見知らぬ土地に立ったとき、感じるものは2つある。 1つは不安。 そしてもう1つは期待だ。 両方をある程度ずつ覚える者もいれば、片方のみを強く感じる者もいる。 彼は、後者だった。
彼は馬車の上でぐっすりと眠っていた。眠っている間に馬は走り、彼は国の境を越えていた。 強い寒気を感じて目覚めたとき、彼が目にしたのは色味の乏しい、草も疎らな痩せた土地だった。 たいていの者であれば憂鬱になる景色を見て、彼は、この土地にはいったいなにがあるのだろうと心を踊らせた。 視界の隅を、なにか青いものがちらりと過った。途端に彼は馬車から飛び降りてそれを追いたい衝動に駆られた。料金は先に支払ってあるから文句は言われないだろうが、こんなところに一人置いていかれてはたまらない。たぶんあれは蝶かなにかだったから、きっとまた見かけるチャンスはある、と自分に言い聞かせた。しかし、興奮したときの生理で、耳の先がなにやら疼くような心地がするのまでは抑えられなかった。彼は尖った耳の先をさりげなく摘み、少し強く、力を込める。 しかしまたすぐに、今度はたしかにトンボらしきもの、しかも鮮やかなオレンジ色をしたものがついと鼻の先を飛んでいった。ブン、と一瞬だけ聞いた羽音が耳に残る。彼はこらえきれず、隣に座ったノルドの青年の腕を揺すった。 「すみません。今のトンボですが、あれはこのあたりによくいるのですか。どこでも見られるのでしょうか」 青年は一瞬眉を寄せ、妙なものでも見たような顔をし、無愛想にすぐ傍の川面を指さした。 「オレンジ・ダートウイングだよ。見たきゃこうやって、川に来りゃあいい。いくらでもいるさ」 「なるほど。水辺にいるんですね。ありがとうございます」 青年の素っ気ない態度に関わらず、彼は懐から分厚い手帳を取り出すとページをめくり、せっせと今の情報を書き込み始めた。 目を閉じ、一瞬だけ見たトンボの姿、残像を思い出す。まぶたの裏という幕の上に、目が覚えた色彩の形が蘇る。着色できるようなものは持っていない。だが、あのオレンジはなにのオレンジに似ていただろうか、頭の色は、羽の色はと思い返しながら、近いものを書き付けていく。しばらくならこうして思い出すこともできるが、時間がたてば正確ではなくなる。だが、手がかりがあれば、ありありと思い浮かべることが可能だ。これは、彼の特技の1つだった。
「あんた、学者かなにかかい」 彼が熱心にメモをとっていると、興味が湧いたのだろう。逆隣にいたブレトンの男から声をかけてきた。 「まだまだそのタマゴです」 「ここには、なにをしに来たんだ? なんか調べ物でもあるのかい」 「いえ、特には。なんて言うか……いろんなものを、この目で見、この身で感じに来た、というところでしょうか。本や人の話でならば様々なことを知りましたが、風の匂いについては、誰も教えてくれませんでした。これは、この地に立ってみなければ知ることはできなかったでしょうね」 言うと、ブレトンの男は面白そうに頷いたが、逆側で、ノルドの青年は不快げな鼻息を零し、それきりふいとよそを向いてしまう。 なにが気に障ったのかと思うが、解明したところで、この青年と親しくなることはできないだろう。そう考えて、彼はそれきり自分の手帳に没頭した。
オレンジ・ダートウィングというトンボについて、見たかぎりのことを書き付けてから顔を上げると、馬車はいつの間にか、山間の道を走っていた。 あの紫色の花はシッスルだろうか。今の青い小さな花は? 錬金術には使えるのだろうか。そうしたらどんな効果の薬、あるいは毒ができるのだろう。一口食べてみても大丈夫だろうか。効能も気になるが、味はどんな味なのだろう。 (やはり徒歩で来るんだった) もどかしい思いを噛み締めて、彼は荷台のへりを掴む。距離があるからと乗合馬車を選んだが、歩こうかどうしようかさんざん迷ったのだ。馬や馬車はたしかに便利だ。だが、気になったものにすぐに近づくことが難しい。気になるものを見つけても、ただそれを見送るしかできないとは、 (馬車には乗らないほうがいいな) つくづくとそう思い、彼は次の停車場で降りることを決めた。 そうしたら、引き返そうか。いや、まずはしばらく滞在のできる場所を見つけたほうがいい。宿よりは、下宿させてくれる場所がいい。そこを拠点にしてこのスカイリムのあちこちを見て回りしたい。 彼の旅に目的はない。強いて言えば、見たことのないものを見、見たことのあるものの新たな姿を発見することだ。学者と言えば学者だが、公式にその肩書を得ているわけではない。 大戦が終結した後、束の間だけシロディール王都の大学にいたが、"学生"としては勤勉ではなかった。あっちに高名な植物学者がいると聞けば訪ねて行き、こっちに変わり者の錬金術師がいると聞けば会いに行き、シロディールのあちこちを渡り歩いていた。講義にはほとんど顔も出さなかったのである。 無論それにも理由はある。大学は派閥争いや種族的な選民思想に支配され、とてもではないが自由に学べる場ではなかったのだ。 それである日教師から、おまえは大学にいるより旅でもしていたほうがお似合いだと言われ、それは明らかに嫌味と皮肉ではあったのだが、たしかにそのとおりだと自主的に退学を決意した。 そして今、シロディールに見るべきものがなくなったとは思わないのだが、別の土地に行きたくなって、ここにいる。
長く生きている分、身に付けたことは多い。だが、荒事は苦手だった。破壊魔法も身につけてはいるが、そういったものはできるだけ使わないに越したことがないと思っている。もちろん、遺跡や墓所の調査では、気味の悪い化物に襲われることもあったから、彼はいつも、腕の立つ用心棒を雇っていた。 スカイリムでもそのつもりでいる。落ち着ける場所を見つけて、いくらかの噂や昔話を仕入れたら、腕自慢の戦士でも見つけて、同行してもらえないか頼むつもりだ。 どんな戦士に出会えるだろうか。それとも研鑽しあえる魔術師でもいい。素晴らしい先生に巡り合える可能性もある。 見知らぬ土地は彼にとって、未知の宝が詰まった巨大な宝箱だ。 「次の町にはあとどれくらいで着くのでしょう」 待ち切れず、彼は御者に声をかけた。 「ヘルゲンなら、今日の夕方には着くよ。エルフの兄ちゃん、あんた、そこで降りるのかい」 「はい。そこに……」 そこにはなにか名物でもありますか、と言おうとした脇から、突然、 「冗談じゃねぇ。おい、うちは絶対エルフなんか泊めねぇからな。しかもハイエルフなんか、絶対にだ」 隣にいたノルドの青年に肩を突き飛ばされた。 彼は驚いて青年を見やり、そして、仕方のないことだと一人頷いた。
大戦と呼ばれる戦争が終結したのは、30年ほど前のことだ。シロディールを中心とする帝国と、サマーセット諸島を故郷とするアルトマーが争った。勝利したのはアルトマーからなるアルドメリ自治領で、帝国側は一方的な内容の休戦協定に同意するしかなかった。 それだけでも、人間種族から見たアルトマーは印象が悪い。そのうえこのスカイリムには、強いタロス信仰がある。タロスはかつて、タイバー・セプティムというノルド人だったが、その業績により神格化した存在だ。そのタロスを、アルドメリ自治領は神として認めていない。たかが人間ごときが神に列せられるなど言語道断というわけだ。 アルドメリ自治領は休戦時、白金協定の中で「タロスを信仰の対象としない」ことを帝国に強いた。皇帝は休戦のためやむをえずそれを承諾したが、スカイリムのノルド人としては、とても許せることではなかっただろう。 このノルドの青年から見れば、彼はアルトマー侵略者、そして自分たちの大切な神を貶めようとするならず者なのだ。 「貴方の家は、宿屋を経営してらっしゃるんですね。無理は言いません」 彼がそう言うと、青年はまた一瞬妙な顔になり、言葉に詰まった。 束の間の沈黙。そしてふと、ブレトンの男が、 「あんた、ハイエルフにしちゃ妙な人だな。あんたみたいに腰の低いエルフなんて初めて見たよ」 と苦笑した。それはたぶん、ノルドの青年に、アルトマーだからとひとくくりにしなくてもいいではないかと、やんわりと告げる言葉だったのかもしれない。それでも青年は頑なにそっぽを向いたままだった。
大切なものを踏みにじられ傷ついた心を、その踏みにじった側に属する者が開かせるのは、容易ではない。 であれば青年のことはそっとしておいて、現実的なことを考えたほうがいいだろう。今日の寝床である。 ヘルゲンの町自体がエルフ嫌いなら、どこか他に寝床を探したほうがいいのかもしれない。大勢の人に敵意や嫌悪を向けられているのは気が滅入るし、そんな思いをさせてしまうのも望ましくはない。 ノルドの青年とは逆に座ったブレトンの男は、普通に会話をしてくれるようである。だが今ここで彼に、「ヘルゲンの町の近くで泊めてもらえそうなところは」と尋ねるのも、聞いた者にはあまり快く感じられないことだろう。 (着いてから考えるか。それに、野宿も悪くない) 体を横たえられる場所を探して歩けば、その道すがら、またいろんなものが見つかるだろう。土も、石も、草花も、動物も、なにもかも。 想像すると楽しみで、彼は我知らず小さな笑を浮かべていた。
もちろん彼は知らない。 向かう先の小さな町が、今やドラゴンの襲撃を受け、壊滅状態だなどということは―――。
(つづく) |