シンさんの空

 チヨコは、ある画家と付き合っていた。
 付き合っていたといっても、師と弟子、あるいは年の離れた友人のような関係で、男と女ではあっても、男女の関係ではなかった。
 画家をチヨコはシンさんと呼んでいた。
 はじめは先生と呼んだのだが、それを画家は嫌ったのだ。
 チヨコはいろいろ考えて、画家が一番呼んでほしそうな呼び方を考えた。シンさんは正解だった。
 しかしチヨコは画家志望ではない。チヨコは小さい時から写真が好きで、カメラマンになることを望んでいた。人の喜びや悲しみ、あるいは日常の匂いというものを写真で表現することが目標だった。
 チヨコがシンさんという画家を知ったのは、大きな絵画展でのことだ。
 友人に誘われて仕方なく付き合ったそこで、チヨコはシンさんの絵を見た。
 鮮烈な赤とオレンジ、黄色。うねるようなグレーの影。そのすさまじい色の乱舞、爆発の起点とおぼしき純白と微かなブルー。
 思わずなにかを叫びだしそうになった。わーっとでもぎゃーっとでも、声のかぎりに叫びたくなるような絵だった。自分の内にたわんでいたエネルギーの、爆発を促す絵だった。
 一緒に来た友人は、もっと分かりやすい具象画のほうが好きなようだったが、チヨコは一通り眺めて回った後でまたその絵の前に行き、もう帰ろうといわれるまでずっと見つめていた。そして帰りには、その画家の名前を覚え、売店で絵葉書を買った。画集がほしかったのだが、手持ちでは足りないほど高かったのだ。
 絵葉書は本物の絵ほどのエネルギーをくれなかったが、それでも、見ればあの絵が脳裏に蘇ってきた。そうするとチヨコは、自分の中に眠っている膨大なエネルギーを感じることができた。
 写真家になりたい。そんな思いを邪魔する様々なものと対決する力が、体の奥からふつふつと湧いてくる絵だった。
 だから、その画家の個展があると知った時には、絶対に行きたいと思った。
 チヨコはこれまで、素人の集まりのような写真展には行ったことがあったが、世界的にも有名な画家の個展など、頭の中に思い浮かべたこともなかった。だから、簡単に入れるのかどうかが分からなかった。招待されていないと駄目なのではないか、追い返されるのではないかと不安だったが、それならその時に帰ればいいし、頼み込んでみればいい。とりあえず行ってみよう。そうすれば、案外呆気なく入れてもらえるかもしれない。
 地下鉄でその場所を記した地図を見つめながら、チヨコの胸は始終高鳴っていた。もし画家本人がいて、会えてしまったらどうしよう、なんて言おう。ぜひあの絵の感想は言いたいけれど、素人にあれこれ言われるのは大嫌いかもしれない。そもそも入れるだろうか。入れなかったらどうしよう。警備員のような人が見張っているに違いないから、あの絵の大ファンだからなんとしても見たい、他の絵も見たいのだと懇願してみようか。駄目かもしれないが、頼んでみないよりはいい。
 それにしても自分は、こんなに積極的な性格だっただろうか。いつもなら、どうせ駄目だからと諦めてしまうのではないだろうか。だが今自分は、目的の場所に向かって電車に乗っている。
 手が熱く汗ばんで、パソコンでプリントアウトした地図が少し湿っていた。
 チヨコの不安は、ある意味当たり、ある意味外れた。
 その日は特定の招待客だけを招いた日で、一般客は入れていないと言われたのだ。
「ですから、明日来ていただければどなたでもご入場いただけますよ」
 入り口に立った係員は優しくそう言ってくれた。
 だが、チヨコは泣きたくなってきた。明日からゼミの合宿なのだ。行かなければ単位がもらえない。大学を卒業できない。あまり裕福でもないのに私立の美大に入ったものだから、ただでさえ親の目は厳しい。留年したとなったら、どんな嫌味を言われるか分からない。
 だから、明日は諦めて、ゼミに行くしかない。
 たったそれだけのことだ。それだけのことのはずなのに、チヨコの目には自動的に涙が溜まり、零れだしてしまった。
 狼狽したのは係員だった。明日なら入れるというのに何故泣き出したのか、彼には分からなかったのだ。けれど、切実なわけがあることは見れば分かる。どうかしたのかと尋ねてきた係員に、チヨコは事情を説明した。個展は極私的なもので、たった三日間しか開いていない。今日がその一日目で、明日と明後日、自分はゼミの合宿に行くしかない。見れないのかと思ったら、泣いてしまったのは自分でもよく分からないのだと。
「先生の個展は、またきっとやりますから」
 係員の言うことはもっともだった。けれど、それがチヨコの行ける範囲で開かれるのは、何年先なのだろうか。だが、この優しい係員にこれ以上の迷惑はかけたくなかった。
「そうですよね。すみません」
 チヨコは懸命に笑った。
 たぶんたまたまの偶然だろう。その時本当にたまたま、その画家本人が入り口のすぐ傍に来たのだ。後で聞けば、約束していた友人がずいぶん遅れているから、少し心配になって覗きに来たのだそうだ。
「どうしたの、セキジマくん」
 画家は気さくに係員に声をかけた。セキジマという係員は事情を簡潔に画家に説明した。チヨコは、目の前にあの絵を描いた人がいると思うと、頭がぽうっとなって空ろに見つめるばかりだった。
 初老というにはまだ若いが、チヨコにとれば父親くらいの年齢だろう。あまり豊かではない髪を丁寧に後ろに撫で付けて、額がきれいに出ている。原色を配した派手なサマーセーターだが、それがやけにしっくりと似合っていた。見た目にはどこもエキセントリックなことはなく、ちょっと派手で気のいい、ハンサムではなくてもかっこいいおじさんという感じだった。
 チヨコは、せめてあの絵の感想を言いたいと思った。生まれてからこれまで、あれほどの衝撃に出会ったことはなく、揺さぶられたこともないのだと。
 ほとんど無意識に、チヨコはセキジマの言葉をさえぎって話し掛けていた。
 だが、残念ながら国語や作文は得意ではない。それがのぼせ上がっているのだから、支離滅裂な内容だっただろう。チヨコにはろくに記憶もないが、ただバカみたいに、感動した、すごかった、自分の中が燃えるようだったと繰り返したことだけは、覚えていて恥ずかしい。
 そんなチヨコに画家は少し驚いたようだったが、
「うんうん」
 と頷きながら、微笑みながら、その言葉を受け止めてくれた。
 チヨコの言葉が途切れると、はにかむような、それでいてたまらなく嬉しそうな顔をしてにかっと笑い、
「セキジマくん、ぼくの正真正銘の大ファンだよ。入れてあげよう。ぜひぼくの他の絵も見てもらいたいよ。さ、カサイさん。あの絵もあるよ。他にも君の心に火をつけられるものがあるといいけど」
 画家はあたたかい手でチヨコの肩を抱き、中へと入れてくれた。
 中には様々な絵があったが、全てがチヨコの琴線に触れたわけではなかった。そしてあの絵ほど強烈なものもなかったが、二、三なにかを感じる絵はあった。
 どれも素敵です、とチヨコは言おうと思った。だが、画家の目を見ると、そんな嘘はたちまち見破られるだろうと思えた。この画家をそんなふうに怒らせることが、チヨコには何故か非常に恐ろしかった。それよりは、やっぱりあれが一番いい、と言って怒られたほうが格段にマシな気がした。
 ようやく落ち着いてきたチヨコは、それでも少し上ずった声で、
「私、あの22番の絵が一番好きです。15番とかもなにか感じますけど、やっぱりあれほどこう……かーっとはなりません。すみません」
「なに謝るの。やめてよ。そんなのおかしいでしょう。ぼくの絵ならどれもカサイさんの心を揺さぶれるはずだなんて、そんなことおかしいよ。そうか、カサいさんはあれが一番好きなんだ。ぼくもね、あれはちょっと自信作だよ。ぼくの中に満ちているエネルギーを、どうにかして他の人にも伝えたい、分けてあげたいって一心で、丸二日くらいぶっ続けてカンバスに向かってたんだ。いやぁ、嬉しいね。カサイさんにはちゃんと伝わったんだもんな。いやぁ、どうしよう。あははは。本当に嬉しいよ」
 チヨコは、嬉しくてまた涙が出そうになった。

 それが縁になって、チヨコはその画家といくらかの交流を持った。画家は、チヨコの家から電車で一時間ほどのところに住んでいた。
 有名な画家が、こんななんでもない女子大生のために貴重な時間を割いてくれるのは、あまりにも勿体無いと思ったが、
「画家だって人間だよ。いつもふんぞり返って絵描いてなきゃいけないとしたら、ぼくは画家なんてやめるね。チヨちゃんとこうして話してる時間だって、ぼくの心を刺激してくれる。ぼくは今も、年甲斐もないほど自分が情熱的だと思ってるけど、それでも、他の人の情熱を感じると触発されるんだよ。ぼくはチヨちゃんの写真、好きだな。まだ気持ちが全部は入ってないように感じるけど、なにかこう、こういうのが撮りたいんだけどどうすればいいのか分からない、って足掻いてる感じがするね。その足掻きの部分ね。まだまだぁっ、ていう気持ち。チヨちゃん、写真続けるといいよ。いつかこれだってものに出会えるかもしれないし、出会えないかもしれないけど、きっと大切な時間になると思うから。そうそう、大学と親御さんね。大学はちゃんと卒業するんだよ。ぼくとしては、そんなものどうだっていいって思うけど、たぶん、そうしないとチヨちゃん自身が、すっきりと写真に向かい合えないでしょ。大学ちゃんと出て、自立してからでないと、言えないでしょ。私の人生は私のものなんだから、お父さんたちは口出さないでって。ぼくなんかだったら、親に後足で砂かけちゃうけどさ」
 あはははは、と磊落に笑ってくれるシンさんと過ごす短い時間は、チヨコにとってもかけがえのない、大切な時間になっていった。
 チヨコは自分にルールを決めた。
 シンさんが仕事に取り掛かっている時は絶対に邪魔をしないこと。そして、シンさんに嘘はつかないこと。そして、シンさんがもし困るようなことがあったら、自分にできる範囲でいいから、力になってあげること。
 初めてだった。本当に相手のため、相手のことを思って話し、考えるのは。
 今こんな泣き言を言ったら、シンさんの負担になるかもしれない。甘えるのはやめて、まずは自分で取り組んでみて、どうしても難しいことになったら、その時に相談しよう。両親と大喧嘩した時も、気持ちとしてはすぐさまシンさんのところへ飛んでいって泣き喚きたかったが、我慢した。それはただの甘えで、シンさんの迷惑にしかならないと思ったからだ。そのかわり、もう家に置いてもらえないかもしれないようになって、相談した。まだ大学三年生の自分が家を出て暮らすとしたら、どういうことを考えなければならないだろうか、と。
「学費は奨学金だね。生活は、そうだね、少しくらい遠くてもいいからできるだけ家賃の安いアパート見つけて、しばらくは倹約生活しなきゃいけないかな。したいことの半分もできなくなるかもしれないけど、そこは負けちゃ駄目だよ。そこで負けておけば楽だけど、そのかわりこの後ずっと、負けたままで生きなきゃいけなくなるかもしれない。挽回することもできるけど……、ねえチヨちゃん。今勝てなかったものに、後でなら勝てるだろうって、それはちょっと楽観的すぎるよね。決意っていうかさ、意志っていうか。この正念場で発揮できなかったら、きっと後でだって発揮できないよ。だからさ、こうしたらどうかな。三年って決めるの。三年は、たとえばどんなにいい機材が出てどんなにほしくても、今のカメラで我慢する、って。それで、その三年の間は、学費を作ったり学校を出たり、生活の基盤を確保するために費やすの。ただ我慢するのはつらいけど、三年後にもっと自由になるための準備期間なんだって思ってね。卑しい思いでいじいじと我慢しちゃ駄目だよ。意気揚揚とね、嬉々として我慢するんだ。チヨちゃんさ、空と鳥の写真持ってたでしょ。あれ大きく引き伸ばすのがいいな。三年後の自分がこうなってるために、今コツコツと準備してるんだって感じでさ」
 それから半年後、チヨコは自分で撮った自分のお気に入りの鷹、あるいは鳶か鷲かもしれないが、崖の上を悠然と滑空する大きな鳥の写真と、シンさんの22番を、古くて安いボロアパートの壁に飾った。
 チヨコの夢は、人を感動させられる写真家になることともう一つ。たとえ何年、何十年かかってもいいから、シンさんの本物の絵、できるならあの22番を買えるだけのお金を貯めることだった。
 買うのではない。あの絵は、みんなのものであるべきなのだ。かつて自分があの絵を見て感じたようなことを、他の誰かもきっと感じるだろう。自分の奥に眠っている思いを揺さぶられ、一歩を踏み出すだろう。そんなものを、独り占めしていいわけがない。
 ただ、あの絵を自分のものにできるだけのお金を作ってみるのだ。もちろん、最大の目標があるから、あくまでもついでになる。
 シンさんは、
「うん。もともと個人で買いたいなんて人に売るつもりもない絵だし。そのかわりあれ、気分的にチヨちゃんの予約ね。でも高いよ?」
 と言った。
 チヨコは受けて立ち、もしそんなたくさんのお金を貯めることができたら、それでシンさんと世界中を旅行し、たくさんのものを見て絵を描いて写真を撮るのもいいなと思った。
 チヨコは―――いつの間にか、シンさんのことが世界で一番好きになっていた。
 時にはシンさんに抱かれることを夢想するような意味で、好きになっていた。
 もちろん、求めることはしなかった。
 シンさんは父親と変わりないほどの年で、若い頃は派手に遊んだらしいが、奥さんもいない有り様だ。チヨコのことも、一度としていやらしい目で見たり手で触ったことはない。あれご覧よと言って肩をさりげなく抱く時も、あくまでも優しい男性のそれで、日本人離れした当たり前さがそこにあるだけだった。
 このままでいい。チヨコは本心からそう思っていた。ただ少しでも長くシンさんと過ごせればそれでいいのだ。抱くだの抱かれるだのということは、その後のものでしかない。そんなものはきっと、シンさんに、
「描きかけの絵って、あんまり人に見せないんだけどね、ちょっと行き詰まってて」
 と半分ほどの絵を見せてもらう時の喜びに比べれば、どうということもないだろう。
 シンさん。
 シンさん。
 シンさん。
 なに、チヨちゃん。
 いつもいつも、ありあまるほどのものをもらっているのだから、応えてもらえるのは三回に一回くらいでも充分すぎるほどだった。それだけでも、泣きたくなるほど嬉しかった。

 半年ほど外国に行くから、と言ってシンさんが日本から旅立ち、そして帰ってきた時には、チヨコはもう二十七歳になっていた。
 シンさんとの付き合いも六年になる。
 出て行けという言葉に素直に出て行き、それで平然と、親を恨むでもなく楽しそうに生活していたチヨコに、折れたのは両親のほうだった。もう子供ではないし、自分たちの意のままになるようなものでもないと思い知ったのだろう。そして、認めたに違いない。この子はちゃんとした子だ、と。
 近頃はなんのわだかまりもなく、母娘で買い物に出かけて食事をし、帰りには映画を見るような仲で、父親が不貞腐れている。
 シンさんから「帰ってきたよ」とメールが届いたのも、母親と食事をしていた時だった。
 店を出る前にトイレに立ち、そこでこっそりと画面を確かめ、チヨコはすぐに「お帰りなさい」と返信した。シンさんのことは、さすがに両親はいい顔をしないだろうから、いくらかは秘密にしているのだ。
『お土産があるよ今度の日曜日会える』
『お土産楽しみです。いつもどおり、お昼過ぎに遊びに行きます。この間白山に登りました。なかなかいい写真が撮れたので、シンさんにもぜひ見てほしいです。持っていきますね』
『ぼくも楽しみにしてる今日はおやすみ』
 無駄な言葉も句読点もないメール。面倒だし、読めればいいでしょ。意味がおかしくなりそうな時だけでいいよ。そんなシンさんからの独特のメール。携帯電話は持っていても、メールは面倒で使いづらい、操作もよく分からないと言うシンさんに、チヨコが教えた成果だ。それでもあの小さなキーを何度も叩くのは面倒くさいらしくて、こうなった。もちろん、絵文字や顔文字が入っていたことなど一度もない。シンさんらしいメールである。
 トイレから戻ってくるなり上機嫌になっているチヨコに、母親は不思議そうな顔をしていた。チヨコは、友達からいいしらせがあっただけ、と嘘ではないことで誤魔化しておいた。
 そして約束の日曜日、チヨコは白山で撮った写真を持ってシンさんの家を訪れた。
 ヨーロッパ土産のお菓子やちょっとした小物などを広げて、しかし、シンさんはいつもと少し違っていた。海外での仕事から帰ると、いつもはいろんな話をしてくれるのだ。世界の大都市から名もない小さな町、そして、いつも抽象画ばかり描いている画家とは思えないほどきれいな風景のスケッチ。
 けれど、それをチヨコからねだるのはできない。あまりいい旅にならなかったのかもしれない。
 たぶんそうなのだろう。チヨコが見せた写真については、
「ぼくは国内はあまり旅行したことがないんだよね。白山てこんなんだね。ぼくも一度行ってみたいな、これは。でも登るの大変だったでしょう?」
 と話が弾んだ。
 チヨコが、ここ数年で一番納得のいく出来になったと思った花の写真は、シンさんも気に入ってくれた。青紫の可憐な花を接写したものだ。花弁についた露や頼りなげに細いくせにしたたかな緑の茎、岩だらけの斜面にたった一輪、しがみつくように咲いていた可憐さと強さ。周りに仲間なんて一輪もいない。哀しいのか、寂しいのか、そんなことはなんとも思っていないのか。分からない。分からないままにシャッターをきった。そんなものは、見た人が勝手に想像すればいいのだ。チヨコはただ、この花が存在していたことを、他の誰かにも教えてあげたいと思っただけだった。
「それで、アップなの?」
「ロングで撮ると、きっと私じゃ惨めにしか写せないから。それだけは、この花も望んでないと思ったんです」
「そうか。うん、そうだね。花の気持ちか。これいいよ。チヨちゃんらしい写真。ねえ、焼き増ししてぼくにもくれない? あ、待って。たしか写真って、現像の時に頼めばパネルにできたよね。これ、これっくらいの大きさにしてさ。お金はちゃんと出すから」
「シンさんこれもらってくれるんですか!? うわぁ! いいです、お金なんていらないです! 私自分で作ります!」
 うわぁ、うわぁ、とチヨコは意味もない声を上げてはしゃいだ。三十近い女の姿ではないかなとも思わず、嬉しくてたまらなかった。ちょっと子供っぽすぎたかなと思ったのは、少し落ち着いてからのことだ。
「チヨちゃん、相変わらず感激屋だね。でもやっぱりそうでないとね。いいものをいいって思って、素直に心から楽しめなかったら、いい作品なんて作れないよ。ぼくさ、チヨちゃんが初めて個展に来てくれた時、ぼくの絵が見たい一心で泣いてくれるの見て、ものすごく嬉しくなっちゃってさ。ああ、もうこれは絶対この子にぼくの絵見てもらわなきゃって思ったんだよ」
「覚えてるんですか。もう私あの時、次があるからなんて全然思えなくて、見れないんだって思ったら……。ああもう、恥ずかしい」
「だって、普通諦めるよね。まあいいかって言っちゃうでしょ。でも、本当に嬉しいことだよ。ぼく、誰かのために作るってことはしてないけどね。お金のためとかでもない。ただ、ぼくの感じたものをどかーんとぶつけたいだけ。自分のために描いてるんだと思うよ。でもさ、それが誰かにとって、『まあいいか』で済ませられない大事なものになったら、やっぱりたまらなく嬉しいよ。好きになってもらいたくて描いてなんかないけど、好きになってもらえることは嬉しいことなんだよね。チヨちゃんはぼくの数少ない本当のファンなんだ」
「シンさんのファンなら世界中にいるじゃないですか」
「違う違う。ぼくの絵にあれこれいいこと言う人のことなんかじゃないんだよ。いい絵だって言われてるからいい絵だと思う人のことでもない。ぼくの絵を見て、ぼくが誰かなんてこと関係なしに、本気で感動してくれた人。ぼく、モナリザとか確かにきれいだなと思うけど、ダ・ヴィンチはすごい人だったんだなとは思うけど、感動はしないんだよね。認めるってこととファンっていうのは全然違うよ」
 ああ、それなら私は間違いなくシンさんのファンだ、とチヨコは嬉しくなった。22番の他に、今は38番というお気に入りもある。
 激しさや苛烈さ、エネルギーというものを感じさせる絵が多いシンさんが、珍しく淡いグリーンと白を基調に描いたもので、眺めていると自然になごやかで優しい気分になれるのだ。穏やかで爽快、清潔な色の流れの中に、ちらちらと小さくオレンジや黄色の輝きが踊る。それはきっとシンさんの優しくかわいい部分なのだとチヨコは思っている。
 恥ずかしがってあまり外には出さない、このおおらかで心地好い優しさ。チヨコが38番に名前をつけるなら、『シンさん』とつけてしまいそうだった。
「あ、そうそう、チヨちゃん。一つお願いがあるんだけど」
 チヨコがうっとりと38番を思い返していると、シンさんはいつにない、少し躊躇ったような硬い声で言った。
「なんですか?」
 私にできることならなんでも。チヨコはソファから少し身を乗り出す。
 しかしシンさんの言葉を聞いて、唖然とした。

「うん。その……ね。君の……ヌード、描かせてもらいたいんだ」

 ヌード?
 チヨコはその言葉を頭の中で繰り返した。一瞬は意味を成さなかった。後からじわりと追ってくるようにして、裸のことだと気付いた。
 何故急に。シンさんは抽象画の専門で、たしかに手慰みに風景を描いたりもするが、人物はあくまでも、その落書きの中の一情景物でしかなかった。
 どうしたのだろうと目を覗くチヨコの目を、シンさんは少しうろたえて外し、ゆっくりと、真剣に見つめ返してきた。
「駄目かな。駄目なら、諦めるけど」
「あの……え? でも私、全然美人でもないし、スタイルも……」
「そんなこと関係ないよ。ぼくは美人でスタイルのいい人を描きたいんじゃない。チヨちゃんを描きたいんだ。洋服を描きたいんでもなくて、チヨちゃんを描きたいんだ」
 シンさんの目はどこまでも真剣で、真っ直ぐだった。
 好きなんだ。
 そう言われているんだと、チヨコは感じた。
 男と女という意味がそこにあるのかどうかはともかく、シンさんは私のことを好きになってくれたのだ。その思いが、描きたい、他のなにでもなくその人だけを描きたいということなのだ。
 シンさんはテーブルに目を落とし、気弱な顔になった。
 初めて見るその顔が、チヨコは愛しくて我慢できなくなった。
 嬉しくて言葉が出ず、けれどこのまま黙っていればシンさんはきっと誤解するだろう。なにせ顔をうつむけてしまっている。チヨコを見ていない。嬉しいんだということを分かってもらうために、チヨコはテーブルの上のシンさんの手をぎゅっと握った。

 それは、ほんの小さな絵だった。
 せいぜいでA4サイズ程度のものだ。
 背景は大雑把に描かれているだけで、その中にチヨコだけ、いかにも達人の筆といった感じに、最低限の筆数と色とで、けれど遠目に見てもチヨコだと分かるように描かれている。
 描かれている間、チヨコは目を閉じていた。それでも、突き通すようにしてくるシンさんの視線は痛いほど感じた。
 そうして出来上がった絵を、チヨコはもらった。
 そしてそれから間もなく、シンさんは入院した。
 外国に旅行してきたというのは嘘で、検査と治療に行っていたのだと、チヨコはあの時の係員、シンさんの良きマネージャーだというセキジマ氏に教えられた。
「チヨちゃんに会いたい」
 とシンさんが言うので、迎えに来てくれたのだ。そしてその車の中で聞いたのだ。
「先生も、最初はこんなみっともないところカサイさんには見られたくないから、内緒にしてくれって言ってたんです。でも病室に一人でいると、会いたくて仕方なくなるって」
 チヨコは車の中から既に泣きつづけで、セキジマ氏に迷惑をかけてはならないと我慢しようとするので精一杯だった。
 病室でいろんな機器に囲まれつながれたシンさんを見ると、もう言葉は出ずに涙ばかり出て、手を握っているしかできなかった。そしてそれは、シンさんもほとんど同じだった。

 たった二ヶ月ほどで、少しずつしぼんでいったシンさんは、もうしぼみきれなくなって旅立った。
 世界中の新聞やニュースで報道されたが、本当に哀しんでいるシンさんのファンは、きっとそう多くはないのだろう。
 チヨコは、葬儀には行かせてもらえなかった。ただでさえ、大画伯が娘のような年頃の女性に手をつけただのといやらしい噂が飛び交っていたのだ。チヨコはそんなことは初めて知ったが、本当に事実無根なら画伯の名誉のためにもとさえぎられてしまった。
 名誉? シンさんがそんなことを気にするはずがない。そんなことを気にするのは、シンさんの名前で食べているあんたたちでしょう。
 そう叫びたかった。だがチヨコは、そう叫ぶことが本当にシンさんの心にかなうことなのか迷って、やめた。
 シンさん自身は平気でも、シンさんには子供はいなくても、兄弟がいる。甥も姪もいる。そういう人たちに迷惑をかける権利は自分にはない。
 そのかわりセキジマ氏に頼んで、自分のあの絵と、パネルにした……そして病室に飾っておいたあの花の写真を、棺に入れてもらった。
 火葬が行われるその時刻、チヨコは自分の部屋の、22番と38番のレプリカの前にいた。
 本物はシンさんの名前を冠した美術館に飾られ、これからもきっと、多くの人の心を揺さぶり、慰めるだろう。もちろんチヨコも、その美術館が完成したら、自分の心が求める絵の前に立ち、力や安らぎを分けてもらうだろう。
(ありがとう、シンさん)
 絵に向かって手を合わせ、チヨコは長い間目を閉じていた。
 涙はひっきりなしに流れていたが、もう哀しいとか寂しいという感情の大波はやってこなかった。
 あの日あの時の個展会場で、声をかけてくれたこと。何度も何度も足を運んだ郊外の自宅。たくさんした話。
 全てが宝物だ。
 ありがとう。とても楽しかった。嬉しかった。何度も何度も力を借りた。分けてもらった。
(これからも私、がんばるから。思いっきり生きるから。シンさん、もし天国があるんだったら、そこから見ててね)
 空を撮ろう。チヨコは唐突にそう思いつき、涙も拭かずにベランダに出た。
 都会の空には電線が無数に走っていたが、青く晴れて高かった。
 何度もシャッターをきりながら、今度また白山、いや、富士山に登ってみようと思った。
 少しでも高いところ、少しでも空に近いところから、きっとシンさんが……誰かにとってとても大事な、大切な人がいると思える空を、写真にしたくてたまらなかった。

 

(終)