暴 君
〜明けない夜〜

 「大きく」なった孫権は、この数年間の自分と、見聞きした記憶を思い返していた。
 不思議なことに、これまではすっかり忘れていた記憶まで、今の頭の中にはしっかりと残っている。
 愛玩動物扱いに似てはいたが、可愛い可愛いと大事にされてはきたようだし、と孫権は周泰を見やる。
 息をするのもやっと、という有り様に、口元が緩んだ。

 つい先刻まではマシだっただろう。
 なにせあの体だ。どこもかしこも幼児同然である。
 しかし今の自分は、大人と言い切るにはまだまだ若いだろうが、必要充分な程度には育ちきっている。
(さすがに幼平よりは小柄か)
 腕や肩の幅を見比べて、いささかの不満を覚える。しかし周泰よりも大きいとなると、江東にあと何人もいるとは思えない大男である。
(まあ、いいか。こっちが充分なら)
 見下ろして、確かめる。
 体格に比して見劣りしないだけのものは、持てたらしい。

 孫権の自尊心はともあれ、そんなものをいきなり受け入れている状態になった周泰が苦悶するのは、当然だった。
 どれほど苦しいのかは孫権には分からないが、人が「重傷」と言って恐れる傷を受けても平然とした顔のできる男が、見て分かる程度には苦痛を訴えているのだ。たぶん、余人ならば泣き叫んでも無理はないところなのだろう。

 それを見て可哀想になるかと言えば、そうでもない。
「こういう顔もできたんだな」
 などと笑いかけ、ゆっくりと腰を引く。途端、締め付ける力が倍加して、孫権のほうが思わず悲鳴を上げそうなほどに痛んだ。
(このままでは無理か……)
 香油で誤魔化すにも限度がある。

 欲求不満の侍女たちや、伎楼上がりの妾、そういった女たちの話を思い出す。
 閨房のなんたるかも分かっていなかった孫権を相手に、彼女たちは赤裸々な話を楽しんでいた。ある意味馬鹿にしていたのだろうし、ある意味では、尊く清らかなものを汚す快感に酔っていたのかもしれないし、ある意味では、他愛ない悪戯心に過ぎなかった面もあるだろう。
 なんにせよ、おかげで知識には事欠かない。
 入ってくる時より出て行く時のほうが気持ちいいのよ、という言葉には納得できる。つまり、その場所にとってはそれが自然なことだからだ。とすれば、
「幼平。もともと出すところなんだから、少しは協力できるだろう」
 そう言い聞かせると、周泰の青ざめていた顔には朱がさしたが、やがて抵抗は減った。

 なんとか離れはしたものの、このまま終わらせるつもりなど毛頭ない。
 せっかく「結婚」したのだ。要するに、自分のものにしたわけだ。堪能しないでいる理由はない。
 さてどうするか、と考えて孫権が思い出したのは、例の媚酒のことだった。
 厨房に行けば残りがまだあるかもしれないし、ないとしても、酒に酔わせて前後不覚にすれば、満足に力も入らなくなるだろう。周泰の酒癖については、孫権はよく知っていた。酒癖というほどのこともなく、単に眠くなるだけのようだから、暴れられる心配はない。
(探してくるか)
 何処に仕舞われているかは見当がつく。もし見つからなければ、手に入れてきた本人に聞けばいい。いきなり「大きく」なっていることには驚くだろうが、それで泡を食うほど真っ当な性格の相手でもない。

「幼平」
 ようやく解放されてぐったりしている周泰に言う。
「そのまま待っていろ。いいな」
 そうして孫権は、小さくて着れない自分のものではなく、周泰の袍を拝借して羽織り、外に出て行った。
 今までよりも格段に高い視点から見る風景は、新鮮だった。
 空気の匂いさえ違って感じる。
 しんと冷え切った夜気が心地良いなどと、今までは一度も思ったことがなかった。ただ「寒い」としか思わなかったものだ。

 夜の色、木々の影、月の明かり。
 そういうものが初めて心に届くのを楽しく感じながら、ひとけのない厨房に入る。
 料理長の性格は分かっているし、それを入手してきた者がなんと言って彼に預けていたのかは聞いてある。
「珍しい貴重な御酒であり、私がこの祝事のために特別に提供するものですから、たとえ相手が孫策様であろうと、あることを教えてはなりません。飲んで良いのは孫権様と―――お小さいのでまだ無理ですが―――周泰殿のみとしてください」
 とかなんとか、言いくるめたらしい。
 とすると、と孫権は視線を上に上げた。
 普段使わないような物で、かつ、貴重な品。高価な食器の仕舞われた棚にある可能性が高い。ここの食器は賓客があった時でなければ使わないもので、出し入れするのは料理長のみのはずである。
 椅子を引いてそれに乗り、中を見てみると、奥にこっそりと、小さな壺が仕舞われていた。
 栓を抜いた途端、強烈に甘く香る。
 間違いはないが、どうやらこれは、普通の酒で薄めて使うものらしい。

 加減は分からない。なんとなく記憶に残っている匂いになるよう、手近な酒と混ぜ合わせる。
 そうしていよいよそれを持って戻ると、半ば放心したような様子で、周泰が顔を上げた。
 彼を見て、孫権は凛々しい眉を少し持ち上げる。
 そして、薄く笑った。
「幼平」
「……は」
「私は『そのまま待て』と言わなかったか?」
 杯は傍らの文机に置き、寝台に近づく。そして、周泰が肩から羽織っていた上掛けを掴み、剥ぎ取った。
「誰がこんなものをまとっていいと言った」
 言葉は辛辣だが、声は笑っている。ただし、どう聞いても朗らかとは言えず、すなわち、冗談にも聞こえない。

「し、しかし、このような……」
「口答えするのか」
 周泰の言いたいことは分かる。なにせ、傷痕のひどい体だ。羞恥だけでなく、遠慮も理由になっているに違いない。
 だが孫権には、そんな道理を聞いてやるつもりは微塵もなかった。
 孫権の言葉に、周泰は口を閉じて俯いてしまう。
 幅の広い肩を窄めるようにして、困惑か、混乱か、それとも狼狽か。いきなり年相応の姿になってしまった相手を、「孫権」と感じられずにいる戸惑いもあるかもしれない。
 多少慌てるようなことはあれど、平生は落ち着いて淡々とした男だ。それが余裕を失っている様は、孫権の興をそそった。

「いいか? わけはどうあれ、おまえは私と結婚した。まさか、私がおまえのものになった、と思うわけではあるまいな?」
「そのようなことは……」
「では、おまえが私のものになったことに、異存はあるか?」
 そう言う言葉の裏については、周泰も薄々は感じているだろう。だがたとえ確信していても、
「……ありませぬ」
 としか答えないのが周泰だ。孫権は満足して大きく頷いた。

「では、飲め。先刻の酒と同じものだ」
 卓の杯をとり、突きつける。飲めばどうなるか、周泰にももう分かっている酒である。
「どうした、嫌だと言うのか」
 動かない手を、孫権は目だけで見下ろした。
 ―――人というものは、反抗的なものを屈服させることと同様、従順なものを徹底して隷属させることにもまた、快感を覚える生き物である。中には逆に、奴隷と化すことを快感と思う者もあるだろうが、とりあえず孫権は、生まれながらにして所有者であり、権力者だった。誰に媚びる必要もなく、おもねる必要もなく、育ってきた。飲め、と命ずる目には躊躇いや不安、気負いなどは片鱗もない。依頼でも懇願でもない、完全で完璧な命令。簡単なようで、これは生まれ持った素質がなければできることではない。
 そしてまた、これに逆らうためには同程度の、揺るぎない自尊心が必要だった。それは己の過去と現在、そして予想される未来に、一点の曇りがあっても持てないものである。無論、周泰にそんなものがあるはずもない。
 勝負はハナから決まっていた。

 甘味が強すぎると苦く感じる。先刻の酒と違い、喉が焼けるような引き攣れるような感触もある。孫権は同じだと言ったが、違うものか、さもなければ酒への混ぜものの量が違うことは周泰には分かった。分かったが、発言権は与えられていない。
 一方の孫権は、周泰の様子など意に介さない。先に飲んだときと多少様子が違うとして、それがなんのためであるかなど、彼には一切関係がないのだ。効果さえ発揮されればそれで良い。「みに」だと侮られて、官女にからかわれはしても、薬物についての講義など聞かせる者もなかったから、劇薬であれば命に関わる、といった知識がないから尚更である。
 周泰の呼吸が荒くなり、身に汗が浮いてくるのを確かめると、満足そうに口元を緩めた。

 こんな性格だから仙人にお仕置きされたことは、言うまでもない。
 だがここにいる男はおかしな術など使えもしないし、兄の臣、すなわち孫家の臣である。そのうえ、はっきりと確かめてある。自分のものだ、と。
 だが「所有する」とは、一切合財全てを、だ。
 あらゆる状況下において、あらゆる立場で、あらゆる要素を。
 能天気でお気楽な兄・孫策は、苛烈なようで押しは弱い。基本的にお人好しで、善良なのだ。側近として自分の下に寄越せと言えば反対はしないだろう。

「そうだな。勝手に私の言い付けを破ったことには、罰を与えねばならんな」
 孫権は寝台の端に投げ出しておいた上掛けに触れ、周泰の顔を覗き込んだ。彼の視線に困惑と戸惑い、恐れは窺えるが、反抗の意思はない。
 身を乗り出して、周泰の腿の上に手を突く。そのままその手を、間へと滑り込ませた。上へと這い進めれば、自然、膝が開く形になる。
「そ、孫権様……」
「いちいち言わねば分からんのか? 脚を開け。開いて、私に見せてみろ」
「そんな……、何故、そのような……」
「開けと言っている。聞こえなかったのか」
 心も感情も、意思もなにもかも、全て剥奪して己の意のままにする。
 それが、人を「所有する」ということの、無視できない一面。教えられずとも、孫権には分かっていた。

「媚薬のせいもあるにはあるが、だらしのないものだな。意外に好きなのか?」
 揺さぶりをかけ、叩き壊す。だが手はあくまでも優しく、快楽の邪魔をしないよう、細心に。
 先走りの透明な雫に濡れているものに触れ、指先で先のほうから根元まで、ゆっくりと辿った。
「……ッ」
 一度大きく身を震わせた周泰が、孫権の肩を押し離そうとする。同時に、孫権は周泰のそれを強く掴み締めていた。
 喉の奥で詰まったうめきを零して、周泰が全身を強張らせ、戦慄かせる。
 緊張が緩んだ頃を見計らって、孫権は周泰の耳元に、意地悪く唇を寄せた。
「なんだこの手は?」
 言うなり、耳朶を噛む。容赦なく、傷になるまでだ。
 周泰という男は、ただの痛みには面白いほど反応しない。それを今確かめて、孫権は思わず笑ってしまった。

 玉になり、崩れる寸前の血を舐め取る。初めて味わうそれは、意外にさらさらと、奇妙に甘かった。
 人の血というものは、案外に美味なものなのかもしれない。
 だが、他の誰かの血など、味わおうとも思わない。
「幼平」
 そのまま囁く。
「おまえは私のものだ」

 日が出るまではもう間がないだろう。
 だが、窓を閉ざし扉を閉ざし、訪れてくる者は全て追い返せば、この室に朝は来ない。
 気が済むまで、夜は続く。
 一日の終わりと始まりなど、好きに決めてしまえば良い。
 つまり、まだまだ夜明けは、やって来ない―――。

 

(終)