クロエの恩返し

 その日は風がなく、シベリアの冬にしてはうららかな陽気と言えた。
 窓の外にはしんしんと降る雪、暖炉の中で薪の爆ぜる音が心地好い。
 空は相変わらず灰色だが、どこにあるか定かではない太陽の光を、深く積もった雪が増幅してくれる。
 こういう日には、窓辺で読書でもするのがいい。
 ウォーズマンは古いロッキングチェアに背を預け、分厚い単行本を開いていた。

 ソビエト連邦がロシアに変わり、予想していたほどの良いことはなく、予想していなかった不都合ばかりが目立つ。
 それでも、一時期の悲惨な状況をしのぎきった後には、いくらか国内の流通も良くなった。
 都市からは遠く隔たったこの辺りでも、安い文庫本くらいならば手に入るようになった。
 退屈は、敵だ。
 悩みは多いくせに、そのどれもが考えても仕方のないことばかりだから、なにもすることのない時間というのはつらい。
 だから、他愛のない三文小説でも、ないよりははるかにマシだった。

 パチ、パチと時に定期的に、時に脈絡もなく焼けてゆく薪の音の合間に、薄い紙をめくる音が混じる。
 静かだった。
 それゆえに、その音は読書中の耳にもはっきりと聞こえた。
 人が争うような音だと、顔を上げて窓の外を見る。よくよく目を凝らせば、ここからそう遠くない場所でたしかにもみ合っているような様子があった。右目のメカニカル・アイの解像度を上げ、焦点を絞りこむと、たしかに二人の人物が格闘しているのが知れた。しかも、人間ではなく超人同士のようだ。
 わざわざこんなところで喧嘩をする物好きもいまい。なにせ、最も近い他の民家まで数十キロは離れている。もし人が来るとすれば、このなにもない原野へと逃亡を試みたものにまず間違いなかった。

 以前にも一度こんなことがあった。
 超人嫌いの人間と争って数名の死傷者を出し、逃げ込んできた超人と、彼を追いかけてきたロシアの超人警察との立ち回りだった。あの時は多勢に無勢であっさりと片付いたから、ウォーズマンもただ眺めているだけで良かったが、今見ているものは一対一。
 しかも、双方がただならぬ腕らしい。
 事情はよく分からないが、それを知れる程度には接近して、どちらかに助勢するか、あるいは仲裁するべきだろう。
 ウォーズマンは読みかけの本をテーブルに伏せ、壁からマントだけとると外に出た。

 普段ならば外出にはスノーモービルを利用する。さもないと腰近くまで雪に埋もれてしまい、まともに進めない。だが今は、状況が状況である。騒音を立てて気付かれるのはまずいだろう。力で雪をかき分けて近づいてみると、片方は見知った男だった。
(ソルジャー……いや、アタル様か)
 迷彩服にキン肉族のマスク。なにより、繰り出す技の一つ一つが、二十年も前に見たものと少しも衰えていない。
 たしか十年ほど前にキン肉マンと会った時、アタルは宇宙を飛び回りながら傭兵のような警官のような仕事をしているのだと言っていた。長男が間近に居座っていると、次男にして王位を継いだキン肉マンがなにかと遠慮するのではないか、という配慮のためだと思えた。
 ともあれ、どちらに助勢するかはもう決まった。
「アタル様! 助勢します!」
 一声かけるなり大きく飛び上がり、ウォーズマンは争いのただなかに切り込んでいった。

 


 前科二十三犯という凶悪犯を護送団に預けた後、キン肉アタルはウォーズマンの小屋で一服することになった。
 共に戦ったこともないし、親しく付き合ったこともないが、同じ正義超人として相通ずるものはある。互いにこれまでのことを話しながら談笑していると、つい時の過ぎるのも忘れるほどだった。
 あたりが薄暗くなったことに気付いて時計を見れば、もう四時近い。緯度によってはまだ夕方だろうが、このあたりではそろそろ夜になる。
「お疲れなら、狭いところですが一晩くらい泊まっていかれませんか」
「いや、よしておこう。ベッドが二つあるでもなし、とするとおまえがそこのソファで寝るつもりだろう。シップも近くに停めてある。ま、お言葉に甘えて夕飯くらいは馳走になってから、ゆっくり帰るさ。それより、ニュースを見せてもらっていいか?」
「はい、どうぞ」
「それにしても、よくこんな人里離れたところに電波が届くな」
「あまり人前には出たくないとは言え、世間のことは気になりますから……。風が強いのでとても電線など張れませんし、地下にケーブルを通したんですよ。おかげで現役時代に稼いだ賞金がほとんど消えました」
「気にすることもないと思うがな。おまえがそう決めたことなら、口出しはすまい」
 ウォーズマンが人前に出たがらないのは、少しも変化のない外見と、そして衰えない身体機能のためということだ。簡単に言えば「年をとらない」のである。年をとらないことがそれほど問題なのか、と思ったアタルだが、なにも言わずにテレビのスイッチを入れた。

 映りはあまり良くないものの、音声は思いのほかしっかりしている。
 先輩になる自分があれこれ気を使うとかえって対応しづらいと承知しているアタルは、食事の支度をはじめたウォーズマンのことは構わずに、椅子にもたれて画面を眺めた。
 政治、経済、刑事事件といったことからスポーツまで。
 その内、超人に関するニュースがいくつか流れはじめた。
「ふむ……」
 若手の集う各国の大会での模様や結果が、次々と報道されていく。その中でも、人気のあるレスラーのために割かれる時間は大きい。
 今は目下、悪行超人から足を洗い、かといって正義超人と名乗るのでもなく各地の大会を荒らしていくケビンマスクが注目の的だった。
 ほとんどの超人が雑魚扱いで、満足に相手にもならない。
 たしかにケビンは強かった。
(しかし……)
 とアタルは試合の録画を見る。ふと気付くと、シチューの皿を持ったまま、テーブルの脇でウォーズマンもテレビを見ていた。

 彼はアタルの視線に気付くと慌てて皿を置き、台所に引き返す。
(さすがに気になるか。たしか彼はロビンマスクの弟子だから、ケビンは恩人の息子ということになるわけだ)
 それがあのていたらくでは、気にならないはずもない。
 スポーツニュースはそのまま、久しぶりに開催の決まった超人オリンピックの話題で持ちきりになった。
 万太郎やキッドたちはもちろん、ケビンも出場表明しているという。

(はたして面白くなるものかな)
 アタルは腕を組んで画面を睨んだ。
 個々の才能がどれほど豊かでも、彼等はまだその使いきり方を知らない。そういった、若々しく荒っぽいファイトにも醍醐味はあるが、頂上決戦とも言える超人オリンピックは、若さや荒さだけで競えるものではない。
 上っ面の闘志やプライド、技術だけでは、何千万という観客の心を動かす試合にはならない。 「俺のほうが強いんだ」という我の張り合いに終始しては、単なる子供の喧嘩だ。
 自分の持てる全てを、謙虚かつ大胆に曝け出して戦えばこそ、命そのもののぶつかり合いとなって感動を生むのである。だが安穏と過ごしてきた彼等は、超人の背負うべき使命や危機感についてずいぶん鈍感だ。
(……頭が痛くなってきた)
 もう三年ほど待って開催すべきではないか、と思ったが、決定したものを覆すほどの力は、アタルにはなかった。

「ハラボテ氏も、さすがに年だな」
 子牛肉のシチューを味わいながら、アタルはなんとなくそう話し掛けた。
 見ていれば分かるが、今年のオリンピックはあくまでも商業的なもので、若い超人たちの技量を試し高めるといった、本来の意義はかなり薄れてしまっている。若さ同様、老いもまた、正確な判断を狂わせる素だ。アタルは溜め息をついた。
 ウォーズマンは無言で、スプーンも動いていない。
 おや、と思ってうかがうと、どうやら自分の思考にはまりこんでいて、話を聞いていないらしい。
「どうした」
 とアタルが呼びかけるのと、
「さっきの」
 とウォーズマンが言うのとが、ぴたりと重なった。

「すみません」
「謝ることはない。で、どうしたんだ。『さっきの』?」
「ええ。さっきの試合の模様、どう思いますか。ケビンマスクのものですが」
「ああ。技術、パワー、ともに往年のロビンマスクに迫る勢いだが、薄皮一枚のものだな。自分より弱い相手にしか勝てない強さだ」
 きっぱりとアタルが言うと、ウォーズマンは
「やはり、そう思いますか」
 と言ってうなだれた。
「ケビンマスクに限ったことではないが、新世代の連中は皆、戦うことをパフォーマンスくらいにしか思っていない。特に、負けたことのない奴はタチが悪い。敗者にも必ず見習うべき点、自分より優れた点があるものを、まるで見下してしまうのもまずいところだ。これではなにも生まれん。まあ、ジェイドといったか、あの青年だけはまともかな。自分のためだけでなく、他人のために戦うことを知っている」
「かもしれませんね。たしかに、他はみんな、自分のためにしか戦っていない」
「思うことは同じか。奴等もまだ若い。これからだと思って見てやるべきなんだろうが、今度のオリンピックは、不安のほうが大きいな」

 溜め息を一つ零して、ウォーズマンは再び沈黙した。
 彼の考えていそうなことが、アタルにはおおよそ理解できた。
 恩人の息子を、このまま単なる甘えん坊な暴れん坊将軍にしておくのが忍びないのだろう。
 また、オリンピックでもし万太郎と競うようなことになれば、親子二代に渡る因縁の対決だ。
 肉親の情というものを極力差し引いても、万太郎のほうに分があるよう、アタルには思えた。
 万太郎には、生来の負けず嫌いがある。それはケビンも同じかもしれないが、彼は結局、見栄えをとるのだ。必死になって勝利にしがみつくみっともなさを、万太郎はいざとなればなんとも思うまい。人からどう見られどう言われるかなど、実際はさして気にしないのがあの親子の強みである。しかしケビンは、無様に勝つよりはスマートに負けたほうがマシだ、と思いかねない気配がする。熱くなるなんてバカらしい、と。

 ウォーズマンにしてみれば、ケビンに勝たせたいところなのかもしれない。
 とまで思って、アタルはふとその考えを取りやめた。
 たしかにロビンマスクもウォーズマンも、師弟してキン肉マンに負けているが、だからといって、今ケビンが万太郎に勝てば、それで気が晴れるのだろうか。
 だいたい、いまだにそんな鬱屈した敗北感を引きずっているだろうか。
 再戦し、できるなら勝ちたいという思いはあるだろうが、それはあくまでも、自分たち自身の肉体と技でのことではないだろうか。
 だとすると。
 もしそんな考えが当たっているならば、ウォーズマンが気にしているのは、ケビンの未熟さ自体かもしれない。
 未熟なまま増長し、それが打ち砕かれた時、素直に自分の到らなさを認めて一から出直せるのか、それとも、自棄になるのか。
(あれは、このままでは自棄になるタイプだな)
 ウォーズマンが懸念しているのは、このことではないだろうか。

「ケビンマスクの将来が心配か?」
 カマをかけるつもりで、アタルは思い切って尋ねてみた。
 顔を上げたウォーズマンは、やがて力なく頷く。
「もっと強くなれるのに、ロビンを意識するあまり、あえて自分の可能性を潰してるように見えるんです。小さなことにこだわって、大きなものを見失っている。平和な内はいいと思います。仲間内で試合をしている内は。ただ、かつて俺たちがそうだったように、命がけで戦わなければならなくなった時、彼等は若すぎると思いませんか。俺たちはあの頃、もうみんな成人していました。ですが、彼等はほとんど十代で……。そんな嫌な未来は、来ないかもしれません。でも、見巧者からはそろそろ苦情も出てるそうです。いつから超人レスリングはただのショーになったんだ、と」

「やれやれだ。無理もないが」
 かつてレジェンドたちが見せた試合に比べれば、今の新世代たちの試合は、どれも馴れ合いのようなものだろう。はじめは、彼等も若いからと許していた者たちが、そろそろ我慢できなくなってきたのかもしれない。
「それで、なにを悩んでいる」
「………………」
「話してみろ。力になれるかどうかは分からないが、共に考えることくらいはできる」
 冷めかけたシチューはもう諦めて、アタルはスプーンを置いてテーブルに肘をつき、手を組み合わせた。

 

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