Far Memory

 

 昔、まだ小さかった頃、ケビンマスクには三つの楽しみがあった。
 一つめは、アリサママの焼いてくれるお菓子。
 二つめは、グランパとのお散歩。
 そして三つめは、ほんの時折遊びに来てくれる黒いお兄さんと一緒に遊ぶこと。

(……なんで忘れてたんだ、俺)
 ふとしたデジャヴュから、ケビンは唐突に子供のころのことを思いだした。
 それまですっかり忘れていた「黒いお兄さん」のこと。
 ほんの数回だったとはいえ、次はいつ来るのかと楽しみで仕方なかったというのに、今まですっかり忘れていた。

 初めて会ったのは、まだ五つかそこらのときだった。
 同い年の子供たちはまだ幼稚舎か、あるいはただ遊んでいるだけだったが、ケビンはもう既に家庭教師について勉強を教わっていた。
 毎日の勉強は楽しかった。
 出された問題をちゃんと解けたとき、よくできましたと褒めてもらえるのが嬉しかった。
 周りに比較できる相手もなく、だからケビンは、勉強漬けの自分を不幸だと感じたこともない。
 家庭教師たちは優しかったし、家にはいつもママがいた。解き終わった問題集を見せればママは褒めてくれたし喜んでくれた。
 パパ―――ロビンマスクも、あの頃はアリサママと同じように、褒めてくれることもあった。
 そんな日常。

 そんな日常に、不意に現れた見知らぬ人。
 家族への客として訪れてくる「お客様」とは少し違う扱いがケビンを戸惑わせた。

 「そのとき」ケビンは玄関フロアの大時計を眺めていた。
 退屈だったのだ。アリサママはママのママとパパ、すなわちおばあちゃま、おじいちゃまと一緒に旅行に行ってしまったし、グランパは超人なんとかかんとかの会議とかで、しばらく帰ってこないとのことだった。
 屋敷にいるのはダディのみで、そのダディは仕事が忙しくてめったに遊んでくれない。私室にいることは知っていたが、訪ねて行ってら邪魔かもしれないと思うと、ドアをノックする勇気は出なかった。
 仕方ないので、書斎で本を借りて読もうとしたのだが、読める本はもう大半、読んでしまっていた。
 まだよく分からない言葉の書かれた分厚い本を引き出してきたものの、読もうという気にはなれず、それを抱えたまま屋敷の中をてくてくと歩いていて出会った、柱時計。
 グランパのグランパが大事にしていたものだと聞いていた。みんな早く帰ってこないかな。そんな気持ちでじっと眺めていたのだった。

 そのとき玄関のベルが鳴り、執事のアーサーが応対に出た。
 開いたドアの向こうは逆光で、人影はほとんど確認できなかった。
 来訪者を待たせてアーサーが去り、間もなくやってきたダディは急ぎ足だった。そして珍しく声を大きくし、「よく来てくれた」と聞いたこともないほど嬉しそうな声で呼びかけたのだ。
 ドアが閉まって光が弱まると、そこにいたのは「黒い人」。
 ただのお客様ではないようだし、誰だろうと思って見上げていたら、彼のほうから近づいてきて、ケビンの前で膝を折った。それとほとんど同時にダディが言った。
「ケビン。私の大事なお客様だ。ご挨拶は?」
 忘れていた。人に会ったら挨拶をしなきゃ。初めて会った人には、どう言うんだっけ。
 一生懸命思い出して、
「はじめまして。ぼくはケビンマスクです。ようこそいらっしゃいました」
 なんとかそう告げた。
 ちゃんとごあいさつできたかしらん。これで間違っていないと思うけれど。
 ドキドキしながらうかがっていると、相手は黒い仮面越しでも笑っていると分かるような、優しい雰囲気になった。
「すごいな。もうそんなご挨拶ができるのか。俺……いや、私は、ウォーズマン。君のダディの、……その、えーっと……ロビン。どう言えばいいんだろう」
 彼は後ろのダディを振り返った。ダディは溜め息をつき、
「つまりおまえは私の、弟子でもなければ友人でもなくなんでもない、というわけか?」
 呆れたときに見せる、ちょっと両腕を広げるような仕草を見せた。

 ダディのおともだち。
 それがケビンの結論だった。
 今までに訪れた誰よりもダディは仲良くしていたし、嬉しそうだった。
 彼はケビンにお土産をくれた。
「気に入ってくれるかどうか、わからないんだが」
 と、大きなクマのぬいぐるみ。
「女の子じゃないし、こういうのは、嫌いかな」
 嫌い? とんでもない。大きくて、ふわふわと手触りが心地よくて、すぐに気に入った。
 なににどうやって使うものかはよくわからないが、ただなんとなく、ものすごく気に入ったのだ。
 アルファベットカードやパズルとは違う、なにか。ぎゅっと抱きしめているだけでも、なにか嬉しくなってくる不思議なもの。
 ウォーズマンは電車の模型とどちらにするか迷ったらしい。迷った結果、電車の玩具は金属だったりプラスチックだったりして少し危険だし、小さい部品がとれたり、あるいはどこかが割れたりすることもあるかもしれない。いくら超人でも子供は子供だから、少しでも危なくないものを、とぬいぐるみになったそうだ。
 もちろんケビンはそんなことは知らない。聞いていたのかもしれないが、覚えていない。
 ただ、そのぬいぐるみは大事な宝物になった。

 あのぬいぐるみは、どうしただろう。
 いったいいつから一緒に遊ばなくなったのだろう。
 いつから……そして、今はどこに?
 そして今、あの人はどこに、どうしているのだろう。

「ケビン。どうした」
 後ろから呼ばれて、ケビンマスクは我に返った。
 買い物を終えたクロエが、不思議そうな顔で佇んでいた。
「いや、なんでもない」
「それなら、行こう」
「ああ」
 促されて歩き出しながら、ふと振り返る。
 ショーケースの中、鮮やかな緑色のリボンを首に巻いた褐色のクマが、ちょこんと座っている。

 

(終)