抜き足。 差し足。 忍び足。 これが「リングの紳士」だか「リングの詩人」だかと異名をとったロビンマスクのしていることだとバレたら、明日には首を吊る女性たちが巷に溢れそうである。 「今夜はビート・イット」ならぬ、「今夜はビーストモード」。 いい加減、忍耐力の限界に来たのだった。
無知、天然、無垢、極普通。 まあなんとでも表現すればいいが、知らないというのは恐ろしい。人食い鮫の泳いでいる海域で、血の滴るレア肉を御守り袋に入れて遠泳するような真似をする。(←元ネタについてのツッコみは無用に願います) そこはそれ、人食い鮫にたとえてみたし、この一件に関してはほとんどそれと大差ないとはいえ、地位も名誉も一応は理性もあるロビンである。鮫ほど単純ではなく、もう少しくらい頭を使い、確実な捕食チャンスを、待つだけでなく自ら作り出すくらいの芸はする。 が、ご馳走が食べやすい状態で目の前をちらちらしているのに、二年も三年もお預けされているとなると、理性の有効性はかなりあやしかった。
特に今日は、大変な一件があったのだ。 昨日から親しい仲間と共に、集中トレーニングを兼ねた合宿を行っている。 実戦に等しいスパーリングが終わった夕方、誰かから「ウォーズマンは蛇が苦手らしいぞ」と聞いたらしいキン肉マンが、濃い緑色の、ほどほどの長さと太さのロープなどを使って、 「わっ、蛇だ!」 などと叫んでウォーズマンのほうへ放り投げたからとんだパニックが起こった。 視界も悪かった。それで、一瞬は誰の目にも本当に蛇に見えた。 無論、ただでさえ苦手なウォーズマンにはロープだなどと見抜けるはずもなく、悲鳴も上げずに隣のロビンのところへと、仕切りをぶち破って飛び込んでき、しがみついたのである。 場所は、シャワールームだった。
仲間の手前せいぜい平静を装った。自分の立場とかイメージとか今後の生活のことまで考えて、なんとか抑え込んだ。なにをかまでは言う必要もあるまい。 だが、室内には湯気が立ち込めて視界はほとんどきかないし、キン肉マンはすぐに種明かしをしなかった。投げられたロープがなかなか見つけられなかったものだから、しばらくは全員が本当に蛇だと思い込んでいた。 その間、ウォーズマンはロビンにばっちり密着して離れなかったのである。
こういうのを、嬉しく哀しい生き地獄と言う。あるいは生殺しだ。 蛇なぞ少しも怖くない、というラーメンマンがロープを見つけて掴み上げ、やっと悪戯だと判明し、キン肉マンが全員から袋叩きに合うことで解決はした。 が、ロビンのほうはちっとも解決しなかった。 だいたい、基本的にはノーマルなロビンはには、れっきとした細君までいる。にも関わらず悩殺されているのだから、その煩悩の激しさは並ではない。 理性を総動員させていたため今もって頭痛がするが、ズキズキするのはもっと下のほうも同じだった。
しかも、どんな運命の神の悪戯か、一つ屋根の下。 他の連中も一つ屋根の下だと自分に言い聞かせたが、眠ろうとしてうとうとしたところで、夢現にシャワールームの光景が蘇ったのだから、プツッといくのも無理はなかった。 (おまえが悪いんだ) ―――と、ロビンは後先顧みなくなっていた。
音を立てないように長い廊下を進み、目当ての部屋に近付く。 と、ドアの隙間から灯りが洩れていた。 まだ寝ていないのだ。 (もう2時だぞ) これでは、忍び込むもなにもなくなってしまう。 だが、はたとロビンの頭に閃いたものがあった。
(よし) と思い切って背をのばし、さりげない足取りでドアの前に立つ。 堂々とノックした。 「私だ。まだ起きているのか?」 頼り甲斐と威厳たっぷりの郷里ロビンボイスを心がける。 間もなくドアが開いて、黒い顔が覗いた。 「あぁ、ロビン」 声音は、来てくれて良かった、と言わんばかりだった。 読みは当たったらしい。夕方の一件で昔のことを思い出しているか、あるいは、部屋のどこかに本当に蛇がいるような気がして眠れなくなっているに違いない。
自ら人食い鮫を招き入れたウォーズマンは、足元を気にして落ち着かない。山の中の合宿所だから、本当に蛇が出てもおかしくはない。苦手なら、そうなるのも無理はないだろう。 ロビンは鷹揚に肩を抱き、ポンポンと軽く叩いてやった。 「まったく、キン肉マンの奴もひどいことをする」 「ん、ああ、いや……うん、でも……」 ひどいと言えば、全員からボコボコにされたキン肉マンを、更に簀巻きにして屋上から外に吊るしたロビンが一番ひどい。ウォーズマンが素直に頷かないのも、そのあたりが理由だろう。今頃、雨の降り出した強風の戸外で、キン肉マンはぶらぶらと揺れているに違いないのだ。ウォーズマンはしきりに窓の外を気にしている。
そんなことはどうでもいいロビンは、思い浮かんだ計画をより完全なものにするため、綿密な計算を行っていた。 さりげなく昔の話などに持っていき、少しばかりハートの古傷に触れたところで、優しくあたたかく慰めてやり、心を許しきった頃合を見計らって、思い切って告白してしまえばいいのだ。それがどういう意味かを教えるために必要なものは、大きめのベッドのみ。 さりげなく促して、その唯一必要なものに並んで腰掛ける。 「昔のことでも思い出したのか?」 優しく問いかけ、 「それとも、怖くて眠れなかったか?」 悪戯に付け加える。 狼狽したということは、二番目のほうが当たっているのだろう。
「まったく、かわいい奴だな」 「かっ、かわいいって、それはないだろう、ロビン」 「たかが長虫一匹だろう」 「さっきあっちの隅で這うような音がしたんだ。だから起きて……」 視線で示された場所を見ると、几帳面なウォーズマンらしくもなく、椅子がデスクの下から引き出され、横に置かれたままになっていた。 苦手で怖いのは確かだが、絶対的に駄目というわけでもない。いるならいるで、見つけ出して追い払うくらいのことはできるようだ。 「分かった。私が見てやろう」 そう言ってロビンは膝をついて床に這うと、机の下に頭を突っ込んだ。
「ロビン、あんたにそんなこと」 「気にするな。それよりどこにもいないぞ。空耳だったんじゃないか?」 「それならいいんだが……」 「心配するな。いるかもしれないなら、今日は私が一緒にいてやる」 「えっ」 「そうすれば、怖くはないだろう?」 「でも、迷惑じゃ」 「遠慮するな。さあ、寝よう」 パチンと、電気を消した。
なんの疑問も覚えないのか、思うことはあっても口を挟まないだけか、そんなことはこの際どちらでもいい。 ソファなんていう無粋なもののない部屋であるのが幸いだ。 理想は「大きめ」だが、なんとか二人で横になれないことはないのだから、ベッドに文句は言うまい。 ほとんど抱き合うようにして横になった中で、臨戦態勢に入っていることだけは勘付かれないよう、ロビンはさりげなく体の向きと位置を調整した。 こっそりと腰の位置を直していると、 「なあ、ロビン」 と間近で声がした。
今の今まで電灯の下にいたせいか、黒い顔は闇の中に溶け込んで、ほとんど確認できない。 「なんだ?」 「その……嫌じゃないか? 俺とこんなふうに近くにいるのは」 「なにを馬鹿なことを!」 こればっかりは、計算もなにもかもなしで声を高めて返した。 「いきなりなにを言うんだ」 「……それなら、いいんだ。……俺―――」 呟いたきり、沈黙が訪れた。
「『俺』? なんだ?」 ジェントル度当社比7割増。胸が詰まるような思いがして、心の中のナイトが顔を出す。 大きな体で残酷な技ばかり持っているくせに、目に見えない部分はこちらが慌てるほど頼りないことがある。気弱な声を出されると、ほとんど本能的に守ってやりたくなった。 だから、抱き寄せたことには本当に他意はない。 途端、短く詰まった声を洩らして泣き出されては、ビーストモードは自然解除になってしまった。
「どうした。ほら、言ってみなさい」 ノーブルモード発動で、優しく問い掛ける。心の片隅では「おいおい、予定と違うじゃないか」と騒いでいるケダモノくんもいるが、とりあえず勢力は弱い。悪人にはなれないロビンである。 「す、すまん。みっともないな」 「気にするな、そんなことは。おまえは少し、涙の理由を抱えすぎているんだ。溢れても仕方がない」 「ロビン」 「私に言えることなら、言えばいい。いくらでも聞いてやろう」 「うん……。俺、こんなふうに人から抱き締めてもらったの、初めてで……。みんな、俺が近付くだけで嫌がったから―――」 あとは言葉にならなかった。
心の赴くままに強く抱き締めると、おずおずといった様子で、抱き返してくる。 「あったかいな」 涙声で言われて、思わず本気のベアハングを出しそうになった。 ロビンの心の中では、ビーストとナイトが乱闘開始していた。 今なら多少の無理は通るぞとビーストが吼えれば、そんな不埒な真似ができるものかとナイトが訴える。 丁丁発止、一進一退の攻防が続き、とりあえずロビンは凝固中。 が……。 「俺、ロビンに拾ってもらえて良かった。そうじゃなかったら今頃……」 きゅう、としか表現しようのない感覚ですがりついてこられては、ビーストに勝ち目はなくなった。
(いや、待て、これじゃ予想したいくつかのケースのうち、一番ありがちな失敗パターンじゃないか) 負けは確定したくせに、諦めの悪いビーストが抗う。 しかし、こんな弱みにつけこんで食べてしまったら、後悔しないかとナイトが言う。 (どうせいただくなら、後味も良く丸ごとがいい) こうしてビーストとナイトは融合した。 とりあえず今夜のところは、よりいっそう敬愛の念と信頼を高めさせて、次回以降に備えるのだ。 ―――しかしロビンは知る由もなかった。 この後も結局、このパターンの繰り返しに終始するということを……。
(誰かキンちゃんおろしてあげて) |