which heart do you want? 陽のささない暗い空から、垂れ込めるように陰鬱な雨が降る。 魔界の南には、いつもこんな雨が降る。 これからどうすればいいのか、どうしたいのか。アシュラマンはそんなことを考えて空を見上げた。 周囲に張った結界に弾かれて、雨粒が落ちていく。 痛む右の肩を見ると、上の腕をなくしたそこからはまだ、赤黒い血が零れていた。 体には他にも無数の傷がついている。 全て、魔界の王である父が差し向けた兵との戦いでついたものだ。 魔界を裏切るならば始末せよ。 それが王の至上命令で、今のアシュラマンは魔界のプリンスなどではなく、一介の反逆者だった。 魔界に来たのは、こんなことをするためでもさせるためでもなかった。 出て行くこと、二度と戻らないことをはっきりと告げたかっただけだった。 だが、入るなり襲撃された。 今の自分は賞金首に過ぎないことを思い知った。 かつては王子だの坊ちゃまだのと口にしていた連中が、僅かの躊躇いもなく斬りかかってくる。 これが、魔界だ。 昔のアシュラマンならばなにも思わなかったのかもしれないが、今の彼には残酷に思えた。 魔界の王家に生まれたくせに、何故、正義だの友愛だというものに感化されるような心を持ってしまったのか。 暗い空を見上げて自嘲する。 正義超人のサラブレッドたちが、どうしたところで悪に心は売らないように、悪魔超人のサラブレッドたる自分も、どんな善にも心動かれないようであれば良かったのだ。それができなかったということは、つまり自分はできそこないなのだろう。 笑うと同時に感じたものは、哀しさなのかもしれない。これもまた、かつての自分にはなかったことだ。 わずらわしいと思う。こんな生ぬるい感情は気色が悪い。たまらない。吐き気がする。虫唾が走る。そう思う自分も、ここにいる。 そしてふと、この顛末を期待して魔界に来たのかもしれないと思った。 きっと両親は自分のことを許すまい。だから父も母もお構いなしに叩き殺せば、思い切りがつくだろう。そうしてなくすのは、どちらの心か。 黒く染まりたいのか、白く染まりたいのか。 ―――答えは、出してから、見ればいい。 もうなにも考えたくはない。 見上げる先に、巨大な王城の影がそびえていた。 ひどく慌しい城内を、なるべく番兵に見つからないよう進む。 見つかってしまった場合には、声を立てられる前に始末した。 自分の辿った後に転がっている屍の数は、これでいくつになっただろうか。 自分の同朋をこれだけ手にかけて、正義もなにもあるものではない。 この上、更に親までこの手で殺せば、ただ黒く、真っ黒く染まるだけだ。 離別するために来たはずが、正義超人として出直すために来たはずが。 (ソルジャーには、悪いことになるか) 血盟軍に入れと誘ってくれた男を思う。技量、度量ともにただならないものを感じた。そんな相手は初めてだった。キン肉マンたちのことは認めてはいるが、それでも存在に圧倒されたことはない。ソルジャーという超人は、なにかが違う。 筋の通った生き方のようなものを感じた。目の前のものではなく、もっとはるかなものを見据えた上で生きているような力強さ、揺るぎなさを。この男の見るものがなにか、それを見てみたいと思った。だから、参入を決めた。 そして、ここに来たはずなのだが。 このままでは、行き着く果ては血塗れの結末だ。裏切ることになるのだろうと思うと、胸の奥に痛みを感じる。 だがそれも……。 もう取り返しのつかないところまで進んでしまえば、捨てられるだろう。諦められるだろう。忘れてしまえるだろう。己では捨てられないものならば、奪い取られるよう仕向けるのがいい。 この城を手に入れて、したいことなど一つもないが、結局、自分が手にするのはたったこれだけ、このちっぽけな城一つが限度なのかもしれない。 王の間までは、あと僅かだった。 「王子……」 最後に立ちはだかった兵は、アシュラマンが幼い頃から城にいた、馴染みの衛兵だった。 「おやめください。このままお父上とお母上に詫び、どうか正義超人などとは手をお切りください。さもなければ」 彼は手にした長い槍を構える。その目の奥にあるのは、真っ直ぐに、鋼のように確かな決意と、僅かな揺らぎ。 通るためには彼を退けなければならない。アシュラマンが一歩踏み出すと、衛兵は一歩下がったが、槍の穂先を前に向けた。 通るには、殺す他ないのだろう。 そう思ってふと、俺はなんのためにここにいるのかと、アシュラマンは束の間、意識の世界にとらわれた。 幼い頃には遊んでもらったこともある、懐かしい老兵。殺したくない。そう思う心。それを、そんな甘い思いを貫くためには、彼を殺して通り、父母との決着をつけなければならない。 そして、彼を殺したくないという思いに任せれば、血盟軍入りは取りやめなければならない。そしておそらく、この城に戻り魔界のプリンスとして生きていくことになるのだろう。悪魔に相応しく、悪事の限りを尽くしながら。このような老兵一人、躊躇いもなく殺しながら。 なんという矛盾だろうか。 どちらに進んでも、望んだものをこそ手に入れられないのだ。 「……そこを退け。私は二人に話があるだけだ」 「なりませぬ。わたくしはお二人をお守りするのが役目。王子のお心をうかがわないままでは、決してお通しするわけにはまいりません」 握った槍に力を込めて、彼は構え直した。 最悪の場合には、王と王妃のため、王子であろうと誅殺する覚悟なのだろう。 「アシュラ様。どうか……どうかお退きください。この爺に、貴方に向けて刃を振るうような真似は、どうか。今ならば王も王妃も、貴方様を許すとおっしゃっておられます。貴方様さえこの魔界に戻り、魔界の王子として相応しく生きてくださるなら、今一時の過ちは許すと。アシュラ様」 老兵の必死の声が、深く、染み入るようにアシュラマンの心を打った。 これは、慈愛ではないのだろうか。 殺したくないという思い。 許すと言うのもまた。 では―――魔界とは、なんなのか? 悪魔とは。 愛や慈しみ、優しさ、労わり、そんなものはまやかしだと教えられて育った。 全て、なにもかも、己さえ良ければいいのだと。 だがこの老兵の思いは、許すという父母の言葉は、まやかしだと言われつづけてきたそれそのものではないのだろうか? それすらも利己と言うならば、魔界の外で人が唱える正義も愛も、全ては利己になる。 愛するのは己にとって心地好いからか。己が快いから愛し、守り、失いたくないと思うのか。己が苦しみたくないから。 では正義も悪も愛も暴虐も、全て等しく利己の所産。 それは尊いものなのか。 父母と、馴染んだ朋輩たちを失ってまで得る価値があるのか。 (クソ。分からん。私は……なにがほしいんだ……) 脳裏に父と母の笑う顔が甦る。愛などまやかしと言いながら、元気に育て、強くなりなさいと笑いかけ、労わってくれたのはなんなのか。 そんな父母の期待に応えたいと思った己は、その時から既に悪魔らしくはなかったということか。それとも、それとも―――。 「アシュラ様、どうなされました。迷いがおありなら、どうか魔界にお戻りくだされ」 城を勝手に抜け出して迷子になった時、探し、見つけてくれたのはまだ若かりしこの衛兵だった。叱られると泣く幼いアシュラマンを、見つからないようにそっと城の中へ連れ戻し、一日ずっと、自分と一緒に歴史の勉強をしていたのだと取り繕ってくれた。 庇ってくれたのは何故か。後になって思えば、その程度の嘘は見抜かれていたに違いないのに、誰も咎められなかったのは何故か。 それは、愛ではないのだろうか。 それが慈しみではないのだろうか。 自分ではなく他者を思うということではないのか。 それとも、つらい思いをさせたくない、哀しい思いをさせたくない、そう思うことすら利己なのか。 「やめろ……」 「アシュラ様?」 「やめろ! 貴様等が悪魔なら、何故裏切った私を許そうとする!? 何故私を憎悪しない!? 何故唾棄しない!? 何故嘲り、罵り、嫌悪しない!?」 「アシュラ様、落ち着……」 「愛がまやかしと言うならこの魔界もまやかしだ! 他人を思う悪魔などというもの自体がまやかしだ!」 「アシュラ様!」 思わず槍を下ろし、駆け寄ろうとする老兵を、アシュラマンの手刀が切り裂いた。 「アシュラ、様……」 肩から腹まで届く傷口から血を噴き出し、老衛兵は後ろへよろめく。 「あ、……あ……」 血は生暖かく全身に噴き付け、煙る血飛沫の向こうで、どうと音を立てて屍が一つ、床に倒れた。 「わ、私は……」 惑い乱れる心に、もう考えることも追いつかない。 「いたぞ! あそこだ!」 廊下の置くから聞こえた怒声と幾多の足音に、アシュラマンは目に付いた窓へと身を躍らせた。 峻険な岩山を、半ば転がり落ちるようにして麓まで、一息に駆け抜ける。 降り続く暗い雨は、いつの間にか全身の血も洗い流していた。 だが指先に、肉と臓を切り裂いた感触が残っている。 まとわりつくような不快な残滓だった。 強く拳を握り締めて、その感覚を消し去る。 「私は……」 雨に混じって、三面の頬を涙が伝い落ちていた。 この哀しみは、涙、苦しさは。 いったいなんなのか。 情愛なのか。 それとも、快いものを失った己の、我欲なのか。 雨はやまず、己諸共に全てを流していく。 涙も。 痛みも。 苦しみも。 希望も。 意志も。 「このザマでは、役に立てんな……」 惑っただけなのだ、とアシュラマンは思った。 ソルジャーの人柄に惹かれたのも、その言葉に興味を覚えたのも、なにもかも。 現実ではない、愛や正義という夢に酔い、それを現と思い込んで迷ったのだ。 迷いの路は、今も晴れない。 黒か白か。 決められない。 己がどちらなのか。 正義とはなにか。 悪とはなにか。 なにも分からない。 ならば……。 考えず。 どちらかに塗れて。 引き返せなくなり。 引き返せなくなれば。 白は、はるか遠かった。 黒は―――暗い空を鋭利な影にて切り取って、背後、彼方に聳え、まだ見えていた。 殺そう。 殺してしまおう。 それが愛でも愛でなくても、彼等が誰でも、胸の内にあるのが何でも。 笑いでも怒りでも冷血でもない、無の仮面へと、浴びた血がこごるまで。 どんな雨にも流されない、黒い鎧で全てを覆おう。 父もなく母もなく友もなく、あるのは敵と己になれば、最早そこには迷えるだけの道もあるまい。 ただ泣くばかりの悲しみの顔に、ほのかな微笑が浮かび上がった。 ふらりと歩き出すや、急に眩暈がして膝が砕けた。 受けた傷を放置しすぎたかと思ったが、それでも別に構わない気もした。 ただ黒く染まるために、その最中には痛みも苦しみもあるならば、いっそこのまま、それでなにか悪いのだろうか? (私は……何なのだ……) 突いた腕からも力が抜けていく。 ひんやりと、冷たい雨が頬を包んだ。 硬い地へと打ち付けた痛みは、もう感じなかった。 パチパチと、薪の爆ぜる音が聞こえて、アシュラマンは目を開けた。 体の右側だけが温かい。 雨は降っていない。岩肌の露出した天井が見える。一帯の山岳地帯に無数にある洞窟の一つなのだろう。 熱を感じたほうへと目を向けると、赤々と燃える焚き火の傍に、迷彩のマスクをかぶった男が座り、細い枝で炎をなぶっていた。 「ソルジャー」 呼んだつもりだが、声はかすれてまともに出ず、咳き込む。 その音で気付いたソルジャーが、アシュラマンへの顔を向け、 「手遅れにならずに済んだか」 安堵の息をついた。 放っておいてくれれば良かったのだ。 なにをしに魔界に来たのかは知らないが。 もうこの男とも関わりはない。 「あの話は、なかったことにしてくれ。他をあたるんだな」 喉を庇いながら言う。それでも少し咳が出た。 「アシュラ」 「おまえに協力する気は失せた。帰れ」 「そうはいかん。俺はますますおまえがほしくなった」 半分に折った枝を投げ込みながら、ソルジャーはその炎を見ている。 「なんとしても、おまえに共に来てもらいたい」 「はん。なにをくだらんことを」 跳ね除けて、ふと気付く。アシュラマンの口元に皮肉な笑みが浮かんだ。 「それともなにか? 血盟軍ってのは半端者の集まりか? 悪魔になれなかった軟弱者と、後付け超人の坊やと、悪魔でいられないこの俺と。あんたもあんたで出来損ないか?」 我ながら面白いことに気付いたと、かすかに笑い声を零した。 少し呆気にとられた様子でいたソルジャーは、やがて目を伏せて苦笑した。 「なんだ」 「いや。面白い共通点もあったものだが、では、ニンジャはどう説明する?」 罵倒を流され、冷静に切り返されて、アシュラマンは言葉に窮する。ザ・ニンジャには、こんなふうに挙げられる決定的な欠陥は、なにもなかった。 「アシュラ」 沈黙するアシュラマンの肩を、ソルジャーは手をのばし、しっかりと掴んだ。 「俺がほしいのは、一切の迷いも欠陥もない悪魔超人ではない。アシュラマンという超人だ。魔界に背を向ける苦しみは俺が思う以上なのかもしれんが、頼む。俺は、おまえに共に来てほしい」 迷いも惑いもない、真っ直ぐな視線が突き刺さった。 力を込めなければ、跳ね返すことも逸らすこともできない目。 肩に置かれた手が熱い。 「……何故私でなければならん。何故私なのだ」 白にもなれない。 黒でもいられない。 正義も悪も分からない。 「役には立たんぞ」 アシュラマンは思うままに問い掛けた。 ソルジャーは断固として首を横に振る。 そして、マスクの下で少し笑ったようだった。 「苦しいか?」 と問う。 答えを待たずに続ける。 「ならば考えるのも、答えを求めるのもやめてしまえ」 と。 「放っておけばいいんだ。小言は耳を塞いで聞き流せ。したいことなら、駄目だと言われてもすればいい。こそこそせず、堂々と。それの責任を自分でとれるなら、親に口出しされる理由はない。それがもとで喧嘩をしても、もしかすると、いつか和解も理解も、できるかもしれない」 それは、アシュラマンに向けた言葉というより、ソルジャー自身への繰言のようだった。 そんな調子に気付いたか、ソルジャーが小さく笑って肩を竦める。そして、 「正義でも悪魔でもいいだろう。どちらでもなくてもいい。おまえはおまえだ。それは、正義や悪魔の肩書きより大事なことだ。そして俺は、そのおまえを仲間にほしいんだ」 答えを、くれた。 この後、アシュラマンは正式に超人血盟軍入りを果たす。 両親と和解することは最後までなかったが、これ以後、争ったという記録もない。 ある日ふと彼が、親しき友に零したのは、 「おまえ昔、悪魔にも友情はあるとか言ったな。それなら、他の情愛もあるのだろう。要するに私たちは、それを踏みにじることを悪とは言われないだけで、持たないわけではないんだ。ひょっとすると、踏みにじられても許してしまうことも、あるのかもな。だとすれば、お人好しな悪魔もあったものだが」 ―――後年、彼は己の言葉が予言となっていたことを、知ることになる。 (終) |