Baby Face

 クロエだけは、俺のものだと思っていた。
 他の誰にも関係ないし、他の誰も見ない。
 クロエ自身のため以外には、俺だけの、俺のためだけの存在。
 俺のことを第一に考えてくれるし、冷たいのも厳しいのも優しいのも、全部俺のため。
 俺にはかけがえのないパートナーだ。
 ……自分がそんなふうに思っていたことに、できるなら気付きたくはなかった。
 そうじゃなかったことを知って、俺は、自分のそんな気持ちに気付いたから。

 もう少し早く、何故、ということを考えておくべきだった。
 疑える要素はいくらでもあった。
 俺はたぶん、あえて気付くまいとしていたのかもしれない。
 万太郎との戦いを、途中からあまり覚えていないのはそのせいだ。少しずつ埋まっていくパズルのピース、疑いようもなく現われてくる顔。
 親父とのわだかまりを捨てれば強くなれる。クロエはそう言った。俺は俺がもっと強くなるために、親父の影を飲むことにした。
 なのに。

 ウォーズマンは、親父の弟子だ。
 親父のものだ。
 俺をサポートしたのも、親父のためだ。
 親父に受けた恩を返すため、息子の俺をサポートしたにすぎない。
 俺に親父の技を使わせたのも……?

 つまり―――クロエは俺のものじゃなかった。
 クロエも親父のものだった。
 俺の体も力もなにもかも、いつまでたっても親父の影から抜け出せない。手に入れるものも全て、どこかに親父の気配が漂ってる。
 俺は俺だ。俺のはずなのに、俺は他の誰であるより先に、ロビンマスクの息子。
 クロエだけは、親父のことなんか関係なしに、俺を、この俺を見てくれてると思っていた。
 それなのに。

 

 許せない。

 

 ろくに礼も言っていないから、などと俺らしくもない理由で探せば、居所はすぐに見つかった。
 自分でも寒気がするほど紳士的に―――俺が一番嫌いな態度と親密さで、会ってちゃんと礼を言いたいと頼んだ。
 この俺がだ。
 この俺がそんなバカげたことを言う不自然さに、彼は少しの疑問も持たなかったのだろうか。
 それとも―――やはりロビンマスクの息子だな、などと?
 ……殺してやる。
 だったら殺してやる。
 無茶苦茶に壊して、ばらばらにして、部屋中に撒き散らしてやる。
 ―――用意したグラスが、手の中で粉々になった。
 てのひらに滲んだ血を見下ろした時、ベルが鳴った。
 間抜けなお人好しが、のこのこと罠に落ちに来たらしい。

 どんな顔をして出迎えてやろうか。俺はそれを思ってマスクの下で笑った。
 さわやかな好青年的出迎えが場には相応しいが、そんな俺はおかしいと、さすがに不審に思うだろう。自分のしようとしていることに照れながら、無愛想に素っ気無く、少し戸惑い気味、というのはできすぎか。それなら、ずっと一緒にいた時、呼び出して出迎えた時のままがいい。
 それとも?
 ……自分でも、分からない。だが俺は、マスクをとった。
 鋼のそれをテーブルの上に置き、
「クロエか?」
 まるでうっかり言い間違えたように、当たり前のように、その名で呼ぶ。
「ああ」
 と答えた声に混じる苦笑があった。
 クロエ。俺のクロエ。俺の。
 俺のだった。俺のだったのに!

 頭がかっとなって目が回った。部屋が消えドアだけになった。剥ぎ取る勢いでドアを開けた。そこにいた、クロエじゃないクロエの顔、そんなものはろくに見ずに、仰天した彼の腕を引っ張って中に引きずり込んだ。この味気ない黒い仮面を剥がせばその下にクロエの顔があるような気がして、驚いてとっさに上がった手を叩き払い、むしりとる。出てきたのは半分は機械で半分は生身のいびつな顔。
「クロエ……クロエ……!」
 俺のクロエ。
 なんでいなくなった。
 なんで、こんな……。
 なんでこんな奴になった。
 黒い喉に手をかけて力のかぎりに締め上げる。
 なんで親父のおさがりなんだよ。
 なんでこの人なんだよ。
 なんで、クロエじゃなかったんだ。
 なんで、なんで―――。

 気がつけば俺は床に座り込んでいた。
 ぽつぽつと音を立てて、床が濡れる。
「くそっ、くそ……っ」
 自分が泣いているのは否応なく分かった。だがどうでも良かった。なにもかもどうでも良かった。頭の中は灰色で、自分が怒っているのか哀しんでいるのかも分からなかった。
 視界の端によぎった黒い手が、そこに落ちていた黒い顔をとる。小さな金属音がして、
「ケビン」
 と、ウォーズマンが言った。
「出てけ。あんたに用はない。あんたになんか」
 俺がほしいのはクロエだけ。クロエだけだ。そう思うと、一度にいくつもの涙が落ちた。
 俺は、クロエがいなかったら、俺は一人だ。この世にいないのと同じだ。いるのは、ロビンマスクの息子だけだ。そんなもの、俺でなくてもいい。
 俺は、この世のどこにいるんだろう。

「ケビン」
 黒い体が光を遮る。俺の前に片膝をついて、ウォーズマン、親父の弟子。親父の盟友。親父の。
「勘違いならすまんが、その……それは、ロビンのせいか?」
 クロエが一度も聞かせたことのない、労わるような、目上の者の調子。
「ああそうだ! 出てけ! あんたに用はねえ!!」
 のばされかけていた手を払いのけて、睨みつけた。
「親父のためか、俺といたのは親父のためなんだろう!? 俺があいつの息子でなけりゃ、見向きもしなかったんだ!」
 俺がどんなに必死にがんばっても、なにをしても、いつもいつもいつも、ロビンマスクの息子ならできて当たり前、ロビンマスクの息子なのに、どうしてこんな、さすがはロビンマスクの子供だ。俺がなにをしても、どんなにがんばっても、褒められるのもけなされるのも親父だけで、俺なんかいてもいなくても。

「ケビン」
 急に強く抱き締められて、我に返った。息が荒れて、喉と頭が痛かった。怒鳴っていたのかもしれない、とぼんやり考えた。けれど、何故? この抱擁は?
 憐れまれたのかもしれない。もう一人前になったはずの男が、子供みたいなだだをこねるのを。
「バカだな、俺は」
 クロエ。
 クロエにも、呆れられ、嫌われるような気がした。こんな情けない我が儘坊主、きっと。クロエなんか、どこにもいないのに。
 頭の中がクロエのことだけで一杯になる。どうしてずっとクロエのままでいて、クロエのままで去ってくれなかったのか。そうすれば、まだしも。

 ウォーズマンの手が、俺の髪を撫でていた。
「クロエに戻ったほうがいいのか?」
 と言う。見当違いだ。そんなもの、もう遅い。どんな仮面をかぶってどんな名でいても、あんたはあんただ。親父のくれた土産だ。もうクロエはいない。いなくなった。消えてなくなった。最初からいなかった奴が、ただの幻覚が、真実の中に消え去っただけだ。もう二度と戻ってなんか来ない。
「泣くな」
「それならほっとけ。ほっといて出てけ」
「放っておけないから言うんだ。どうしていいか分からなくなる」
「あんたもう充分なことをしただろ。俺は優勝した。親父への借りも恩も、それで充分返したはずだ。あんたのおかげで俺は勝てた。そうでなけりゃ」
 器用な機械は、溜め息までついて聞かせた。
「ほっとけよ」
 わざわざここにいて、わざわざ呆れて、そんなものをわざわざ俺に見せることなんかない。

 出て行け、というつもりで押すのに離れず、ウォーズマンが言う。
「……ロビンの影が、邪魔か?」
 もう今更つける格好もなく、俺は頷いてやった。
 重荷だったのは昔のこと。それが嫌でたまらずに、比較のしようもないようなヒールになろうと決めて、道を外れてからは軽くなった。それでもいつも、邪魔で邪魔で仕方がなかった。
 俺は、負担とか重荷という言葉を使わず、邪魔か、と言ったウォーズマンに少し感心した。そして、ああ、クロエとして傍にいたから、いくらかは俺のことも知っているんだな、と嫌になった。
 クロエは、ウォーズマン。ウォーズマンは、親父のために働いていただけだ。クロエは、親父のおかげでありつけたエサでしか……なかった。
「あんただって、親父のためにクロエになってたんだろう。行く先々で、親父に会わないことがない。どいつもこいつも、みんな俺を」
 言いかけると、金属の手が唇に触れた。言葉が途切れ、ウォーズマンが首を振る。そして、
「それは、仕方がない」
 と言った。

「ロビンは大きすぎる。超人レスラーとしてだけじゃなく、いろんな功績と影響力を持っている。それを無視しておまえを見るのは、相当難しい」
 はっきりと言われると、腹も立たなかった。俺がそう思い込んでいるのではなく、事実なのだと分かって逆に安堵を覚えた。
 黒い顔は仮面、動くことはないが、顔を上げて見ると、少し笑っているような気がした。
「俺も同じだ。ロビンのことを考えずにおまえを見ろと言われても難しい。それは、恩や友情というものもあるが―――、ケビン。少し考えれば分かるだろう。俺はロビンと長いこと一緒にいた。拾ってもらって、それはつらいこともあったしいつもいい人じゃなかったが、何年もパートナーとして組んでいたんだ。ロビンより先におまえのことを考えるには、それと同じ時間か、それ以上一緒にいないと。そうすれば、おまえが『ロビンの息子』じゃなく、ロビンが『おまえの父親』になるかもしれない」
「ウォーズマン……」
 これは、謎かけなんだろうか。こんなことを言って。
 俺が望めば、親父といたより長い時間、俺といてくれるんだろうか。
 親父との思い出の数より俺とのものが増えて、親父のことより俺のことを考えてくれるようになる日を、作ってもいいと言ってくれているんだろうか。
 俺が見つめていると、
「もうクロエには戻れない。みんな知っているからな。それに、いくら年をとらないと言っても、俺はもう一つ前の世代の超人だ。でしゃばるのは好きじゃない。ただいるだけでもいいなら」
 それ以上は、言わなかった。

 

 俺はその翌日からウォーズマンと暮らしはじめた。どういう生活をしていたのか、身の回りの物はバッグ一つにおさまって、引越しなどというものにはならなかったのだ。
 ずいぶんと恥ずかしい真似をした気まずさはあったが、十日もすぎれば忘れられた。
 以前よりだいぶ気が楽になっていた。
 たぶん、今まではどこかで、親父の影響力を無視できるはずだと考えていたせいだろう。当分はどうしようもないと思ってしまえば、いちいち相手にするのも面倒なだけだった。
 ただ―――俺は、別の問題を抱えるようになった。
 どうかしてるんだろうか?
 半分は機械で、顔らしい顔もない。そんな相手に、何故。
 性格や心に惹かれているだけなら、こんなふうに思うはずもないだろうに。
 確かなのは、俺は家にいる時には何故かマスクを外したくなる、ということだ。
 俺を見てほしい。こんなマスクじゃなく、この俺を。レスラーじゃない、我が儘で身勝手でどうしようもない、ただの俺。

 あの時に「邪魔」という言葉を使った聡明さは侮れない。
「おまえの素顔を知っているのは、俺だけか?」
 などと呆気なく言うのも、単なる感想なのか、罠なのか。
 俺は誘われてるんだろうか?
 まんまと乗れば驚かれて呆れられるだけなんだろうか?
 でもたぶん、他の誰にも見せたりはしない。
 親父たちも、赤ん坊の頃の俺の顔しか知らないはずだ。
 あんただけが特別なんだ。クロエでもウォーズマンでもいい、あんただけが。
 だからいつか、俺があんただけの特別になれたらいいのに。
 他の奴なんかほしくない。
 他の奴なんか、どうでもいい。
 誰にとってもヒールで通して、あんたの前でだけ、この顔で。
 そんな自分が、近頃少し気に入っている。

 

(終)