Memories

 

「こンの馬鹿息子がッ!!
 亜光速の右ストレートがケビンの顔面をとらえ、その巨体を30m後方まで弾き飛ばした。
 あまりに突然の出来事に、万太郎やジェイドたちは硬直している。
 オーストラリアで行われている、超人レスリング親善試合。招待選手の一人として参加していたケビンはその練習中、突然現れたロビンマスクにぶん殴られたのである。
「君たちは練習を続けなさい」
「は、はい!」
 万太郎たちに対しては、まるで何事もなかったかのように穏やかでジェントルな態度だったが、誰一人として逆らおうする者、何故かと問おうとする者はなかった。

 ロビンはつかつかとケビンの傍まで行くと、ようやく起き上がった息子と真っ向から対峙する。
「クソ親父! いったいなんなんだ、こんなところまでわざわざ俺を殴りに来たのか!?」
 怒鳴りつけるケビンに、
「そうだ!!」
 ロビンはまったく躊躇のない即答断言で答えた。

 さすがにケビンも返す言葉がない。
 なにか他の用事のついでということでもなく、わざわざ殴りに来たと言う。
 イギリスからオーストラリアまではるばると。
 ある特定のことに関する以外には、それほど常識外れでもなければ短絡的でもない父が、こんな荒唐無稽なことを平然と言う―――。
(はっ!?)
「クロ……じゃない、ウォーズマンのことか!?」
 さすがにケビンも、馬鹿ではなかった。

 さて、この父親が息子を殴るためだけにはるばると、赤道を越えてやってきた理由は、昨日の昼下がりにまで遡る―――。

 

 昨日、日課の散歩中のことである。
 ロビンマスクはハイドパークで不審人物を見かけた。
 冬だから、厚着をしているのはおかしくない。しかし、コートの襟を立てて口元から鼻の上、いや、目のすぐ下まで隠すようにマフラーをまき、サイズの合わない帽子を目深にかぶった上に大きなサングラスとくると、これは暑い寒いは後にして、立派なというより完璧な不審人物だ。
 しかしロビンには、一目でそれがウォーズマンだと分かった。愛の力というより嗅覚、野生の力である。
 しかも、それだけの完全武装(?)であるにも関わらず、なんだかしょんぼりしているな、と見抜く眼力も尋常ではない。

 この完全装備の理由は、自分だと知られたくない、といったところだろう。
 それならいつもどおり、ケビンに連れ出されるのでないかぎり家でじっとしていればいいものを、いったいどうしたのか。
(ふむ。ケビンは遠征中のはずだな。とすると、なにかあって顔を突きあわせているのが苦痛だということはないか……)
 腐ってもロビン、そういった思考能力はまともである。
 もちろん、今はケビンも南半球の彼方だしこの機にしっかりと接近し接触しておこうという算段を整えるのも、見事だった。

 さりげない足取りでベンチに近付く。
 自分に気付かないウォーズマンのすぐ傍まで来ると、俯いた視界に入るよう、立ち止まった。
 爪先を見た顔が動き、
「ロビン! 散歩か?」
 ウォーズマンは驚き、そしてまた嬉しそうな声を上げた。どれだけ時が流れようと、こんなふうに歓迎してもらえることは、自分だけの特権だろうと満足するロビンである。

「ああ、日課だよ。それよりどうしたんだ、こんなところで」
 さりげなく横に座る。
「どうって、いや、天気がいいから」
「……ウォーズ」
「なんだ?」
「なにか考え事、いや、心配事かもしれないが、思い悩んでいるように見えたんだがな」
「そんなことはないさ」
「なにもないようには見えなかったぞ」
「気のせいだろう。なんともない」
「ウォーズ。おまえのその、人に迷惑をかけたくない、心配をかけたくないという気遣いは、いいところだ。だが、悪いところでもある。なんでもかんでも一人で抱え込んで、私はそんなに役に立たないか? 信用できないか?」
「ロビン」
「頼ってもらえないというのは、寂しいものだ。三十年前から、ずっと」
「………………」
「いや、すまないな。結局私はこうしておまえを脅迫しているのか。これもまた、何年たっても変わらない、私の悪い癖だ。許してくれ」
「ロビン」

 押したり引いたり。
 この駆け引きに、純朴なウォーズマンはひとたまりもない。
 ころっと流されて、
「そうだな。あんたにしか、こんなこと話せないよな」
 と頷いた。あんたに「しか」の部分にもまた大いに満足し、ロビンは大きくうなずいて返す。
 もちろん、ウォーズマンの様子から、これが深い悩みであることは予想していたが、それでも聞かされた言葉は、思ったよりもずっと深刻だった。
「……ロシアの人たちにとって、俺は、裏切り者なんだろうなと思って」
 と、ウォーズマンは言ったのだ。

「ケビンのコーチをしたことか?」
 動揺を押し隠し、柔らかく尋ねる。
「ああ。いや、勘違いしないでくれ。分かっていてしたことだ。超人オリンピックにはロシア代表の超人も出る。彼等を助けることもできるのに、俺はあえてケビンのもとへ行く。それが国に対する裏切り行為になることは、最初から分かっていた。分かっていて、それでも選んだんだ。だから、あんたやケビンがなにか思う必要はない。ただ、……もう帰れないんだろうなと思って……」
「ウォーズ」
 どう慰めようかと思うロビンに、ウォーズマンはことさら明るい声で続ける。
「いや、それも分かってたことなんだけどな。俺は、国とあんたたちと天秤にかけて、あんたたちのほうが大事だからイギリスへ来たんだ。―――でも……」
 だがその明るさも長くは続かず、ぽつりと途絶えた。

「なにかあったのか? なにかあったから、今になって急につらいんだろう? 誰かになにか言われたか? ロシア人にでも」
「いや。そんなことはない」
「そうか。それなら、何故」
「………………」
「言いにくいことか?」
「う、ん……そうだな……。大したことはないんだ。悪気どころか、俺のためを思ってしてくれたことだし。だから俺は本当に嬉しく思ったし、感謝もした。だから、……こんなふうに思ってちゃ、いけないんだろうが……」
「ウォーズ。また人のことばかり。それならここだけの話にしよう。誰が悪いとか、そういうことではなくな。その誰かの前で哀しい顔をしないために、今ここで私に話してしまうというのはどうだ? 話せば少しは楽になるだろう?」
「ロビン。……ありがとう」
 心の底から出てきたような「ありがとう」の一言に、ロビンはまたしても大きくうなずいて応えた。

「……バラライカ」
「バラライカ? あの楽器か」
「ああ。ケビンがバラライカをくれたんだ。前に一度ウクレレをくれたことがあって、なにを勘違いしてるんだと三日くらい無視してやったことがあるんだが、だから今度はちゃんとバラライカを買ってきてくれた。……懐かしくて、弾いていたら……」
「そうか。懐かしいと思っても、帰れないと思えば、つらくなるか」
「そんなはず、ないのにな。あの国にいい思い出なんかない。俺はあんたに会うまでずっと、どこの誰でもない、何でもない存在だった。どこにもいちゃいけなくて。いい思い出なんて、なにもない。なのに、今頃シベリアは一面の雪で、歩くことさえ満足にできなくて、―――そんなことを思うと、帰りたくなる。どうしてだか」
 その光景をこの公園に重ねて描くのか、ウォーズマンはじっと木立を見やった。

 いつものパターンだと分かっていても、抗いようのないものもある。
 計算ずくのノーブルモードも、本能のままのビーストモードも束の間放心し、言葉もない。
 そんなロビンをウォーズマンは少し振り返り、肩をすくめて笑った。
「あんたが気にすることなんかない。俺が自分で決めてしたことだ。だから、すまないとか言うなよ。俺は、あんたにそんなこと言わせるために話したんじゃないんだから」
「ウォーズ」
 これ以上ここにいて話をすれば、ロビンが困るのは目に見えている。そう分かっているからだろう。ウォーズマンは身軽に立ち上がると、
「話してすっきりしたよ。ありがとう、ロビン」
 再び明るい声で告げ、その後に「それじゃあ、また」と付け加えて背を向けた。

 引き留めたいが、適当な言葉が思いつかずロビンは上げかけた手を持て余す。そのうちにウォーズマンの背中は遠ざかって消えた。
 これではなにも解決していない。
 話してすっきりするのは束の間のことだ。
 話してみろと言って話させた手前、ただ聞いただけで終わりにするのは心苦しい。
 しかし、さて、どうしようか。
 ロビンは今一度、ウォーズマンの話を思い返した。

 そして三段論法。
(ウォーズを傷つけることをケビンが望むわけはない。ということは、ついうっかりでもこういったことをしでかさないために、己のおかした過ちについては知りたいはずだ。ということは、この話はしっかりと伝え思い知らせる必要があるということ。よし!)
 こうしてロビンは、ケビンを殴る大義名分を手に入れたのであった。

 

「分かったかこのバカ息子ッ!!」
「親父ッ! もっとだっ、もっと俺を罰してくれ〜ッ!!」
 ケビンの体を担ぎあげタワーブリッジで締め上げるロビン。
 渾身のタワーブリッジを食らいながら「もっと」と叫ぶケビン。
 事情の分からない万太郎たちは、とりあえず今日はこの親子に決して近づかないことにしたのであった。

 

 ところで時は少しだけ遡り―――。

 巨体の同居人のいない、いつもより広い部屋で、ウォーズマンは一人、もらったバラライカを爪弾いている。
 ウクレレよりは明らかに乾いた、ギターよりは茫洋とした音色がぽつぽつと零れていく。
 誰に習った覚えもない。
 道端で見ていて覚えた。
 壊れて捨てられた楽器を拾って、直して弾いてみた。
 何故そんなことをしたのか。
 ただ、ある日突然、苛立ちが沸騰して叩き壊し、それきりだ。
 こんなことをしてなんになる。そんな思いで破壊して以来、触ったことはなかった。

 慰められたかったんだろうと今は思う。
 けれど自分自身の慰めなど虚しいだけだった。
 誰かが聞かせてくれるのなら、別だった。

 シベリアの、地元の人間も近づかない深い森の中。
 バラクーダと名乗る男と籠もった古びた小屋。
 ある日彼は、街へ買い出しへ出たついでにバラライカを買ってきた。
 退屈だったのだろう。それとも他に理由があったのだろうか。
 はじめはぎこちない手つきで、けれど数日もした頃には澱みなく、ありふれた民謡を弾いていた。

 暖炉の投げかける火影。
 窓の外の吹雪。
 薪の爆ぜる音。
 なんとないやり切れなさの漂う音色。
 じっと見ていると、弾いてみるかと問われた。
 いらないと首を振った。
 そうかと彼はまた弾きはじめた。

 バラクーダは控え目に見ても暴君だったが、ウォーズマンにとっては充分すぎるほど紳士的だった。
 彼は一度として自分の弟子を化け物扱いしたことはない。
 残酷なほど厳しいとしても、当たり前のように傍にいた。
 その暴力が八つ当たりでも過剰でも、「寄るな化け物」、その一言となら比べようもないほどに優しかった。

(そうか)
 バラライカに根付いた記憶は、バラクーダのものなのだとウォーズマンは気付いた。
 ただつれづれに、けれど厭うことなく自分にも聞かせてくれたあの音色。
 懐かしいのは、ロシアという国ではなく、哀しい思い出しかない街でもない。
 誰もいない凍土の森の、小さな小屋、窓の雪、暖炉の火。

 ウォーズマンは手を止めて外を見る。
 そこに広がるのはロンドンの街並だ。
 それはこの方角ではないが、ここからそれほど遠くはない場所に、ロビンの住む屋敷がある。
(もしかすると、あんたが俺の故郷なのかもな、ロビン。なにもかも、ただ恨んで憎むしかなかった俺が、あんたに会って生まれ変われた。だから)

 ―――ウォーズマンがこんな物思いに耽ってることなどつゆ知らず、同時刻、ロビンマスクはオーストラリアへ向かう特別チャーター機の中にいたのである……。

 

(終)