回想2


 二ヶ月ほどして、思いがけずその時の老人と再会したのは、街道を外れた古い祠の中だった。
 日も落ちかけてから急に降りだした雨を避けるため、目についた祠の軒下に入ると、中にぼんやりと明かりが灯っていた。
 だれかいるのかと思ったが、顔を出したところで面倒が増えるだけだ。
 雨宿りならば軒で充分だし、このまま夜を迎えたとして、寒さに耐えられる程度には鍛えてある。
 そう思って軒下に腰を下ろし、ぼんやりしていると、背中のほうで壊れかけた戸が開き、顔を出したのがその老人だった。

「おや、おまえさんは。ちょいと前に一度会うたが……」
「芸人の爺様だろう」
「よしよし、覚えとったか。ほれ、こんなところにおらんで、入ってくれば良いものを」
 老人はビサラを見てもさして感情を動かすことはなく、ただ温和に笑いかけてきた。
 そういったことはこの一年半近い旅の間に一度としてなく、ビサラは思わず面食らって老人を見つめ返した。
「厄介ではないのか」
 ついそんなことを尋ねてしまったのも、驚いたはずみでのことだった。
 言ったあとで、なんという卑屈なことを口にしたのかと悔やんだが、もう遅い。
 老人はその問いにもやはり、とりたててどうとでもないことに答えるように、
「そう思ったら入って来いとは言わんよ」
 と言いながら、中に引き返した。

 入って来い、というなら嫌だと意地を張るのも馬鹿げている。
 ビサラが言われるままに中に入ると、古ぼけたランプの前に腰を下ろし、
「まったく、この雨じゃというに、雨宿りの気配はあるのに入ってもこん。もしや怪我でもしたのが、ここまで来て力尽きたかと思ったぞ」
 歯の揃った口を開けて面白そうに笑いながら、老人は手酌で酒を飲んだ。
 ビサラは老人の前にある酒肴から目を逸らし、息をひそめた。
 戦場からそのまま遁走し、鎧や貴金属などを売り払って工面した金だが、もうそろそろ尽きかけている。
 お尋ね者の身では大きな街には立ち寄ることもできないし、ナーガとあっては、そうおいそれと仕事も見つからない。
 稼ぐすべがなければ、金は減る一方だ。
 近頃では、このまま何処かで野垂れ死にか、と諦めも入ってきたところであるだけに、飲食物を見るのや、その匂いを嗅ぐのは遠慮したかった。

 ランプの火で干物を炙り、老人はそれを肴に飲んでいるらしい。
 どんなに無視しようとしても、その香は祠の中一杯に漂っている。
 空腹をこらえながら、かつての我が身と比べて自嘲するが、それも沈んだ思いに掻き消される。
 感情の爆発に任せて凶行を働き、飛び出したものの、それで生き長らえても、だからといって何をしようというのか、それがまるで分からない。
 あのまま何事もなく軍にとどまって功を重ねていけば、それなりの出世もでき、戦争がこちらの勝利で終結すれば、栄誉に包まれた安楽な生活が待っていただろう。
 だが、血まみれの武勲に喜々として胸を張る趣味はない。

 ああいう形であれなんであれ、戦う日々からこうして離れてみれば、分かるのは、自分には他に何もないのではないか、ということだけだった。
 だが、空っぽではない。
 何かがあるのに、その何かがいつまでも胸の奥底を覆う靄の中に隠れているようで、掴み取れない。
 何かしたいことがあるような気がするにも関わらず、それが何かが分からない。
 繰り返し思い出すのは、目に焼き付いて離れない血に染まった廃墟と、その中に消えた、名も知らぬ一人の少女の微かな笑顔。

(俺は、何がしたいんだ)
 心のうちで言葉にして問いかけてみるが、答えは出ない。
 胸の中にわだかまる鬱屈は、道さえ分かり開かれれば、澱みなく走り出すだろう。
 何かを成そうと道の先さえ見極められれば、それに向かう力は余っている。
 使い道がないまま身のうちに渦巻く力がために、やけに日々が息苦しい。

「おまえさんな」
 不意に老人の声がして、我に返ったと共に、干物の焼ける香ばしい匂いが腹の底にまで染みた。
 はっとして気を引き締める。
「なんだ」
「なんで味方を皆殺しになんぞしたんだね」
 まるで何事でもないように問いかけられて、ビサラは瞠目した。
 ビサラの首にかかった賞金は、家が一軒建つほどのものだ。
 腕に覚えのある者はなんとか褒章にあずかろうとするし、力及ばぬと思う者は恐れる。
 旅暮らしとおぼしき老人は、あの時のならず者が呟いた異名からか、ビサラが何をした何者か分かったようだ。
 そのうえで、咎める調子でもなく淡々と、「何故殺した」などと尋ねられることがあるとは思ってもいなかった。

 腕力でははるかにビサラのほうが上だろう。
 だが、知略ではどうか。
 この老人は思いがけず食わせ者なのかもしれない。
 そう思えば口も重くなり、自然、警戒せずにもいられない。
「そう気を立てなさんな。わしゃあなにも、おまえさんをひっ捕まえて売ろうとかいう気はないよ。老い先短い上に身よりもない、こんな大道芸の爺が大金を手に入れたって仕方なかろうさ」

「……恐ろしいとは思わないのか」
「おまえさん、自分で鏡くらい見たことあろうよ。そんな悪人面かね」
「そうではないが」
「わしゃあだいぶ耄碌したが、これでも目はいいほうでの。人がどんな顔しとるかくらい、ちゃんと見えとる。おまえさんがどんな顔をしとるかくらい、見えとるさね」
「老い先も短い年になってまで、まだ人を見かけだけで善人・悪人と決めているのか」
「まさかまさか。年相応にずるがしこくもなったわな。じゃから、ちゃんと見ておる。見ておればこそ、言うておる。人の命を鼻先で笑い飛ばすような輩には見えんのに、なんでそんなむごいことをしたのかと不思議になっただけじゃよ」
 酒気を帯びて赤くなった頬をてからせて、老人は屈託なく笑った。

 経緯を話す気になったのは、この老人が慧眼の持ち主であることと、自ら言うとおりあと何十年も生きるとは思えないこと、そして、ビサラ自身もこのままでは遠からずくたばるしかないと、諦めればこそのことだった。
 だが、語るとしても、事実だけを並べれば他愛なく短い。
「殲滅作戦で一つの町を潰した。俺はそこで、生き残りの小さい女の子を見つけた。惨状を目の当たりにしたせいか、虚ろな子だった。ものは見えているようだから、ちょっとした悪戯を見せたら、その子が笑った。……名を聞こうとした時に、射られて死んだ。カッとなって、近付いてきた奴を切った。あとは、取り押さえようとする連中を片っ端から。まさか切り刻んではいないが、切ったついでに首や腕が飛んだ者はあったろう。……そういうことだ」

「ふむ……」
 老人は小さく頷いて瓶の口を舐める。
「その女の子が笑った『悪戯』というのは、なにかね」
「それこそ爺さんに見せるほどのものじゃない。あんたと同じような、簡単な手品だ」
「ほう。あの変わった矛を扱うのを見た時から器用だとは思っておったが、そういう真似もするのかね」
「昔、隣に住んでいたのが変わり者の学者でな。そいつが教えてくれた」
「ほうほう、そうか。そんならおまえさん、そんなにくたびれる前に、そいつをちょいと披露すれば、いくらでも飯にくらいありつけたろうがね」
 言いながら、老人はビサラの前に、縁の欠けた小皿に乗せた炙りたての干物と、まだ封を切っていない酒瓶を転がして寄越した。

「いや、いい。これはあんたがああやって稼いだものだろう」
「そりゃあそうじゃが、昨夜ちょいと大きなお屋敷の娘さんに気に入られての。お屋敷で二、三見せてみたら、ご当主からたっぷりと礼金をもらえたんじゃよ。余分な金はさっさと使わんと、惜しむと腰が曲がる。金なんてぇものは、大事大事と抱え込むもんじゃあないさね」
「面白い爺さんだな。そう言うなら、もらっておこう」
 古びた皿の上の干物は、いかにもこのあたりの田舎で作られたものらしく味が濃かったが、素朴で、不味くはなかった。
 酒は安酒。
 それでももう半ば飢えかけている腹には心地好く染みる。

 それを、老人は何故かやけに神妙な顔で見守っていたが、不意に、
「おまえさん、後少しのこだわりさえ捨てられれば良かろうにの」
 しみじみと呟いた。
 その言葉の意味が分からず、ビサラは口元を拭って老人を見やる。
 老人は、ビサラの手の瓶を顎の先でひょいと示し、
「こんな薄汚い乞食芸人の寄越したものを、別に嫌がるでもなく飲み食いしおる。当たり前のナーガなら、飢えても御免と見栄を張るじゃろうよ」
「見栄を張れるほど堂々とした身か、この俺が」
「それもあるかもしれんが、おまえさんは余計なこだわりは持っておらんと見たが、どうかね」
「俺がナーガで、あんたがワータイガーということについて、か? どうでもいい。どう生まれつくかは、そいつに決められることじゃないからな」

「ふむ、やはりそうか」
「やはり、とは何がやはりだ」
「おまえさん、その気になれば道端で芸の一つや二つ、する気にくらいなれるんじゃろう。じゃが、ナーガであるがために、客はつかん」
 ぴたりと言い当てられて、ビサラは素直に頷いた。
「あんたのほうが腕ははるかに上だが、似たような誤魔化し事ならいくらかはできる。やってみたこともあるが、白い目で見られるだけだ。客が集まるどころか、四方にだれもいなくなるうえ、俺の顔を知っている奴がいたと見えて、役人が四十人ばかりも押しかけてきて、逃げるのに一苦労だった」
「顔が売れとるのは仕方あるまいの。まあ、それもこれもどれも、後一つのこだわり……引っかかりさえ捨てられれば、どうとでもなろうがの」

「その、さっきも言ったな。こだわり、というのはなんなんだ」
 また一つ、老人は炙った干物をビサラの前の皿に落とす。
「なんと言うたらいいか……」
 老人はじっくりと沈黙する。
 ビサラは、老人が寄越す干物で腹を満たしながら、じっと待った。

「そうじゃなぁ」
 酒がなくなりかけた頃、老人がまだ考え半分のような顔つきで呟いた。
「人がおまえさんを、何より先にナーガじゃと思うのと同じように、おまえさん自身も、おのれはナーガじゃから、と真っ先にそれを考えてしもうておる。それがいかん」
「……どういう意味だ」
「つまりの」
 老人は残り少なくなった酒を、ちびちびと舐めながら、
「おのれはナーガじゃからその辺の人に好かれることはあるまい、とハナから諦めておる。それがいかんのじゃな」
 きっぱりと断言した。
 まさにそのとおりだが、それは事実そうであり続けたことだ。
 歓迎されたことなど記憶にない。
 そう老人に言うと、彼は首を左右に振った。
「いいかね、おまえさんがハナからそう決め付けて、心を開かん。じゃから、関わるモンも皆、近寄ってはこん。だいたい、わしゃあ目はいいんじゃが……っと、これだから爺は同じことばかり繰り返すと言われるんじゃな。前に会うた時も、おまえさん、つまらなそうな顔はしとらんものの、にこりともせんで見とったろう。今も、さっきからちっとも笑わん。いつもそんな顔かね」

 言われて、ビサラは自分の口元に触れた。
 思い返してみると、ここ何年も、心から笑ったことなどない。
 近年にいたっては、この口を笑みに緩めたことさえあったかどうか。
 ……いや。
 一度だけ、思い出せる。
 人狼のあの町で、あの心の壊れた少女が笑った時、自分も安心して、笑ったような覚えがある。
 だが、それきりだ。
 その少女は無残に殺され、他の全ても死に絶えて、血に重くなった砂埃が、泥と化してぬるぬると下肢を浸し……。

「ほれ、またじゃ。そんな沈んだ顔でどんな芸をして見せたところで、客は笑わんよ」
 裂いた干物の先でビサラの顔をさして、老人はそれを口に放り込んだ。
 達者な歯で何度か噛みしごいて飲み込むと、あらためて口を開く。
「人ってものは、良かれ悪しかれ、ついついとつられるもんじゃからの。よっぽど腹でも立っておればともかく、笑っている連中といればつい笑う。怒鳴られればこっちもむっときて怒鳴りたくなる。イライラもうつるし、もらい泣きという言葉もある。人を笑わせたいなら、まず自分が笑うことじゃよ。他のだれより先に、まずおまえさんが、生きとることを楽しいと思うて、生きることを楽しんで、笑うことじゃ。そうすれば、おまえさんがナーガだろうがオーガだろうが関係なぞない。それこそ、面白い奴もいるもんだと、人くらいいくらでも集まろうよ。武人の顔をやめられれば、おまえさんがだれか、目の前に見ても気付かんようにもなろうよ」

 そうなのだろうか。
 そんな簡単なことではないような気もするが、老人の言うとおりにも思える。
 ビサラが考え込むと、
「わしと来るかね」
 老人が言った。
「あんたと?」
「おまえさん、どうせなら本腰入れて芸を身につけてみんかね。わしには及ばんというなら、わしと同じくらいのことはできるように仕込んでやろうさ。そろそろ冬も来る。うちに戻ろうかと思っとったところでの。屋根もあれば畑もある。食い扶持が一人増えたところで、旅暮らしほど難儀はすまいさ」

「何故そんな酔狂な真似をする」
「わしにもちゃんと思うものはあるんじゃよ」
「思うもの?」
「おまえさんには分かっとろうが、ひどい世の中じゃ。おまえさんだけじゃあない。笑って暮らせるモンの少ないこと少ないこと。飯の役にも国の役にも立たんような芸事なぞしとる暇はないと、みんなしてあくせくおろおろしとる。どうせおまえさん、追っ手に捕まっていずれ死ぬ覚悟くらいしとるんだろう。じゃったら、腹をくくって芸に命かけてみんかね。人を笑わせることに、その命、使うてみんかね」

「芸に命、とは、また大きなことを」
「たかが芸、にするか、されど芸、にするかは、おまえさん次第じゃよ。わしゃあ、命懸けでやる甲斐のある仕事じゃと思うておる。それにおまえさん、人の笑顔がどんなに大事か、よう分かっとるじゃないか。だから、それを奪うモンを許せなんだのじゃろうが」

 言われても、たしかにそうだとは言えなかった。
 だがそうでないとも言えない。
 ただ、なんの目的も見出せない暮らしよりは、老人についていくのは、有意義と思えた。
 そしてふと、成さんとすることなどなんでも良いのではないかと、という思いが湧いたせいもあった。
 何か意義があり、そのために力を惜しまずに打ち込めることであれば、どのようなことでも構わないのかもしれない。
 それが、笑いを忘れた人々を笑わせ、楽しませることになるなら、悪くないどころか、なかなかいいことではなかろうか。
 かつて猛将として知られ、「百片殺し」などと忌まわしい通り名を授けられた者が、戦の役にはまるで立たない芸に生きる、というのも、ハナから人を小馬鹿にしていて面白い。

「分かった。厄介になろう」
「よし、決まりじゃ。わしももういい年じゃからな。あとを任せられる弟子が欲しかったところじゃ」
 老人は音高く膝を叩き、満面の笑みを浮べた。そのあまりに嬉しそうな笑顔に、ついつられてビサラ自身も苦笑したことに、本人は気付いていなかったが。

「まずは、わしのことは師匠とでも呼んでもらおうかの。ちゃんと弟子らしくせぇよ」
「分かった……いや、分かりました、か」
「そうじゃそうじゃ。うちについたら、掃除だの洗濯だのもやってもらうからの。それから、その物騒な道具は、わしに預けておけ」
「これか? ……分かっ……りました」
「おまえさんほどの腕があれば、こいつで充分じゃ。ええとたしか……」
 老人はごそごそと大きな荷物を探り、その中から、紙でできていると思われる、大きな扇のようなものを取り出した。

「なんだそれは」
「なんだ、じゃなかろうが」
「ああ、そうだった。なんですか、それは」
「ハリセン、と言うてな。こうして……」
 と老人はそれで床を叩く。パァン、と派手な音が鳴り響いた。
 どうやら蛇腹になった紙同士が、叩いたショックで打ち合わされて、音ばかり大きく鳴るらしい。
「まあ、こんなもんじゃあ思いっきりどつかれたところで、痛いだけじゃ。何か面倒事があったら、適当にどついておいて、逃げるほうが利口というもんじゃ。何も血を流すことはない」
 ぽん、とハリセンをビサラの手に押し付けて、老人は大きな欠伸を一つすると、ごろりと転がった。

 ビサラがハリセンをあれこれと検分しているうちに、盛大な鼾が聞こえ始めた。
 酒に赤くなった顔で、太平楽に眠っている老人を見やり、ビサラは乏しい荷物の中から、防寒用の毛布を取り出すと老人の上にかけてやった。

 

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