なにを言っても無駄だと、心のどこかが崩れ落ちた時、自然に声が出なくなった。 俺の言う言葉には意味なんて一つもない。 俺のすることにも。 なにもかも、石を投げる合図か、嘲笑を浴びせる切っ掛けでしかない。 泣いても。 笑っても。 怒っても。 それをしているのが俺であるかぎり、腕を振り上げる口実でしかない。
哀しみや苦しみを感じないようになるまでには、ずいぶんと時間がかかった。 なかなか難しかった。 声のように簡単には消えてくれなかった。 俺がやっと見つけた答えは、俺もあいつらと同じようになることだった。 どんな言葉にも意味なんかない。 どんな行動にも意味なんかない。 全て、俺が拳を振り上げるための引き金。 罵られても。 嘆願されても。 おだてられても。 相手の口が開いて声が出たなら、俺に向かってなにかが動いたなら、俺はそれが実行されるより早く、叩きのめせばいい。 そうすれば、哀しいことも苦しいこともなくなった。
負けるために戦えと言われ、そしてこの顔を曝して笑い者になれと言われ、俺は対戦相手、教官、止めようとした奴等、全員ぶちのめして逃げた。 そして俺はまた少し、心を崩して捨てた。 少しだけ、こんな俺にもまだなにかを信じる心があったことが哀しくて、それごと捨てた。 誰もいるはずがないんだ。 どこにもあるはずがないんだ。 俺も必要としてくれる人や、場所なんて。 どんな力も、それを持っているのが俺である限り、認められることなんてない。 認められようと思うから、仲間に入れてもらおうと思うから、哀しく苦しいことが起こる。 それなら俺は、俺に触れようとする言葉も人も場所も、なにもかも壊してやる。 そうすればもう、どんな哀しいことも苦しいことも、きっとなくなる。 ―――世界は、灰色の中に沈んで、俺はもうなにも感じなくなった。
なにも聞こえなくなった。 目に映るものはあったが、どんな意味も持たなかった。 それがなにで、なにをしているかは関係なかった。 俺に向かっているようなら、全て、壊せばいい。 たとえそれが誤解でも、知ったことじゃない。 どうせなにもかも、俺の敵なんだ。 まだなにもしていないだけで、切っ掛けがないだけで。 勝たなければ。 この世界に。 怨嗟と、嘲笑と罵倒に、恐怖に、悲鳴に。 勝ち続けるかぎり、俺はここにいられる。
その日も俺は、誰かを殴っていた。 誰かは知らない。 そいつがなにをしたのかも覚えていない。 ただ、殴っていたのは確かだ。 顔の形が崩れて、目玉が片方飛び出して、ひしゃげた鼻から血が流れ、折れた歯が空洞の隙間を不規則に刻み、殴るたびに俺の拳が汚物で汚れ、もう少しで頭蓋骨が粉々にできる。 そこで邪魔をされた。 邪魔をしに現われた奴等を片っ端から沈めた。 何人いたかは知らない。 全員倒して、活きの良さそうなのにマウントした。 さっきのあれはもう終わったかもしれないが、これならしばらくは殴っていられそうだった。 拳が肉を打ち、骨に響く感触は心地好い。 この力。 力だけが、俺を世界に立ち向かわせてくれる。 それを確かめることだけが、少しばかりの充足を与えてくれた。
なにか聞こえたような気がして後ろを覗くと、一人の男が立っていた。 このあたりでは見ない高価そうな格好で、顔は髪の毛でほとんど見えなかった。 俺に向かってくるのでないなら、見ているだけならどうでもいい。 俺はまた、下にある顔を殴ることにした。 振り上げた腕を取られた。 誰かは知らない。 だが俺の邪魔をする。 ならば潰す。 とられた腕を振り払い、緩んだ肉の上から跳ね降りた。 顔のない男だ。 見えている鼻の頭に、拳を突きこんだ。
だが、俺の手は空を切り、次の瞬間には俺は空を見ていた。 背中に衝撃があり、世界が揺れる。 俺が倒れている……? なにが起こったのかは分からなかった。 足を滑らせた覚えもない。 よく分からなかったが、起きてみると、その男は少しも変わらずそこにいた。 もう一度殴った。 今度は分かった。 俺の拳を避け、突き出した腕の肘を、その男は軽く叩いた。 それだけで俺はバランスを崩して回転した。 踏みとどまろうとしたが、足元にでかいゴミがあった。 それに足をとられて尻餅をつくと、俺の下でゴミが音を立てた。
何度向かっていっても同じだった。 俺が疲れてきても、そいつは平然としていた。 何故か分からなかった。 やがて、腹の真ん中に重い塊がぶつけられて、爪先が浮いた。 足に力が入らなくなった。 地面についた手を上げることもできなくなった。 無理に立とうとすると、余計に足が言うことを聞かなかった。 囁きあうような歓声が聞こえた。 いつの間にか俺たちは野次馬に取り巻かれていた。
……俺は、負けた。 勝てなかった。 負けたら、この顔を見せないといけない。 そんな気がして、自分で仮面を外した。 忍び笑う声は悲鳴に変わり、散り散りに崩れた。
俺の前には、男が一人だけ残った。 俺がなにをしても駄目だった。 たった一発で俺は負けた。 それなら、こいつが笑うのを、俺はどうやっても止めることができない。 今度はどうすればいいんだろう。 どうすれば哀しくも苦しくもなくなるんだろう。 もっともっと、なにも考えないしなにも思わないしなにも感じない、心なんてもの全部なくせば、そうなれるだろうか。 笑われても馬鹿にされても、なにも感じないほどきれいになくせば。 どうすれば、それだけきれいになくせるだろう。 もう、こんなこともなにも考えなくていいほど、きれいに。
目の前に黒いものが現われた。 俺の「顔」だった。 だから? それをとるのも、つけるのも、もうどうでも良かった。 空っぽになるんだ。 動くのもやめて、考えるのも思うのも感じるのもやめて。 そうすれば、哀しいことも苦しいことも全部なくなる。 もうなにもしない。 もうなにもせずに、ここに転がって、止まるのを待てばいいのかな。 そうすれば、もう哀しくも寂しくもなくなる、きっと……。
カチリと、間近で音がした。 顔に感じる違和感で、仮面が戻ったことを知った。 何故? 少しだけ世界が覗いた。 左の肩だけ暖かかった。 「立ちなさい」 という低い声が聞こえた。 「ほら」 と腕を引かれて、すごい力で無理やり立たされた。 いつの間にか雪が降り出していた。 俺の肩に積もった雪を、目の前の男が払い落とした。 そして、彼が言った。
「素晴らしい力だが、基礎がおろそかになっている。どうだ。私の言う条件を飲んでくれるならば、私がおまえを鍛えなおしてやろう。世界の一流超人に通じるまでにな」
俺は初めて、俺に話し掛けられる言葉を聞いた。
罵声でなく、嘲笑でなく。 信じられなかった。 本当か、と尋ねたかったが、声は出なかった。 俺が喋れないことに気付いて、彼はなんでもないように呟いた。 「声帯に当たるものはないのか。不便だが、イエス・ノーで答えてもらえればいい。どうする。私と来るか?」 俺の顔を見たはずだ。 超人でもなければ、ロボットでもない。半分ずつ入り混じった醜い顔を。 だが、なにも言わないのか? 俺がそう思ったのを、彼は勘違いした。 「条件が気になるか。簡単だ。私の代わりに、超人オリンピックで優勝すること。それだけだ」
超人オリンピック。 優勝するということは、全世界の超人の中で、トップに立つということだ。 目の前の男も超人だろうが、それに勝てない俺に、頂点まで行けと? 「私は、そのためにおまえを鍛える。容赦はせん。だが、私の目に狂いがなければ、おまえは私が出会ってきた中で、一、二を争う逸材だ。磨かれていないだけに過ぎない。私がこの手で磨き上げて、最高の戦士にしてやる」 髪の隙間から、少しだけ目の光が覗いた。 それは鋭く、偽りないというよりは、残酷だった。
俺は、バラクーダと名乗った彼と行くことにした。 彼はどうやら体を傷めているようで、右足を少し引きずっていた。 彼が俺を、なにか恐ろしい目的の道具にしようとしていることは分かった。 俺を「使える」と思っているだけなのは分かった。 ついていけば、利用されるだけだということも。 けれど、どうでも良かった。 俺を選んでくれたのだ。 半分は機械でできたこの俺を、そんなことなど関係なしに。 この顔のことも、本当は気持ちが悪いと思っているのかもしれないが、だがそれを言わず、顔にも態度にも出さないでいてくれる人に、初めて会った。 それでいい。 それだけでいい。 この世界で、俺がいてもいい場所を作ってくれるなら、俺といてくれるなら。 あんたは俺に、なにをしてもいい。
あんたのためにやるよ。 なんでもするよ。 その代わり、一つだけお願いだ。 優しくしてくれることなんかないし、手加減してほしいとも思わない。 どんなにつらく当たられても、厳しくされてもいい。 ただ、仕方なしでもいいから、俺といてくれたら……。 そうしたら俺は、あんたのためになんだってしてやるから。 だから―――。
(終) |