ケビンがジムから戻ってきた時、居間では懐かしい映画が流れていた。 貴重な「お楽しみ」のためだと、ワイドサイズのかなり大きなテレビを買い、オーディオも別購入、とにかく凝りまくって、ちょっとしたホームシアター並である。 モニターから離して壁際に置きなおしたソファでウォーズマンが見ているのは「ミセス・ダウト」だった。 イギリスが誇る名優、ロビン=ウィリアムスが主演のホームコメディである。 ファーストネームがたまたま父親と同じだというだけで、今までずっと彼が出ている映画は無視してきたが、さすがにそんなことはどうでもよくなった。はじまって10分ほどたったばかりのようでもあるし、ケビンはこれ幸いと、バッグを放り出すとウォーズマンの隣に腰を下ろした。
妻と別居した一人の男が主人公である。 主人公はとにかく子供が好きで、子供と遊ぶのが大好きで、それが行き過ぎて別居するハメになってしまう。挙げ句には、子供になかなか会わせてもらえなくなるのだ。 妻と離れて暮らすのはともかくとし、男はどうしても子供に会いたくてたまらなかった。 それで、ハリウッドで特殊メイクの仕事をしているという兄に頼んで、なんと、家政婦のおばさんになりすますのである。そうして、家政婦を募集していた我が家に入り込むことに成功する。 しかし女装趣味や性転換願望があるわけでもない普通の男である。家政婦の格好で、トイレでは当然立ったままスカートをまくりあげて用を足す。そういった滑稽さと共に、いつバレるかとハラハラしつつ、親と子の、そして夫婦の情愛が描かれていく。
見ている内に、ケビンはどうしようもなく切なくなってきた。 子供と遊びたい、子供と一緒に暮らしたい。そのために女装までして乗り込んできた父親。ノリノリの掃除や大失敗など、随所に笑いは溢れているが、子供を愛する父親の気持ちもよく描かれている。 自分の父とは、全く違っていた。 ここまでハチャメチャでなくてもいい。すべきことをたくさん用意するのもいい。ただ、時折でもいいから一緒に遊んでほしかった。 ―――お父さんと一緒に思いっきり遊ぼう。 そんな父親に愛され、笑い転げている映画の中の子供たちが、羨ましくてならなかった。
溜め息が出そうになって、かろうじてこらえた。見入っているウォーズマンの邪魔はしたくない。 憂鬱というほどのこともないが、気持ちは沈んだ。 たしかに、以前のように楯突くことはやめたが、それはなにも、理解しあったからではない。許したからでもない。 触れないようにしただけだ。 わだかまりは捨てたが、それはつい足元にまだ転がっていて、いつでも手元に戻ってくるだろう。 だから―――何事もなかったかのように父に接しながら、いつも上っ面の親しさ、演出されたわざとらしい穏やかさを感じていた。
(俺……親父がこんなふうに笑うところなんて、見たことないな) ロビンとこの主人公とでは、性格も趣味もなにもかもが違う。だがそんなことは関係ない。ケビンはこれまでに一度も、あの父がなにかを心から楽しみ、屈託なく笑い声を上げるところを見たことがなかった。 ましてや、その笑顔が自分に向けられたことなど。 モニターの中、女装をせずには会えもしない子に向ける、哀しみと慈しみの入り混じった目。 自分のものではないその目を見ると、哀しくてならなくなった。
「ケビン」 声と同時に、急に肩を抱かれた。 いつの間にか俯けていた顔を横に向けると、ウォーズマンと目が合った。 表情のない仮面だが、思いは伝わってきた。 困惑と、後悔と、慰め。 だが、言葉はなかった。 だからケビンのほうから尋ねた。 「親父は俺のこと、……どう思ってんだろうな」 愛してくれているのか、とは言葉にできなかった。 だが胸の中ではとうにその言葉がこだまし、マスクの下、両目から一度に涙が落ちた。
どんなに厳しくされてもいい。 言ったことができなかったら思い切り叱ればいい。 あれもこれもと、やることを山積みにされてもいい。 ただ―――なにかができた時には、もっと喜んでほしかった。 当たり前のように頷くだけで、「次だ」と言うだけで、ひどい時にはコーチや家庭教師任せで姿も見せない、そんなのは嫌だった。 アームレスリングでもなんでもいい、一緒に遊んでほしかった。 時折でもいいから、なにかができたとかできなかったとかに関係なく、無条件に抱き締めて、笑いかけてほしかった。 どんなことよりも一番に、愛していると教えてほしかった。
止めようもなく、顎の先から雫が落ちる。 「ケビン」 「……悪い」 「いや」 しっかりと肩に加えられる力が、少しだけ心を落ち着かせてくれた。 「どうなんだろうな」 もう一度尋ねた。
「ロビンは君のことが好きに決まっている。表現の仕方を知らなかったか、間違っただけだ」 ―――とは、ウォーズマンは言わなかった。 言ったのは、 「分からない。ただ、まだやりなおせると思う」 ということだった。
「嫌いなはずはない。それだけは分かる。ただ、親なら誰でも、無条件に子供を愛しているとは限らない。ロビンは―――責任感が人一倍強いからな。君を愛することより、早く一人前の超人にして、次代を任せられるようにしないといけない、そんなことを先に考えたのかもしれない」 言葉は、一つずつ頭の中に染み込んできた。 「彼は限りなくパーフェクトに近いが、それでもそうではないんだと思う。だからキン肉マンには勝てなかったし、負けて荒れもした。バラクーダと名乗っていた時はひどかった。親としてもそうで、君のことを愛し損ねたのかもしれない」 そこまで訥々と語り、 「ただな」 とウォーズマンはケビンを見た。 「まさか、言うことを聞かなくなったからって、君をただ失敗作だなんて見てはいない。自分が間違っていたことには、きっと気付いている。やり直したいと思っている、きっと。昔のことはどうしようもないなら、今の君を理解したいとは、思っていると思う。……だからと言ってどうすればいいか、もしかすると彼にも分からないのかもしれないが」
ケビンは、言葉の一つ一つを頭の中で繰り返した。 (今の俺、か) そう思うと、心の中でパズルのピースが一つ、あるべきところにおさまったような心地がした。 わざとらしい上っ面の会話。ぎこちなく空々しい笑い。ふとした沈黙は空疎で、慌てて取り繕う紳士的態度。「そうだ、久しぶりにお茶でも飲むか?」。 悪かった、と謝るような気配はどこにもない。それが少し気に障っていた。 だが、ウォーズマンの言うとおりなのかもしれない。 謝れば許されるだろうか? 謝られれば許せるだろうか? それもいつかは必要になり、できるのかもしれない。 だが今は、昔のことより今のこと。 道を踏み外し彷徨った結果、予定とは違う様になった息子だが、それをあるがままに理解し、認め、受け入れたい。その努力―――なんとか引き止めて空々しくとも会話をしようとする、ロビンの態度が意味するのは、それなのかもしれない。 それはともすると、遅れてきた「父の愛」なのかもしれなかった。
いつの間にか涙は止まり、乾いたその痕が少しひきつれるような感じがしていた。 「そうか」 と言ったケビンの声は、もう硬くはなかった。 そしてふと。
「なあ」 「なんだ?」 「俺―――」 「ああ」 「俺、親父のことは、今でも嫌いだ」 「ああ」 「けど……愛してほしいよ」 乾いたはずの涙が、急に蘇った。 「……そうだな」 「そうしたら、俺も好きになれる」 「うん」 「好きになりたいよ」 「……うん」 肩を抱く手が、いっそう強くなった。
好きだから、嫌いになった。 それならもう一度、好きになれるかもしれない。 嫌いになった理由が「今」の中から消えれば。
もう子供ではないから、はしゃぎ声をあげて遊ぶことはないだろう。 けれどもし、父の目の中に間違いようのない愛情を感じられたなら。 その時には、一杯のお茶を飲むために家に顔を出し、父がいないならと諦めて帰るくらいのことはしてみよう。
映画はいつの間にか終わり、ニュースが流れていた。 「途中から見てなかった。あんたも見損ねただろう。ビデオ借りてくるよ」 「ああ、頼む」 ケビンはいつものコートを掴み、ふわりと街の中へ出て行った。
(終) |