生きるため、死ぬことを考えて居る己はネガなのかポジなのか
最近、死ぬことを考えている。 とだけいうと、とんでもない誤解をされそうなのだが、これは「自殺を考えている」という意味そのものではない。 「死にたい」とか「死のう」とか思い詰めるわけでは決してなく、ただ漠然と、いつかそうする時のことを考えている、というところだ。
首吊りは汚い。形相も物凄いというし、垂れ流しだし。死んでしまえば後のことなんかどうでも良かろうに、といわれそうだが、死ぬことを考えている今の私は生きているのだから、美醜にこだわりたくもなる。それに、そんな死体を発見したほうも夢にうなされそうで申し訳ない。 リストカットなど、失血死狙いというのは、これは首吊りよりも、なんというか、「死んでやるーッ!!」という気迫が要る。実際試してみようとしたことがあるから分かるのだが、自分で切ろうとすると、指先でも躊躇うのである。昔の人はよく血判状なんて作ったよなとか思ってしまう。……えらくのんきな自殺志願候補者だが。ともかく、この方法はよっぽどカッとなってるか、よっぽど思い詰めてないと難しいのではないか。その点首吊りは、とにかく思い切って踏み台を蹴ってしまえばそれで終わる。 飛び降りという手段もある。これも、思い切って踏み出してしまえばそれでいい。カット系のように、切り終えるまで根気よく付き合う必要はない。しかしこれはこれで、落下中はどんな気分だろうなんて考えてしまう。 他にも、最近流行りの練炭というテがあって、これが一番楽そうではあるが、途中で見つかったら最悪だよなと思ってしまう。首吊りもそうだが、失敗すれば脳死みたいな状態で生かされかねない。 少なくとも、そういう形で更に親の負担になるのは本意ではない。
それはともかく、べつに今すぐどうしても死にたい、あるいは死ぬしかないといった理由はないのだが、同時に、生きていたい理由も、ない。 それでしょっちゅう、生きることの面倒臭さが我慢の限界に達したら、さてどうやって死のうか、どうすれば死ににくい理由をクリアして楽に死ねるか、それを考えている。 命は大切なんだとか、貴いんだとかはちっとも思わない。自分の命にも実感はないし、他人の生死なんて「あ、そう」というのがいつだって本音だ。 少なくとも私は、命に重みなんて感じていないし、感じたことはない。 だからいつも思ってる。 だから、時々、私の書くおはなしの中の人物も思ってる。 「最悪、死ぬだけだ」 「どんなことでも死ねば終わる」 と。
変な話だが、実はこれはネガティブな発想ではない。 極めてポジティブでもある。 人間、どんなに悲惨な状況に陥ったところで、最終的には「死ぬ」という逃亡方法がある。これは最高にして究極の逃亡で、どんな借金取りも追いかけてはこない。借金取りに限らないが、少なくとも自分自身は確実に、これで嫌なものから解放される。 最強の切り札だ。 そしてそれは、自分の手にある。出すには非常に―――爆発する感情か、あるいは切々と思い極めた怨念か、はたまた漠然とした不安の甚大にして無視しえぬものか、なにかとても強いパワーが必要なのはたしかだが、自分がこの切り札を持っていることだけは、そして自分の意志でいつでも使えることだけは、間違いない。 私も貴方も、この切り札を出すパワーさえあればいつでも、どんなものからでも、確実に逃げられる。
こんなふうにして、本当につらくて耐えがたかったら死ねばいいんだし、と割り切ってしまうと、案外どんなことでも平気になるものだったりする。 もうほんとに嫌ンなったら死のう。 と私は思ってる。 精神的にでも社会的にでも、明日を生きていくのが本当に困難で苦痛に思えたら、まあ死ねばいいやな、と。 そうやって、生きている今の自分との間に、変な一線を引いている。 すると、たいていのことは、どこか他人事になる。 たしかに自分が抱えている問題ではあるのだが、いざとなったらいつでも放り出して逃げればいいと思っているから、半身でしか相対していない。本気にならないから、どんな結末もべつに怖くはない。 死という究極の破棄・放棄を手札にしている自覚があるから、どんな厄介事がのしかかってこようと、「まあ解決できるかひとまずやってみるか」くらいの余裕がある。 こんな有り様だから、精神的な負担はかなり小さくなった。 一歩引いている分少しは冷静だから、感情に囚われたり、パニック起こしてしまうと見えないものもいくらかは見えている。結果、余裕をもってその問題、まあ問題とは言えずとも日常の諸雑務を受け止め、こなすことができる。 人からどんなに「大変だぞ」とか「大変だろう」と言われても、いざとなったらまずは捨ててしまえばいいし、それでも逃げ切れないなら死んでしまえばいいのだから、べつにちっとも大変ではない。そういうスタンスでぼちぼちやれば、案外なんとかなってしまうものだ。そのために、べつに大変だとも思わずに淡々とこなすことができる。
大変なのは、生きていくこと、逃げないこと、捨てないことを前提にしているからでしかない。 無理に無理を重ねないとこなせないもの・ことなら、投げてしまえばいい。その結果どうなろうと、どんなに悪い結果になろうと、幸いにして死ねば必ず終わってくれる。苦しいのにつらいのに死ねない、逃げられない、なんてアンデッドの悲しみは、物語の中にしか存在しない。 そして、その究極の結末に到る前に、できることも他の道も、いくらでもあるものだ。思い切って捨ててしまい、頭も気持ちもリセットすれば、もっと負担のない生きる道も、見つかるかもしれない。 だから私は、究極の手札を持っている自覚と共に、とりあえずは逃げずにやってみる、ということを選ぶのだ。 無理をせずともできること、デフォルトの自分が普通にできることをする。少しがんばればできることならする。やろうと思えること、やってもいいと思えること、やるしかないなと思えることなら、ともかくやってみる。ただし、苦しくて仕方のないような無理はしない。 その上で、それで駄目ならいつだってやめる。 煩わしいものなら捨てる。 今まで辿ってきた道をすっぱり捨てたとしても、そう大したことはない。その後どう生きていくかというだけだ。案外どうとでも生きていけるものだ。 究極の手札に頼るしか方法がないような状況になんて、なかなか陥るまい。 むしろ、その手札のあることを知らずにいることで、悪い結果になったらどうしようと杞憂したりして、なかなか新しい道へ踏み込めなくて、今いる苦しい環境の中で追い詰められていくことだって、あるんじゃないか? 最悪、死ぬだけだ。 どんな苦しいことだって、死ねば必ず終わる。 だったら、どんなことでもやってみればいい。 気持ちに余裕があれば、一見大変そうなことでも、意外にあっさりとクリアできてしまうこともある。 私は、そういう形でこの切り札を扱い、生きている。
ところで。 それなりにあれなりな内容なので、読んだ人の中にはあれこれと思うものも生まれるかもしれない。 なんにせよ、私は私だ。 そして貴方は貴方だ。 私がどうあるかなんてことは、貴方には関係ない。 貴方は、どうするのか。 どう生きていくのか。 私は決して、「死ねばいいんじゃない?」とは言っていないし、言うつもりもない。 そこだけは、絶対にお間違いのないように。 |