俺が久しぶりに旅から帰ってきた時、家には妹がただ一人、眠っていた。 冬の厳しさが海からそのまま吹き付けてくるこの寒気の中、薄く古い毛布一枚にくるまっているだけで、顔色は見た目にも青い。 留守を頼むため雇っておいた女がいるはずだったが、俺はその時、「買い物にでも出ているんだろう」としか思わなかった。 そして、このふたつきの間にめっきりと痩せ衰えた妹の姿を見ると、あの女はいったいなにをしていたんだと怒りを覚えた。 やがて妹が目覚めてから、俺は知った。 その女は俺が旅に出て十日もしないうちに、この家にある金目のもの全て、持ち逃げしてしまったのだ、と。 半月前までは隣家の寡婦が世話を焼いてくれていたが、彼女はいまや故人だった。
この海沿いの小さな村にさえ、野盗が出没するようになっていた。 徒党を組み、力任せに強盗をはたらいていくような連中で、良心があるのかどうか疑わしいほどに好き勝手をするという。 隣の家の婦人は、広場で遊んでいて野盗に囲まれ、蹴り回されていた我が子を守ろうとし、殺されたという。結局、ユトという息子ともども。
村人の大半は、少しでも安全な場所を求めて、大きな町へと引っ越していった。 残っているのは、もう生き長らえることを望みもしないような老人たちと、妹のような病人だけだった。 俺が後でいいと言っても、妹は咳き込みながらもそれだけ話し、最後に、 「お兄ちゃん、どうしていてくれなかったの」 と小さく呟いた。 海の色に似た目に、涙が揺れていた。
俺がいれば、ザコに等しいような連中なら追い払ってやれる。 だが俺は、この村そのものを救いたいと思うような善人じゃない。 まとまった金を手に入れたら、都に家を見つけてそこに移り、いい医者に妹を見せる。そして人並み程度でいい、健康に、何事もなく暮らせればそれでいい。 俺はそのために、賞金稼ぎになった。 そして、「首」を探して旅をしていたのだ。
この旅で俺が稼いだ額は低くはなかった。 あと一息で、俺の望むだけのことができるようになる。 今少しだけ我慢していてくれ、と俺は妹に言い聞かせた。 もちろん、お人好しの妹に聞き入れてもらうためには、多少の嘘は必要だ。 俺一人では野盗を追い払うことはできないし、奴等は一度負ければ次には人数を増やしてまたやってくる。そのためには徹底的に痛めつけて二度とここに近づかなくなるようにしなければならない(殺してしまう他ない、とは言えなかった)。野盗退治に協力してくれるような人を見つけるためにも、いくらかの礼金は必要だ。 俺がそう言うと、妹は眉をひそめはしたが、渋々と頷いた。 そして、 「またすぐに出かけるのね?」 と。
聡い娘だ。 体を壊すまでは、この子には両親の他に足りないものなどない、とよく言われた。体を壊した時には、なにもかもに恵まれすぎていたから、釣り合いをとるために神様がそうしたのだ、と言われるほどに、頭も良ければ気性も明るく優しく、そして誰からも可愛いと言われるような娘だった。 下手な嘘は、見破られてしまうだろう。 俺は正直に、ここから山一つ向こうに盗賊が逃げ込んだという話があることを教えた。 (生死を問わず)捕らえてくれば賞金が出る。 そいつは盗みに入るたびに、気が付いた家人を殺していくような悪党で、賞金額は安くない。だが、そう武術の心得があるわけでもないらしい、という情報を、俺は裏で手に入れていた。 楽な仕事だ。 二日もあれば帰ってこれるだろう。 いや、今すぐに出れば、明日の夜には間に合うかもしれない。 医者もいなければ遊ぶ場所もなく、楽しみもなく、そのうえ野盗まで出るようになったこんな村に、妹を置いておきたくない。 俺は旅の荷物だけ下ろすと、刀の具合を確かめて、家を出た。
目指す山に入った時には、もう夜は明けかけていた。 眠ってはいなかったが、あと少しだという思いのせいか、眠気は訪れてこない。 俺は盗賊が隠れ家にしているらしい洞窟を探し、山中を歩いた。 そして昼前。 細く立ち昇る煙を見つけた。 川に落ちたかどうかしたのだろう。 この冬に水浸しの格好でいては凍死しかねず、やむなく火をおこして服と体をかわかしているようだった。 がたがたと震える自分の体を抱いて小さくうずくまったまま、俺に気付いている様子はない。 気配を殺し、足音を殺して近づく。 そして、背後から。 ……俺に剣を教えた師匠なら、卑怯な真似だと眉をひそめるだろう。 だがこれは試合でもなければ、果し合いでもない。 「狩り」だ。 獲物に気付かれないように確実に仕留めることだけが、肝心だ。 研ぎ上げた刃の冷たさを、奴は感じたかどうか。 俺はなんのトラブルもなく、仕事を片付けた。
その首を手近な都市の保安係に引き渡し、少し待たされて、礼金を受け取る。 被害に遭ったという家の、主を殺された未亡人が、どこから話しを聞き込んだものか駆けつけてきて、俺の手をとった。 何度となく「ありがとうございます」と繰り返し、礼金は国が出したものでしかないから、ぜひ自分にもなにか礼をさせてほしい、と言う。 最初は断ろうと思ったが、ふと、この町になんとか住まわせてもらえないか、それを頼んでみようと思いついた。 俺は、病の妹がいることと、村の環境があまり良くないことを告げ、いい医者のいる、安全な町に引っ越したいと思って準備をしているところだ、と話した。 婦人はすぐさま、それならうちの家作にあいているところがあるから、ぜひそこに来るといい、と請合ってくれた。
案内されたその家は、小さく古いものだったが、手入れが行き届き、清潔で静かで、隙間風が吹き込んでくるようなこともなく、そして今の家とは比べ物にならないほど、明るかった。 こんなところに暮らせれば、妹の気持ちも自然と明るくなるだろう。 家賃は格安でいいし、知り合いの医者に腕のいいのがいるから紹介する、と約束してもらい、俺はこれで万事がうまくいった、と久しぶりに軽い足取りで町を出た。 厄介事は今日で全て終わり、明日からは新しい暮らしが始まる。 それはさして豊かではないにしても、今よりはずっと穏やかで明るい日々のはずだ。 妹の病も、栄養のあるものを食べてちゃんと薬をもらい、落ち着いて過ごせば必ず良くなる。 これまでの苦労と不幸が、やっとここで終わり、報いられる。 俺はいつしか、走り出していた。
俺の足は、村の見える丘にさしかかったあたりから、止まることも歩くことも許さなかった。 村が燃えていた。 陽の落ちた空が赤く染まり、その中に黒と灰色の煙が太く細く、風にたなびく。 風向きがふと変わると、焦げ臭い木の匂いがここまで届いてきた。 村が燃えている。 俺の村が。 妹のいる村が……!
「ターユ!!」 かろうじて炎には無視されていた家に飛び込む。 妹はいた。 だが……。 ベッドから半ば落ちた頭、床に広がった毛布。か細く痩せた手足はでたらめな方向に投げ出され、目は開いたまま、瞬きもせず、何処を見ているかも分からない。 引き裂かれた衣類はほとんど体に残ってはおらず、両足の間は、真っ赤だった。 そして、首には青黒い跡。
俺が復讐するべき相手は、最早ここにはいなかった。 逃げる間際に火を放っていったのだろう。 そうだと教えてくれる者一人、残ってはいなかったが。 俺は妹の体を古びたシーツに包んで背負い、村を出た。 行き先などなかった。 俺の村はもうない。 妹の待つ家もない。 明るい家など、俺一人で訪れても意味はない。
何処に続いているのかも分からない道を歩いていくうちに、泣いているという自覚もなく、いつの間にか目が濡れ、頬が濡れていた。 すれ違う旅人が、時折気の毒そうな顔をする。 ふと見れば、シーツの合間から妹の腕が零れていた。 白く濁った、死人の腕。 腐臭が漂いはじめている。
俺はやっと、このまま醜く腐らせて、それを人目に触れさせるのだけはなるまい、と考えた。 どこかに葬ってやらなければならない。 どこへ? ……妹は、なにもない村だったが、海の見えるあの村が好きだった。 寝込んでから俺は旅に出ていることが多く、そんな話を訊いたことすらここ数年はなかったが、昔、こう言ったものだ。 大人になるとみんな都会に出て行く、という話をした老人に、「私は騒がしい都会よりこの村が好きだから、ここに来てくれる人と結婚するのよ」と。 子供の他愛ない夢。 今もかわらずにそう思っていたのかどうか、俺は知らないが。 俺は、来た道を引き返し始めた。
海の見える木立の合間に、半日がかりで深く大きな穴を掘った。 野犬に掘り起こされないように、俺の背丈ほどもある穴。 その奥に妹の体を横たえて、穴の外に出る。 だが、傍に盛り上げてある土をかぶせることが、どうしてもできなかった。 白濁し、強張り、まるで別人のような顔だが、それでも俺の可愛いターユの白い頬に、薄汚れた色の土を乗せるのはしのびなかった。 ターユの顔は、最期の時間の苦痛も恐怖もない、ただの死に顔だった。 穏やかとも言えない、本当にただの死に顔だった。 生きている人間にはできない、死者の顔。 「穏やかな死に顔」なんて言葉を読んだり聞いたりすることがあるが、そんなものはないんじゃないかと思った。 死者の顔は、みんなこんな顔に違いない。
だが、それとも、もし心安らかに息を引き取れば、穏やかに、微笑んだまま終わることもあるのだろうか。 もし……もし、病がどうしようもなく重くなっていっても……一番最初の旅に出る時、ターユは言った。「お兄ちゃんが一緒にいてくれたほうがいい」と。 そして…………。
「なんだ。元気ないな。悪いのか? ひどくなったのか?」 「ううん。変わりないよ」 「だったら、どうしたんだよ」 「……ねえ、お兄ちゃん」 「ん?」 「お金なんていいから、うちにいてよ」 「バカ。おまえ、だったら治らないんだぞ」 「でも……元気なんか、なくなるよ。だって、一人でうちにいたって、楽しいことなんかなんにもないもん。私、ここのとこ、笑った覚えないよ」
あれは、何度目の旅から帰った時だっただろう。 俺は「今しばらくだけ我慢すれば、元気になって、俺もずっとうちにいる」と……。 それから何度旅に出て、何年たったのか。 妹の体が少しずつ悪くなり、医者を頼むのに必要な金額がどんどん膨れていったのは、俺のせいだったのだろうか。 俺がずっと家をあけっぱなしで、寂しい思いばかりさせていたから、心は塞がるばかりで、病は重くなるばかりで、もし俺が子供の頃のようにいつも一緒にいれば、俺の言ったくだらない冗談に、「そんなの笑えないよ」と笑うこともあって―――。
俺が殺した。
金なんかいいから、俺がうちにいてやりさえすれば、少なくとも昨夜うちにいてやれば、ターユを連れて逃げることくらいできたのに、妹を殺したのは、誰でもない、この俺だ。 穴の縁に膝をつくと、もろくなっていた部分が崩れて、俺は穴の中にまっさかさまに落ちた。 妹の体は生きている人間のようではなく、硬くもなければ柔らかくもない屍だった。 どこかがぐしゃりと崩れて、崩れたまま戻らないような感触だった。 俺は穴の底に落ちたままの格好で蹲り、誰か、誰でもいいから、そこの土をここに落としてくれと願った。 俺ごと、この穴を埋めてくれ、と。
いっそこのままこの穴の底で、朽ちていく妹と一緒に、俺も腐ってしまおうかと思い、そんなことをしても誰も喜ぶ者も嘆く者もなく、俺という人間は人に忌み嫌われる悪党ですらなく、いないほうがマシとさえ言われない、もう完全に無意味なものなんだと暗澹とした思いで自嘲した時。 野卑な笑い声がかすかに聞こえた。 俺は反射的に顔を上げ、耳をすました。 風に乗って聞こえてくる声は小さく、なにを言っているのかは分からなかったが、分かることもあった。 これはきっと、例の野盗どもの声だ。 一気に俺の血が熱くなる。 そうだ。 どうせ死ぬなら、奴等も皆殺しにしてやらなければ気が済まない。 罪もなにも知ったことじゃない。 ターユを殺しておいて、のうのうと笑っていることなど絶対に許さない。 俺は穴から這い出すと、腰の刀を確かめた。 外すことも忘れ、つけっぱなしにしていた愛刀を。
待ってろ。 今に、全員、殺してやる。
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