では時々、ちょっと待ってくれ、と言いたくなることがある。けれど俺は犬でユウコは人間。言ったって通じないから、俺はぜーぜー言いながら走ってついていくことになるんだが。 いや、それは一週間ほど前までの話だ。 一週間くらい前に俺が風邪をひいてからは、ユウコは俺の散歩に自転車を使わなくなった。 人間は俺たちの言うことを理解しないが、実は俺たちは人間の言うことがだいたい分かる。どうやらユウコもオトウサンも、俺がもうじいさんだってこと、つまり体力がなくなってしまったってことを、医者から言われたらしい。 それ以来、俺の寝床は庭の犬小屋から玄関にかわった。
俺を玄関に入れておくことについては、オカアサンとずいぶんもめたようだ。 俺はこのとおりでかいから、家に来た人が怖がるというんだな。 けれど俺は今までに一度だって、誰かを噛んだことはない。そんなものを噛まなくても、オトウサンが俺にくれる大きな骨で俺の気持ちは充分にまぎれる。 それに、俺は賢いからな。ちゃんと知ってるんだ。 人間を一度でも噛んだら、それまで俺がどんなに立派にしていても、それから俺がどれほど従順にしていても、俺は人間たちにとって「ダメ」なものになってしまう、と。 それが分からない若造は、子供の悪戯ごときにムキになって吠えかかり、牙を剥き出して、あとで痛い目を見る。 だから俺はちょっと町内の奴等と顔を合わせたりすると、説教臭いとは思いながらも、言ってやるのだ。
人間ってヤツは自分たちが思ってるほど賢くない。自分がなんのためになにをしているかさえ分からない生き物なんだから、そのことを分かってやって、俺たちが付き合ってやらなければならないのだ。
とね。 実際、人間というヤツは大変そうだ。 俺は飼い犬だからいたれりつくせりで、ちょっと運動不足が気になる程度だが、野良になったらなったで、食べられるものを食べ、食べられない時は我慢し、雨が降ったら濡れ、軒があったらそこに入り、礼儀知らずのよそ者にはそのことを教えてやるだけでいい。 なのに人間は、きっとあれのせいだ。「金」というもののせいで、自分たちの生き方を無駄にややこしくしてしまったんだな。 それに、「服」。 俺たちなんか、いや、猫たちも鳥たちもだが、生まれたこの体で生きていくだけで、それにはどんな上等も下等もない。色合いや模様の違いなんて、誰が誰かを見分けるためのオマケのようなものだ。 それが人間は、服を着て目まぐるしく姿をかえる。 まったくおかしな連中だ。 ユウコなんて、朝起きた時、俺と散歩に行く時、会社(昔は学校)に行く時、帰ってきてからしばらくと、寝る時(これが次の朝起きた時と同じになる)と、何度も何度も模様替えをする。 俺たちの鼻がきかなかったら、もう誰が誰やら分からなくなってしまうだろう。
こんなワケの分からないことを、生まれてから死ぬまで続けるような生き物が、俺たちのようにシンプルにすむはずがない。 考えたくもないほどいろんなことがあって、自分の面倒さえちゃんと見られない生き物なんだから、俺たちの我が儘にまで付き合わせたら可哀想だろう。 だから俺たちが合せてやるしかないのだ。
おっと。 だいぶ話が逸れてしまったな。 ま、なんにせよ俺は、見かけこそ大きくて怖そうだが、タニムラさんちの竜太くんは賢いことで有名だから、近所のおばさんくらいなら俺を見たって怖がったりしない。 それに、俺にはタニムラさんちに飯をもらって寝床をもらって、病気になったら治してもらったりした恩がある。オカアサンやユウコを困らせる厄介な客なんかは、俺がちょっと不機嫌に唸って見せれば慌てて逃げていくし、どうしても来なきゃいけない客以外は、俺の姿を見ると、諦めて帰ってしまう。おかげでシュウキョウノカンユウなんかがめっきりなくなったと、後になったらオカアサンも俺がいることには何も言わなくなった。
なんにせよ、俺はタニムラさんちの人たちが好きだ。 俺は捨て犬だった。 俺を拾ってくれたのはテッチャンとユウコだった。 もう記憶も朧だが、寒くておなかがすいて、寂しくて仕方がなかった子供の頃、俺を抱き上げてくれたユウコのあたたかさだけは、今でもはっきりと思い出せる。 たしかオトウサンとオカアサンは、俺を飼うことに反対していたようだが、最終的にはこうして飼われることになった。
テッチャンもユウコも、しばらくうちにいなかったことがある。たぶん、四年か五年くらいだ。 テッチャンはそれ以来、たまにしか姿を見ないが、俺と会うといつも頭を撫でて、「元気か」と言う。テッチャンはそれくらいしかしてくれないが、俺はそれでもテッチャンが好きだ。 ……そういえば昔、俺がまだタニムラさんちにもらわれて間もない頃、俺がガタイのいい野郎と喧嘩になって負けそうになった時、テッチャンが助けてくれたこともあったっけ。 でも、あれは嬉しかったな。ちょっと俺が奴の縄張りに迷い込んでしまって、すぐに出て行くって言ってるのに襲い掛かってきて、そうさ、俺はちっとも悪くなかった。なにせガキだったんだし。それなのにムキになりやがって。 あいつは、今の俺くらいあったはずだ。だからテッチャンだって怖かったはずなのに、追い払ってくれた。 あんまり顔を合わせなくたって、俺はテッチャンが好きだ。
散歩はずっとオトウサンと行っていたが、ユウコが大学というのを終わってまた家に住むようになると、俺の散歩はユウコとになった。 飯をくれるのはオカアサンだし、小屋を作ってくれたのはオトウサンだが、俺はユウコが一番好きかもしれない。 なにをしてくれるかと言えば、俺に話しかけてくれるくらいだが、……どうしてだろう。 よく分からない。 けれど、俺が今、一番気にしているのは、ユウコのことだ。
俺はもう少ししたら死んでしまう。 なんとなく分かる。 体がだるいとか、起き上がるのが億劫だとか、そういったことが俺に教えてくれる。 いつ死ぬのかは分からないが、もう少ししたら、だとは分かる。 べつに怖くはない。 ただ、ユウコたちともう会えなくなるんだと思うと、寂しくて哀しい。 俺が死ぬ前に、もう一度くらいテッチャンと会えるのかどうかと思うと、会わないままになるのかもしれないと思うと、テッチャンのいる何処かまで、顔を見に行きたくなる。 毎日毎日、一日に二度、俺のために飯を用意してくれるオカアサンには、ちゃんと「ありがとう」と伝えたいのに、言葉が通じなくてもどかしい。 もう一度くらいオトウサンと散歩に行きたいと思うのに、オトウサンは忙しいらしくて、そういえばここしばらくはちっとも俺に話し掛けてくれなくなってしまった。そんなことを思い出すと寂しくて仕方ない。
ユウコは……俺が死んだら、どうするんだろう。 俺は知っている。 俺だけが知っているんだと思う。 ユウコはなにかつらいことがあったり哀しいことがあると、夜中にこっそり庭に来て、黙って俺を抱き締めていた。 なにも言わないけど、ユウコの目はいつも涙で一杯だった。 でもどうしてか、それを絶対に落としたり流したりしないよう、ハンカチや袖で押さえて、我慢していた。 時々は、俺の首に顔を押し付けて、熱い息を吐き……。
俺がいなくなったら、つらい時、哀しい時、ユウコはどうするんだろう。 なにかを俺の代わりにするんだろうか。
俺がそんな物思いに耽っていると、玄関の戸が開いた。 「ただいま」 ユウコが帰ってきた。 俺は立ち上がって出迎えてやりたかったが、前足に顎を置いたまま、立つことがひどく難しかった。 俺のお迎えは、そう遠くないのかもしれない。 「どうしたん、竜太。まだつらいん?」 つらくなんかないよ。 少し体は重いけど、風邪の真っ最中みたいに苦しかったりはしない。 俺はそれを伝えたくて、なんとか顔だけをユウコに向ける。
ユウコの顔を見たら、哀しくてたまらなくなった。 もうユウコとも会えなくなる。 頭を撫でてくれる手のあたたかさを、もう味わうことができなくなる。 昔、俺を拾ってくれた時、抱いて帰ってくれた俺の体一杯のぬくもり。 もう一度、今の俺は大きすぎるだろうけれど、もう一度……。
「ユウコ。ご飯できとるよ。なにしてるん」 「はぁい。竜太。竜太にも今ご飯もってきたるからな」
……それは、俺の我が儘だ。 ユウコには、他にしなきゃいけないことがたくさんある。 俺が我が儘を言ったって、ユウコを困らせるだけだ。
ユウコが持ってきてくれた俺の飯は、いつもと同じ、白いご飯をスープで野菜や肉と一緒に煮たヤツだ。昔は大きな肉の塊も食いちぎれたが、最近はそうもいかず、残してしまって以来、肉は噛まなくてもいいくらいに小さく切ってある。オカアサンが俺のためにそうしてくれるのだ。 オカアサンの飯は美味い、だから俺はいつも嬉しい。そう伝えるためには、全部きれいに食べるのが一番なのに、二口ほど食べただけで腹が一杯になってしまう。 不味いんじゃないし、なにか腹を立ててたりするんじゃないんだ。オカアサンの作ってくれるものは、いつだって美味い。 病気はもう治ったんだ。ただ、もう俺は年だから。 だから、ユウコ、そんなに心配そうな顔しないでいいんだよ。
俺は元気だと、立ち上がって一杯尻尾を振って、こんなくらいの飯なんかすぐにたいらげて、一声吠えてやりたいのに、俺の足はもういうことをきかない。
夜が来て、深まり、やがて明ける。 朝になり、人間たちが動き出す。 ばたばたとあわただしい時間だ。 俺の耳にも、オトウサンやオカアサン、ユウコの足音や声が入り混じって聞こえてくる。 階段を駆け下りてくるこの音は、ユウコだ。 いつもより少し遅いから、慌てているんだろう。 台所からパンの焼ける匂いが漂ってくる。それから、これはちょっと苦手なんだが、コーヒーというヤツの匂いも。 タニムラさんちの、いつもの朝だ。
「行ってくる。竜太。行ってくるかんな」 俺の頭をさっと撫でて、ユウコが出て行く。 俺はもう、目を開けるのも大儀で、じっとしている。 戸が開き、閉まる。 そしてまた開いた。 「竜太。待っとって。待っとってよ。まだ死んだらあかんよ。な?」 立てない俺に覆い被さるようにして、ユウコが体一杯、俺を抱き締めてくれた。
俺は犬として生まれ、犬として生きてきた。 このタニムラさんちで。 つまり、こういうことだ。
吾が輩は、犬である。 名前は竜太だ。 ブンガクサクヒンにするにはしまりがなくても、俺の名前は竜太だ。 ユウコがつけてくれた、竜太だ。
(終) |