現在


 傾きかけた小屋は野草と蔓に覆われ、丈高い叢の中に隠れつつある。
 こんなところを帰る場所にはせず、手入れなどもってのほか、朽ちるままに任せておけ、というのは師匠たる老人の遺言の一つでもあった。
 表に倒れ草の生えた戸を乗り越えて小屋に入ると、穴のあいた天井や、朽ちた窓から零れてくる日差しのせいで、中は充分に明るかった。
 床もあちこち穴があき、そこから顔を出した雑草が、洩れた光の中で逞しく育っている。擦りきれた敷布やシーツは虫食いだらけで、ベッドの上には座ることも躊躇われるが、老人が死ぬ間際まで愛用していた、銅製のカップはいまだ健在で、枕もとにあった。

 初めて連れて来られた時、老人の家には妻ではないという老女が一人いて、帰ってきた老人にいきなり張り手と説教を見舞った。
 しかし明るく闊達でさばさばした性格で、老人が連れて戻ったビサラについては、素性一つ追及するでもなく、
「ああそうですかいな。そんなら、炊事や掃除はやらせていいと? 一つアンタ、よろしく頼みますわいな」
 といきなり洗いたての洗濯物を押し付けてきた。

 老人はビサラに、この女の独特の口調をまるで真似して身につけろ、と言った。
 それが最初の修行だということだった。
 それとは別に、あれこれと手品のタネややり方、コツから、人の心を読むすべ、話術、音曲から様々な知識まで、老人は事あるごとに聞かせ、やらせ、試させた。
 ことに知識にいたっては膨大なものがあり、詮索するまいと決めたビサラでさえ、老人がかつては何をしていたのかと気にかかったほどだ。
 道化になっても一筋貫いた品があるところから、元は一国のかなりの地位にあったのではないか、と推察はしたが、確かめることはなく、そのまま時は過ぎ、ビサラが弟子入りしてから八年後、老女、次に老人と、半年違いで大往生を果たした。

 死後に残されたのは遺言を書き付けた紙切れと、一振りのナイフ。
 遺言は簡単なものだった。
 もう授けられるものは全て授けたから、あとは自分で工夫していかようにもすればいいということ。
 病気をしたり老いたりして旅が辛くなるのでないかぎり、ひとところに長くとどまらず、あちこちを旅して回れ、ということ。
 家財道具については好きに処分して、最初の旅の資金にすれば良いし、家も売れるなら売れば良いが、手入れなどは無用であること。
 屍は、老女と同じ、丘の上の墓に葬ってほしいということ。
 それに加えて、添えつけたナイフは水竜の鱗から削りだしたもので、自分の持つ物の中で唯一、世間的にも価値のある品であり、使うなり売るなり自由にして良いけれど、人を殺めるためだけに作られた両刃矛はこのうちに残し、できるなら二度と持ち出さないように、と記されていた。
 ただ、最後にこう書かれていた。
『だが、もしおまえがどうしてももう一度これを用いると決めたなら、それはよくよく考えてのことであろうと信ずる。二度とそのようなことにならねば良いと願うておる。』
 整然とした達筆で、遺言というよりは、手紙のようだった。

 その手紙は箪笥の中に仕舞っておいた。
 開けようとすると取っ手が外れて、その穴から、ほとんど切れ端になりながらも、かろうじて紙の体裁をたもっているそれが見えた。
(師匠。笑いだけでは守れんものがある。だから、とりに来た。だが、余計な者は殺めん。用が済んだら、また納めに来る)
 朽ちかけて足の折れたベッドは、引きずろうとした途端にばらばらになったが、その残骸の下にあった隠し戸だけは、これだけ丈夫なもので作ってあると見えて、虫に食われた痕もなかった。
 それを開けると、老人の昔を知る手掛かりとなりそうな包みと共に、ビサラの預けた双飛戟があった。

 ビサラは自分のものだけ取り出し、老人の過去には手を触れなかった。
 だいぶ傷んだ皮袋の中から取り出した矛をのばす。
 長い間触れていなかったにも関わらず、手には馴染んだ。
 狭い室内で、それを軽く操る。
 壁や棚にかすることもなく、自在に回る刃。
 その様に、さすがに驚いたのか、最初からずっとくっついてきていた気配が、大きく乱れた。

「竜坊ですかいな?」
 今気付いたように言ってやる。
「やっぱり気付かれたか」
 ジェスが決まり悪そうに出てくる。
「こっそり後をつけてくるなんて、お行儀悪いですよ」
「だって気になったからさ。ここは?」
「アタシの師匠のうちですよ」
「あんたに稽古つけたってことは、きっとメチャクチャ強かったんだろうなぁ」
「こらこら。芸事のほうですよ。こっちは全然違いますわ」
「なんだ、そうか。けど、こういうところに引きこもってた一流の武人、ってのもかっこいいと思ったんだけどなぁ」
「一流の芸人では格好つきませんか?」
「あ、いや、ビサラのお師匠さんのこと悪く言うつもりなんかないんだけどさ」
「分かってますよ。けどアタシは、半生を芸に費やして人を楽しませ続けた師匠のことは、武勲を百たてた武人より偉いと思ってますけどなァ」

 そういうことは、まだ血気盛んなジェスには分からないのかもしれない。
 そうかもな、とは言ったものの、腑に落ちないところがあるらしい顔だ。
 その顔がぱっとはじけたように期待に満ちて、ジェスがビサラの間近に寄ってくる。
「それより、あんたやっぱり隠してたな。只者じゃないっては思ってきたけど、ものすごい腕だ」
「そう買い被らんでくださいよ。こんなもんも芸のうちです」
 ジェスをそこにいさせたまま、ビサラは同じように両刃の矛を回して見せる。

「いーや、やっぱりすごいよ。けど、なんで急に? 今までこんなもの、持とうともしなかったのにさ」
「まあ、必要になることがあるかもしれん、ということですよ。いざとなって慌てるより、近くに来たついでにとってくるが利口ってもんでしょう。もっとも、使わずに済めば一番なんですけどなァ」
 留め金を外し、弾みをつけて三つに畳む。
 これを一瞬でやると、ジェスはまた面白そうにはしゃいだ。
「まあ、アタシにこれを使わせるとしたら、よっぽどみんなしてヘマやったってことです。そんなみっともないことにならんよう、せいぜい頑張ってくださいよ」
「なんだよ、やっぱり手抜きか」
「荒事が嫌いなのには変わりありませんわいな」

 不満顔のジェスを促して外に出る。
 ジェスは気付いていないが、ビサラがこの独特の武器を振り回せば、彼が何者か分かるものは必ず出る。
 老人が言ったとおり、武人ではなく芸人の顔つきができるようになり、堂々と名を名乗ったところで、だれも怪しまないか、怪しんだところで本人だとは思わなくなったが、得物まで揃えば誤魔化しはきかない。
(俺がこれを振り回すことになったら、その時は、本当に最後の最後なんだぞ)
 腹が減ったから早く帰ろう、と先に立って走り出したジェスの背に、ビサラは小さく笑った。
「おーい、早く来いよー」
 振り返って招くジェスの向こうで、景色を茜に染める夕日が、明るく輝いていた。

 

(END)