生きている。 そう考えられる以上、私は生きている。 だが日常の中では、自分が生きているということを実感することはほとんどない。 目覚め、食事をし、新聞を広げ、散歩に出かけ、トレーニングをし、友人と語らう。それも全て生きていればこそであるにも関わらず、私は、いや、私以外にも多くの者が、自分が生きているということを実感しつつ生活することはない。
だが今、私はつくづくと、自分が生きていること、そして命あることの素晴らしさを味わっていた。 腕の中に愛する者を抱き、そのぬくもりを感じているこの時間。 生きていることの喜びが胸の奥から溢れてくる。 そしてふと、これがアリサに知れたらどうなるかと、現実的な不安がよぎる。不思議と、その不安さえも愛しい。
私が感傷にひたっていると、彼の右目にほのかな光が揺らいだ。 左眼は我々と同じ構造の眼球。だが右眼はメカニカルなセンサー。その稼動を示す光は、これくらい暗い場所でないかぎり確認することはできない。 この黒い仮面の下の、特異な顔。 私には、なによりも愛しい奇形。
「ロビン……?」 「気がついたか」 「あ……、俺……」 「すまないな。少し無理をさせたらしい」 珍しくせがむ言葉を上げて、放してくれなかったのはウォーズのほうだが。 私の言葉でいくらかは我に返ったのか、ひどく狼狽してシーツを顔に引き上げた。 その手をやんわりと止めて、下ろさせる。 ウォーズの心中など私には分からないが、生きていればこそ、抱き合うこともできるのだ。一度は互いに失うかと思ったものを再び手にする至福。溺れてなにが悪いだろう。ただならぬ歓喜。 「愛しているよ」 何度か口にしたことのある言葉に、不覚にも私自身が感極まりそうだった。
愛している。 それは、愛されることよりも激しい喜びだ。 愛する者がこうして傍にい、私の思いを受け止めてくれること。 それに勝る幸福など、この世にはない。 「愛している」 カツン、と金属同士のぶつかる音。 私たちの繰り返す、滑稽な口付けだ。
と、どうしたのか、ウォーズが私の肩を押した。 傷にでも触れたろうか。体重をかけすぎないよう、充分留意はしたはずだが。 どうやら、そういう身体的な苦痛が理由ではないらしい。それが証拠に、ウォーズは私に背を向けてしまった。 いったいどうしたというのか。 ついさっきまでは、手が離れるのでさえ嫌がっていたのに。 「ウォーズ? どうした?」 顔を覗こうとすると、丸くなってシーツを引き上げ、隠れてしまった。 恥ずかしがっているというのでは、ない。 どうしたのだろう。
プライドも恥も見栄もない。 私の心は一転して不安の灰色一色で、なんとか理由を聞きたいと、言葉を変えては繰り返し尋ねた。 私がなにかしたのであれば、どうとでも償おう。ただでさえ借りばかりなのだ。傷つきやすい心を、幾度か踏みにじったことさえある。 「教えてくれ。頼む」 嫌われたら、生きてはいけない。 馬鹿馬鹿しいと自分で否定したこともあるが、たぶん、そうなのだ。 仕方がないからと諦めて、他の誰かとよろしくやるようなことは決してできはしない。 分かっている。
何度も何度も懇願すると、押し負けたというより、いたたまれなくなったのだろう。ウォーズが少しだけ私のほうへと顔を向けた。そしてじっと私の目を見る。 やがてその手がのびて、私の頬に触れた。 なにかあったにしても、許してくれるのだろうか。 そう思いきや、 「ずるい」 と一言。目を逸らしてしまった。
ずるい? なにが? 「なにがだ?」 私が問うと、 「あんたも、剥がれちまったんだよな」 「え? あ、ああ」 このマスクのことらしい。 「キン肉マンが……ほんのちらっとしか見えなかったけど、あんたは相当な二枚目に違いないって言っていた」 「そんなことを。まったく。そんなもの、どうでもいいだろうに」 私の顔が一般受けしようがどうしようが、そんなものはどうだっていい。そんなもので私のなにが決まるわけでもない。私は呆れて溜め息をついた。
「どうでも良くない」 だが、ウォーズの不機嫌な声に突き放される。いったいどうしたというのだろうか。 私の顔? どうせ見せることのない顔だ。私たちの気持ちは、そんなものにはなんの関わりもなく生まれ、育ってきたのではないだろうか。私が世間で言う二枚目だろうが、あるいはキン肉マンのマスクのような三枚目だろうが、それで気持ちが変わってしまうとでも? ああ、いや、ウォーズはそんなことは言っていない。 私は混乱し、じっとウォーズの目を見た。 すると……
「俺も見たことがないのに、他の奴等が見るなんて……、そんなのない」 と、彼は言った―――。
つまり、嫉妬なのか? あの時、キン肉マンがくれたタオルのおかげでなんとか隠すことはできたが、それまでの間には私の顔を垣間見た者が何人もいる。 自分は見たことがないからと、それで拗ねているというのか。 「私がバラクーダと名乗っていた時に……」 「いつも髪で隠していただろう。それに、あの時のロビンはロビンじゃない。不摂生でやつれていたし、目つきも声も、本当のロビンとは違っていた」 それを言われると返す言葉がなかった。
そう訴えられた私にできることは、二つに一つだった。 無茶を言うなと宥めるか、それとも。
躊躇いはあった。 アクシデントならばともかく、自ら見せるには覚悟が必要だった。 超人レスラーとしてのアイデンティティの塊を、一時的にせよ外すというのだから。 だが、ここにいる私は誰だ? 私がロビンマスクであるかどうかが、今ここで関係あるだろうか? ならばいっそ、特別中の特別にして、縛り付けてしまおうか。 私の顔を見た以上、もうどこへも逃げられないし、離れられないと。 ―――それがいい。 そうしよう。
「分かった」 寝台の上に起き直り、両手をマスクにかける。途端、予想はしていたが、 「やめろ!」 ウォーズの手がのびて、私の腕を押さえた。 「俺の我が儘だ。外さなくていい」 私は首を横に振ってこう言った。 「私の我が儘だ。世界でただ一人、ちゃんと私の顔を見て、そのかわり、もう私の傍からは放さない」 「ロビン!」 私は、初めて誰かの前で、自らこの仮面をとった。
養生中にのびた髪が目元に落ちてくる。近いうちに切ろう。……いや、もう自分で切る必要はない。ウォーズに切らせてみようか。案外器用にやってくれるかもしれないし、虎刈りにされるかもしれない。もしそうなっても、どうせ誰にも見せることのない顔だ。ウォーズには、おまえのせいなのだから笑ったら厳罰ということにすればいい。 「……どうだ? おまえの好みの範疇にあればいいが」 邪魔な髪を両手で後ろへ撫で付けて、ウォーズを見た。 「オ、俺……」 大変なことをしてしまった、とでも思っているのだろう。敷布を握った拳が震えている。 私はその肩をとって、抱き寄せた。 ひんやりと、触れた頬が冷たく心地好い。
「これでマスクマンというのも大変でな。特にこんな通気性の悪い鉄仮面は困りものだ。夏場に日本にいた時は、どんなスケジュールより優先して、いつどこでどう一人になってケアするか、そればかり考えていた」 私が言うと、ウォーズが小さく笑った。 「で、どうだ? 私はおまえの恋人として合格か?」 もう一度向かい合う。ウォーズは、 「……俺には、勿体なさすぎる。不釣合いだ」 そう言っておずおずと頭を預けてきた。
その声の含む、暗い響き。 「馬鹿だな」 私はウォーズの顔に手をかけた。 大きく震えたのを無視して、力を加える。 可哀想に、恐ろしすぎて自分ではやめろとも言えないし、止められもしなくなる。体が強張り、激しく震え出した。 そっと黒い仮面を外し、脇へ置く。そうして、剥き出しになった顔を覗いた。
無残な顔だ。 彼がどうして生まれたのか、あるいは作られたのか、それとも作り変えられたのかは知らない。 だが、これがもし神の手による自然の造形なら、その神は居眠りでもしていたのか、彼が嫌いだったのか、いずれにせよ許しがたい暴虐だ。 腕も指も足も、他は全て人間と変わりない形に整えられ、内部はきれいに隠されているのに、よりにもよって顔だけが剥き出しとは、悪意以外のなにものでもない。 だが…… 「私は、おまえの顔がこれで、良かったと思っている」 それは、私の偽りない本心だった。
こんな姿に生まれ、傷つき、華奢な心に絶望と怒りと憎しみ、とめどもない哀しみを背負い込んで必死に生きてきた。それがおまえだ。 私はそんなおまえを愛している。 おまえの顔が私たちと大差なく、さしたる苦しみも哀しみも知らずに生きていたら、おまえの心はもっと違っていたかもしれない。 私たちが出会うことすらなかったかもしれない。 出会ったとしても、とても私の心は動かない誰かになっていたかもしれない。あるいは、当たり障りなくいるだけの存在に。 そして、もしおまえがその顔のせいで皆から遠ざけられるなら、私には好都合だ。 私だけのものにしておける。 私だけが愛して、そんな私だけを愛してくれる。他に誰もいないからでもいい。私だけを―――。
「私の我が儘のほうが、数段格が上だな」 我ながら大した狂いようだと苦笑した。 こんなことは言うつもりではなかった。何度も考えはしたが、言えば怖がられるのは間違いないと、心の中だけに仕舞っていた。 だがほんの少しばかり意地悪に、自分の捕まった相手が決してまともな男ではないことを、教えてやりたくなったのかもしれない。私は心優しい紳士などではなく、醜怪で強欲なゴルゴーンの末裔なのだと。 「どうした? 怖くなったか?」 震えは消えたが、かわりに完全に沈黙してしまったウォーズに問う。 どう答えようと、私から逃れられないことは分かっているだろう。 答えなど聞けなくてもいい。私は外したときと同じように、そっと仮面を元に戻した。
元のとおりの黒い顔が、僅かに光る右の目が、私を向く。そして、 「……вы
шальны」 ウォーズの口から洩れた言葉に、私はたまらなくなって何度も口付けた。 膨大な情報を整理できるコンピューター混じりの頭が、英語とロシア語を混同するということは滅多にない。にも関わらずロシア語でそう言ったのは、それほど茫然としたからか、あるいは、私が訳せないと思ってのことか。 どちらでも構わない。 私にとって重要なのは、そう言ったウォーズが私の首に腕を回し、抱きついてきたこと、ただそれだけだ。 「覚悟してくれ。気の触れた男に捕まったんだ」 肩口の頭が頷いて返す。 「Я люблю вас」 「ああ。……ああ。私も愛しているよ」
遠く背後で、重い扉の閉まる音がしたような、そんな気がした。
(終) |