恋の妙薬 心に甘し

 水が悪かったのだろう。寝台に丸まって唸りながら、甘寧はきっとそうだと思い極めた。
 同じような有り様になっている者が、この軍に他にも十名ほどいる。全員に共通していることと言えば、奇襲のための進軍に加わっており、その行軍中、渇きを潤すために湧き水を飲んだことだけだ。
 その十名ばかりの者は全員、猛烈な腹痛と嘔吐感、下痢に見舞われて、身動きもとれずにいる。情けないかな、これはどんな敵武将よりも手強かった。
 まともに立って歩くこともできず、尾篭な話で恐縮だが、迂闊に動くと(本当に尾篭な話なので割愛させていただきます:筆者)のである。
 仕方がないので、ものもろくに食わず水も飲まず、じっとしている。

 食っても飲んでもいないのに、出るものだけは何故か出るため(失礼)、げっそりと頬が削げているのが自分にも分かる。
 しかし、もう山場は越えた感がある。
 明日か、遅くとも明後日には回復しているだろう。もうなにも案じることはない。
 そう思えることが救いだった。

 ところが、である。
 被害に遭っていない将校がやってきて、戸の外から
「周泰将軍がご到着です」
 などと言った。

「はあ!? なんで!?」
 思わず叫んで、腹に力が入ってしまったものだから、危ういことになりかける。なんとかそれは回避できたが、
(こんなとこ、見られたくねぇ……っ)
 なにせこの時代、トイレットなどという気のきいたものはない。ではどうして用を足していたのかと言えば、全世界的に、「おまる」である。呼び名や形は違えども、洋の東西を問わず、野っ原、道端、庭の隅問わないか、入れ物の中に済ませておいて、まとめて捨てるのが主流なのだ。
 「トイレ」というような専用の場所が設けてあることもなく、各々の自室にそういう用意があったわけである。
 無論、臭気には皆、気を使った。
 蓋をするのは当然であるし、できるかぎり早く捨てるようにもする。香を焚いて誤魔化したり、まあ、そのあたりは東洋人のほうが、柱の影で済ませて放置、とかいう西洋の社交界よりは進んだ美意識を持っていたと言える。
 なんにせよ、現代人からみれば「うへぇ」でも、これがこの時代の常識なのである。

 しかしである。
 いくら常識であり、普通のことだとは言えど、腹を下している者の部屋は、当然ながら、……というわけである。
 日に一度くらいは下僕が汚物を捨てに行ってくれるが、―――いや、まあ、いつまでもこんな話をしていても仕方ない。
 ともかく、今この部屋に愛しい恋人を入れることなど、できるわけがなかった。
「とにかくこっちには来させるんじゃねぇぞ。なにかあるなら、おまえが聞いて伝えに来い。いいな?」
 部屋の前でも、におうかもしれない。そう思えば近づかれたくもない。
 なにせ普段の状態と違うのだから、その臭気も、もう甘寧の鼻は鈍ってなにも感じなくなっているが、強烈に違いないのだ。

 しかし、聞こえた返事は
「それが、……あ、なりません、周将軍!」
 もう、そこまで来てしまっているのである。
 甘寧はとっさに、来るな入るなと怒鳴ろうとしたが、そう思って息を吸い、腹に力を込めれば、下が緩みそうになる。
 口を開けただけ開けたところで、声は出せなかった。

 そこに、派手な音を立てて戸が開き、黒い甲冑に身を固めた周泰の長身が現れる。
(ああああぁ〜……)
 よりにもよってこんな部屋に、と甘寧は頭から上掛けを被ってしまった。
(そりゃあ人間だし、誰でもすることだけどよぉ)
 めったなことで恥ずかしいとは思わない甘寧だが、こればっかりは、どうしようもないほど恥ずかしく、また開き直ることもできなかった。
 しかし、
「甘寧!!」
 あまりにも切迫した周泰の声に、
(へ?)
 なにか尋常ならざるものを感じて、ひょっこり顔だけ出した。

 見た顔は、声以上に切羽詰って、真剣だった。
「え、えーと……」
 なにか食い違っているようで、甘寧がどうしたものかと戸惑っていると、周泰の手が頬に触れた。
 彼のほうから触れてくるなど、これまであっただろうかと思わず目を見張る。
 それのみならず、
「……良かった。大事なかったか」
 と抱き締められた時には、茫然としてしまった。

(な、なんなんだぁ?)
 嬉しいのは嬉しいが、なにかが違う。
「お、おい、周泰。なんなんだよ、いったい。たしかに腹ァ壊したけどよ、そんなに心配されなきゃならねぇようなこと……」
「なに?」
 甘寧が言うと、周泰ははっとしたように腕を緩めて体を離した。
「腹を、壊した?」
「あ、ああ。水が悪かったみてぇで。それでまあ、その、……部屋ン中、臭ェだろうが」

 周泰はしばらく甘寧を見ていたが、部屋を見回し、鼻を鳴らす。
(嗅ぐなよぉぉぉぉ)
 と甘寧はらしくもなく真っ赤になっていた。
 しかし周泰が次にしたこと、言ったことといえば、大きな溜め息をついて、
「なんだ、誤報か……。……良かった」
 と、また甘寧を抱き締めることだった。

「甘寧が負傷、重体で指揮侭ならず。至急、代理の指揮官と増援を寄越してもらいたい」
 これが、周泰の耳にした伝令内容だった。
 内容が狂ったのには、いくつものわけがあった。
 一つには、「行軍中に生水を飲んで腹を壊したと報告しては、お咎めがあるかもしれない」などと余計なことを考えた者の入れ知恵。このせいで、「行軍中に伏兵にあって」と刷り返られた。
 二つ目は聞いた側の早とちり。腹を壊して、と言えないものだから、ただ「甘寧殿は身動きがとれず」と言ったのを、重傷のためと勘違いしたのだ。そこから勝手に、意識もないような重体となって話は上に伝えられた。
 三つ目は、魏に張遼あれば呉に甘寧あり、と戦闘能力においては群を抜く甘寧の一大事だと、あっさり泡を食ってしまい、冷静に確かめる余裕がなくなってしまったためである。
 他、伝令兵の言葉の選びようや言いようにも問題があり、結果、重大事と誤解されてしまったのだった。

 聞いた甘寧は、呆れて声も出ないのと同時に、いくら恥ずかしいだの軽率なことをしただのという思いはあっても、伝令内容を誤魔化すとは何事かと腹立たしくもあり、これでは事実を知られた後のほうが面倒だと、憂鬱にもなっていた。
 しかしふと、ぼそぼそと喋り終えた後には俯いたきりの周泰に気付く。
(ってぇことは、俺になにかあったと思って、あれなわけか)
 急に口元が締まらなくなった。
「な」
「………………」
「心配したか?」
「………………」
「な? 心配、したよな?」
 周泰は答えない。
 していなければ、あんなに切羽詰って、血相を変えて駆け込んでくることなどないとは分かっている。だが、それを言葉にして聞きたかった。
 驚き呆れたのが刺激になったのか、いつの間には腹痛は消えている。

 しつこく意地悪く問い掛けると、執拗に頑固に黙っていた周泰が、急に睨むような目つきをして顔を上げた。
 思いがけない表情に、甘寧は意表を突かれて息を飲み込む。
「俺が聞いたのはっ」
 珍しく、声があからさまに怒っていた。
「重体で、いつどうなってもおかしくない、と……。……辿り着いて、どうなったと問えば、部屋に寝ていると言うし……。……間に合うかどうかとさえ、思って来たのに、なにを嬉しそうに……」
「あ……」
(嘘だろ、おい……)
 睨み付けている周泰の目に、見ている前で赤みがさしてきて、揺れる。

「周……」
「あんな紛らわしい伝令なぞ寄越すな!」
 大きくはない声だが、叩きつけるように言われた。
「俺が、どんなに心配して……」
「周泰……」
「………………」
 それきり、周泰は逃げるようにして出て行ってしまった。

 実際の援軍が到着したのは、それから実に二日も後のことだった。
 周泰はこの二日間というもの、何処でなにをしているのか、顔も見せない。
(たぶん)
 と甘寧は、すっかり回復して食事をしながら、考える。
 今は腹を立てているだけではなく、恥ずかしくもあって、自分のところに来ないのだろう。
 なにせ道程を考えると、精鋭の騎馬隊より二日も早く到着するためには、昼夜兼行で駆けに駆けさせてくる他ないのだ。

 更には、本来この救援の指揮官には呂蒙が選ばれていた。効果的な伏兵を用いる将が相手だとすれば、軍略に通じていたほうがいいためである。
 後続の本隊と共に到着した呂蒙が、笑い話に語るには、
「いや、あれはすごい剣幕だった。最初は、一兵卒としてでいいから俺も連れていけときて、次には、指揮がしたいなら後から勝手に来いときた。殺気立っておってな。ああ、これはもう、このまま敵陣に切り込む気だな、とな」
 甘寧に、にやけるなと言っても無駄だろう。
 めったに感情を表に出さない周泰が、それも、命令や規則には従順な
男が、呂蒙相手にそんなことを吐き捨てて、我が儘を通したのである。

 まだ薄い粥のようなものしか食べられないが、それでも人心地ついて、甘寧は久しぶりに陣内を見回りに出かけた。
 他の中毒者たちも回復したと見えて、足元はおぼつかないものの、寝込んでいた間の分を取り戻そうとするのか、鍛錬に精を出している。
 その中を巡りながら、本当の目的は、周泰を探すことにある。
 いったい何処にいるのやら、と広い陣内を馬で見て回ると、やがて、鎧も粗末なものにかえて、本当に兵卒と大差ない格好で、黙々と土塀を直しているのを見つけた。
 近づくと、修繕は途中だというのに、さっと立って離れようとする。
 甘寧は軽く馬を駆けさせて、前に回りこんだ。
 それを更に避けることはせず、周泰は憮然とした顔で立ち止まる。

「呂蒙から、一部始終聞いたぜ」
 言うと、返ってきたのは、
「……そうですか」
 どうやら、自分で言ったとおりに、最下級の兵士のように振る舞うつもりらしい。
 こんな周泰は、この後もう一度、見ることができるとは思えなかった。周泰が顔を俯けているのをいいことに、甘寧は笑みを浮かべる。
 心配をかけてすまない、という気持ちは、当然ある。だがそれは、嬉しいと思う気持ちに比べれば、ほんの僅かだ。
 それをまるでないように見せかけて、申し訳なさそうな顔をしても、そんなものは偽りになる。
 甘寧は馬から降りると周泰の前に立ち、下を向いている顔の更に下へ、自分の顔を潜り込ませた。
 不自然な体勢のまま、唇を触れさせる。

「俺も同じことしちまうよ。なんかの間違いだと思うくせに、確かめることなんか考えらんなくてよ。もし、万一にもそんな話が本当だったら、なにしでかすか分からねぇ」
「………………」
「俺ァ単純だからな。いかにも俺のやりそうなことだろ。けどよ、おまえは俺が死んだって、平気な顔してんじゃねえかとかさ」
「そんな……!」
 ようやく周泰が甘寧を見た。
「嬉しくならねぇわけがねぇ。血相変えて駆けつけてくれるなんてよ」
 自分より高い位置にある首に腕を回すと、仕方なさそうに、周泰の腕も背に回ってきた。
「……心配したんだ、本当に」
 そのまま、ぽつりと耳元で言われる。
「ああ。……ありがとな」
「……ああ。……すまん……」

 端っこのほうとは言えど本陣の、遮るものもない場所でそんなことをしている困った二人。
 間もなく周泰は正気に返って大慌てで離れるのだが、それまではまだ少し時間がかかる―――。

 

(おしまい)