はるか見下ろす先に、人間の群れがいた。 そのひしめく様がわけもなく気に障り、不快を覚える。 だが、そう、 (我が手の一薙ぎで) と、彼は己の右手へと視線を移した。 あのような疎ましき者は消え去る。
(だが) と彼はまた思う。 (それが、何になる) と。
一人残らず消し去ったとして、そして?
(……分からぬ) 彼はじっと見つめるその手を固く握り締めた。 この腕の中に漲る力。 一つの臓器として脈打つこの体。 常に付き纏うのは、「だから?」という声と、「そして?」と問う声。
(我は……) 我は何故、ここにいるのか。
分からぬ、と幾分不機嫌に彼は長い息を吐いた。 途端、 「よう、ここにいたのかい」 と、声がかかった。 振り返ればそこに、派手な金色の髪をした異相の男がいた。
なんといったか。 押しかけてきて、 「どうだい、俺を雇わないか?」 などと口にした。 意味がよく分からずにいると、脇から妲己が割って入った。その女が相手をしてくれるようなので、彼は去ることにした。 これはあの男だ。 名は―――たしか妲己は、なんと呼んでいたか。聞いたことはあるはずだが、覚えていない。
己と身の丈も変わらぬ、人間にしては相当な大男だ。 それがいつもよく分からぬ顔をして、己に話し掛けてくる。 今はその手に、大ぶりの瓢箪が掲げられていた。
「そう言やぁああんた、酒は好きかい?」 唐突に言う。 応えずにいたが、男は勝手に話を続けた。 「オロチってぇと俺はヤマタノオロチを思い出しちまうんだが、あんた、あれとは関係あるのかい? まあ、そんなわけでこの酒だ。どうだい、一緒に飲まないか?」 瓢箪の口に詰めてあった木端を抜き取り、男はたぷんと水の音を立てた。
酒が香る。 良い香だ。 手をのばし受け取ると、男の顔がまた少し歪んだ。よく分からぬその顔、ひょうじょう、というのか。どことなく不快に思うが、無視できぬほどでもない。 「ほら、ぐいっと」 (煩い) 気に入らぬが、酒には惹かれた。 彼は仰向いて口を開けると、その上で瓢箪を逆さにした。
が、一塊降りかかっただけで、落ちてこぬ。 なにかと思うや、 「そりゃあ無理だって」 と男が言った。 「もっとこう、斜めにしなきゃあ」 よく、分からぬ。 分からぬが、分かることもある。 彼は瓢箪の口を指で折る。 と、大きくなった口から、今度こそとふとふと、酒が波打って零れ落ちた。 それを、口で受け止めるなり飲む。 よく分からぬが、喉が湿るのは心地好かった。
「あーあ……。豪快な飲みっぷりはともかくとして、これじゃあ俺の分は残りそうもないな。仕方ない」 と、男は腰の後ろからもう一つ、瓢箪を出した。 そして、逆の手にあった丸いものを二つ、草むらへ放る。 それから瓢箪の細い口を含むと、喉を鳴らして中身を飲んだ。
彼は空になった瓢箪を片手に、それを眺めた。 今少し、物足りぬ。 だが、別段どうというつもりはなかった。 ただ、男が彼の視線に気付き大きく息を一つつくと、また妙な具合に顔を歪めた。 「分かったよ。ほら。なにせ、一抱えもある大樽で、あー、ひぃふぅみぃ、首は八つだったか? まあ、なんにしろ全部飲み干しちまうんだから」 わけの分からぬことを言いながら、男は飲みかけの酒を彼へと突き出した。
手をのばす。 受け取った時、僅かに男の手に触れた。 違和感。 一瞬手放しそうになった。 が、無視して奪い取る。 そしてまた同じように口を割り、顔の上で逆さにした。
「……酒を酌み交わせば友、ってなぁあの人の流儀だが」 その耳に届いた、小さな声。 (……ト……モ……?) 「まあいいや。また飲もうぜ、遠呂智。今度は最低九つ、見繕ってくるからよ。いや、しかし、瓢箪じゃまずいのか。でも樽? 樽ねえ、樽……。あるかな、そんなに」 ぶつぶつとわけの分からぬ言葉を吐きながら、男は木立の向こうへと去っていった。
今のひとときはいったいなんであったのか。 彼には奇妙な時間だった。 なにか、己の「間」のようなものを外されたような心地がした。 だがそれを追うて考えることはせず、彼はまた裾野の群れへ視線を投げる。 どうしたことか、いつも覚える奇妙な苛立ちは、何故か生まれなかった。 (酒……) そのせいなのだろうか。 よく分からぬが、不快でないからといって、ならば見たいとも思わぬモノだ。 己の心をなにか波立たせるがゆえに、不快を覚えつつも見ずにいられぬだけなのだから。 去ると決めた彼は、生み出した空間のねじれにその身を進め、山から消えた。
(終) |