ねこかん

 俺が悪いんじゃねえ。
 絶対に、悪いのは俺じゃねえ。
 そりゃあ俺は態度でかいし、口汚いし、粗暴だ大雑把だ礼儀知らずだとろくなことは言われないが、年寄りを敬うくらいの気持ちはある。
 が、しかし、だ。
 そいつは道のド真ん中に寝てたんだ。
 俺はと言えば、急ぎの伝令のため、馬のケツ引っぱたいてまで駆けさせていたところだった。
「こんなとこで寝てんじゃねえよ、邪魔だ邪魔!!」
 そう怒鳴りつけて、飛び越えた。

 それでも俺が悪いってのか?
 いや、俺も悪いには違いねえだろうが、道の真ん中に寝ッ転がってたじじいだって問題ありだろう?
 蹴り飛ばさなかっただけ、マシと思えってんだ。
 それがだ。
「なんじゃ乱暴な奴め」
 と、いきなり俺の後ろ、首筋辺りから声がして、ぞっとして振り向くと、そこに皺くちゃのじじいの顔があった。
 はっきり言ってビビッたね。
 歩いてんならともかく、こっちは馬で突っ走ってんだぜ? それも、顔は俺の肩に乗っかりそうな位置にあって、それをモロ振り返っちまったんだ。
「おわぁッ!?」
 思わず叫んだ弾みに、手綱を引いちまった。
 馬はびっくりして後足で立ち上がり、俺は振り落とされた。

 そうして、あいててて、と起き上がろうとすれば。
 なんでだか俺は、両手まで地面について、起きたんだったりする。
 腰が痛かったが、手が後ろに回らねえんだ、これが。
 なんだと思って見てみれば、地面がすぐ目の前にある。
 それで、いったいどうしたんだと見回すと、茶色い柱が横に立っていた。
 その根元のほうは、まるで蹄。
 こんなもんこの辺にあったっけな、馬の脚みてぇだよなぁ、とは考えたけど、それ以上のこと、いきなり分かるわけがねえよ。
 そのうち、首の後ろをひょいっと掴まれて、体が浮き上がった。
 皺くちゃのじじいのクソでかい顔がまた間近に迫って、にやっと笑う。
「いい気味じゃ」
 そして、放り出された。
 わけは分からなかったが、このままじゃ落ちる。それだけは体が感じてた。なんとか着地しようと華麗に身を翻し……といきたかったが、どうにも思うとおりにならねえ。そのうち、そのまま脇腹から地面に落ちちまった。

 じじいの姿が何処にも見えなくなって、俺はようやく、自分がどうなったのかに気付いた。
 手が。
 獣の手、いや、足だ。
 犬か? 猫か? 狐や狸か?
 自分の顔は見えない。
 そのうち馬のヤツは、てくてくと歩き始めてしまう。追いつくのは簡単だったが、乗るには高すぎる。それに乗ったとして、どうしろってんだ。
 なんにせよ、自分の厩に帰るつもりはあるらしい。

 もうまったくわけは分からねえが、馬に乗ってた俺の間近に現れたことと言い、仙人ってヤツだったんだろう。
 その妙な力のせいで、俺は獣にされちまったわけだ。
 まさかと思うが、実際そうなんだから仕方ねえ。目の位置はずっと低いし、手は獣の足。薄茶色に白の混じった感じだ。犬よりは、猫っぽく見える。
 こんなことができるもんなんだな、とか実は少し感心したりしてたが、それどころじゃねえんだって!
 俺は伝令に出て、あちらさんの返事をもらって引き返す途中だったんだ。
 ためしに「おい」と言おうとすると、自分の耳に聞こえたのは、
「ニィ」
 という声だった。

 あああああ、猫だ、猫。
 それもなんか、ちびっこいぞ、これは。
 馬はのんびり歩いていくが、俺はついていくのに必死になった。最初はともかく、腹は減るし疲れるし、馬は道端の草なんか食ってるが、俺には食うものがねえ。
 今頃とっくに帰還して、仕事を済ませて飯食ってるはずだったのに。
 だいたい、こんな有り様で……まさかもう一生このまんまとか?
 一生、猫?
 猫として生きて猫として死ぬ?
 ―――猫なりの人生……猫生ってヤツはあるだろうが、それはたぶん、鼠追いかけたり生魚食ったりなわけで、ちょっと、イヤだ……。

 あの仙人を探し出して謝るとかしねえと、ずっとこのままなんだろうか。
 それとも、別の仙人にも直せるんだろうか。
 それにしたって……商人がすれ違っていく。馬と猫の道連れを驚いた顔で見下ろして、やがて微笑ましそーに笑って。思いっきり見上げなきゃならねえ人間は、でかい。俺は小さい。この体じゃ馬にも乗れず船も操れず、まして喋れもせず、どうやって仙人探しをすればいいのやら。
 ひょっとして、もうお終い、俺の人生?
 そして、こんにちは猫生?
 ……勘弁してくれよ……。

 すきっ腹を抱えて、なんとか城にまでは帰りついたが、まあ、騒ぎになるわな。
 なにせ馬を飛ばせば昼過ぎには戻ってこれるはずが、もう宵の口だ。そのうえ、帰ってきたのは俺の乗っていった馬だけときてる。
「甘寧殿の身になにか!?」
 とかおろおろする奴がいるのは、無理もねえ。
 なお、俺(猫)のことはどうでも良すぎて、中に入るのを誰も咎めなかった。

 なんとかわけを伝えなきゃならねえ。
 喋ろうとしても、出てくるのは「ニャア」とか「ミィ」とかだが、ものはこのとおり、考えられる。
 ってことは、だ。
 方策その一。なんとか言葉に聞こえるように鳴いてみる。
 俺が甘寧だ、と聞こえるように、というと……
「ニョーミェ〜ニャア、ニャアニェ〜ニャ」
 ……だっ、ダメじゃん……っ。
 ほ、方策その二! こっちが本命だ!
 書く!! 手に墨つけて書くことはできそうだ。
 となれば、墨だ墨。床にでもなんでもいいから、とにかく墨の置いてあるどっかの部屋に入るしか。

 と、どこに行きゃ確実かときょろきょろしてると、急に影がさして、振り返るより早く、腹の下に入り込んだ手にすくい上げられた。
 誰かと首を後ろにねじ向ければ、お、おおおおおお! 周泰〜♪
「ニャア、ニャ〜ッ」
 抱きつきたいところだが、じたじたと足が動かせるだけだ。どうやら俺は、両手にしっかり乗れるくらいに小さいらしい。
「……何処から入り込んだ……」
「ニャア」
「……分かるわけがないか……」
 右手で俺をすくって持ったまま、周泰が歩き出す。
 ひょっとしてひょっとしたりすると、このまま放り出される可能性とかあったりして……?
 それゃねえぞ周泰〜〜!?

「あ、おい……」
 体をひねって重心を移動させ、手から落ちる。猫の体だと分かっていれば、着地のしようもある。
 とにかく墨!
 一文字か二文字でもいいから、とにかくただの猫に書けるわけのない文字を書けば、変だとくらいは思ってくれる。そうすれば説明させてもらえるはずだ。
 俺は墨の在り処目指して猫まっしぐら―――の予定ではあったが。
 またひょいっとすくい上げられてしまった。
「……こんなところをうろうろしていると、蹴られる」
 と、放り込まれたのは、周泰の懐だった。

 ど……、どきどき……?
 ちょっと得した気分だぞ、これは。
 放り出すつもりじゃなかったらしい。まあ、たしかに俺になにかあったかもということで、ばたばたと走ってる奴もいる。街道の巡察に出て行く奴等が武装していたりするのを、俺は襟元から顔だけ出して眺めていた。
 俺はここにいるんだけどなぁ……。
 ああ、でもあのじじい、俺を探してる連中見て、そろそろ懲りたろうとか思って来てくれねえかなぁ……。

 ―――まあ、世の中そんなに甘くはねえわけで。
 結局完璧に夜になっても、同じじじいの姿をまた見ることはなかった。
 一生このままだったらってことを考えといたほうがいいのかねぇ、こりゃあ。
 一生、猫……。
 ……周泰がずっと飼ってくれるんだったら、別にいいかも……。
 ああ、俺ってどーしよーもないバカだな、こりゃ。
 男として人間として、なんかこう、「やァってやるぜぇッ!」ってことがあるだろー!? とかは思うんだが、のほほんと猫やりつつ周泰の肩なんかにしがみついてると、体一杯の体温が幸せなんだよなぁ。
 男としての矜持とかさ? 人間としての誇りとかさ? 俺って、持ってねえわけ?
 ……持っちゃいるが、二の次なのかもなぁ、とか思ってみる。
 だってよ、俺が俺でなくなっちまうような、そういう大事なモンは捨てられねえけど、体はこれになっても、俺は俺だ。
 そんな俺と……俺だと気付かなくても、周泰が一緒にいてくれるんだったら、それでいいんだよなぁ。

 ああ、俺ってけっこう一途。
「……? ……どうした……?」
 なあ、周泰。
 猫になっても、好きだぜ。
 ……なんかちょっと違う気もするけどな。

 それはそれとして、周泰が落ち着きなく外を見やったり、溜め息連発したりしているのは、一応あれなんだろうか。俺の行方が知れなくなってるから? まあね……ただの同僚だとしても、何事もないはずのお遣いで、行ったきり帰ってこなくなりゃ、何事かと心配くらいは、皆するだろう。これでも一応俺たち、そーゆー仲なわけで。心配くらい、してくれてるよな、ちゃんと……。
 俺はここにこうしているわけだが、もし本当にずっとこのままなら、少し賢い、変り者の猫のふりしてたほうがいいのかもしれない。急にそんなことを考えた。
 俺が甘寧だ、と書けば―――書きたいとは思ったんだが、周泰の部屋の硯に墨はなかった……。まあ、書き物とは無縁だもんなぁ―――、信じてもらえるかどうかは別として、伝えることはできる。周泰には遊んでるようにしか見えなかったみたいだが、墨なしで、手を文字に沿って動かしてはみたんだし、それはできたんだし。
 それを伝えて信じてもらえれば、どうなるだろう。たぶん、何人かは仙人探しに向けられるだろう。なんかああいうじじいの性格、分かるんだよなぁ。そうなると、二つに一つだ。素直に元に戻してくれればいいが、最悪、ヘソ曲げて他の奴まで獣にされかねねえ。
 それに、俺はこうして、自分が周泰の傍にいるって分かってんだし。周泰は……たぶん、今までに他の誰かが死んでいった時と同じように、そんなに深刻に哀しんだり、しねえだろうしよ……。

 ……あーあ……。
 思うほどには思っちゃくれねえ。そんなもの、誰かを好きになればいつだってそうだけどよ。
 好きってのは、両極端だもんな。自分の気持ちが軽ければ相手の好きが鬱陶しくて。ちょと強くなると途端に圧倒的に膨らんでく。吊り合うことなんて、ありゃしねえ。
 そりゃ、今は少し心配しててもさ……。三日もしたら、そういうこともあるって普通にしてそうだよ、こいつは。
 それとも、もしかしたら、さ。俺が考えるよりは俺のこと、好きだと思ってくれてんのかな……。
 ああ、でも、もしそうでも。
 それで暗い顔してるのを見てるのは、やっぱイヤだ。だからと言って平気な顔されたくもねえし。

 ……と、俺が真面目なことをしんみりと考えていると、床を伝って足音が聞こえた。まだ遠いが、人間よりは耳がいいらしい。
 それが近づいてくると、周泰も戸を振り返る。
「入るぜ」
 という言葉と同時にもう戸を開けて中に一歩入ってきているのは、孫策様だった。
 なーんか、ヤな予感……。

「……どうしました」
「出てこねえのがおまえらしいと思ってよ。今んとこどうなってるのか、教えにきてやったぜ」
 どうやら、俺の安否についてらしい。
 それはいいんだが、いいんだが、このエロ君主……っ!
 報告するのに抱きつく必要があんのか!? 着物脱がす必要があんのか、えッ!?
 周泰が強く抵抗しないのをいいことに、後ろから羽交い絞め状態で、襟元から突っ込んだ手でさりげなーく剥ぎ取りつつの撫で回しぃの……!!
 ちょっかいかけてんのは知ってたが、時と場合ってヤツがあるだろ!? 自粛とか自重って言葉はねえのか!!

「ニ゛ャ―――ッ!!」
 忠猫甘寧ここにあり〜、ってわけで、思いっきり飛び上がって、それこそ猫の身、容赦なく腐れ君主の顔面を引っかいた。
「うわっ!? なっ、なんだこいつ!」
「先ほど梨園に迷い込んでいたのを……」
「くそ、このチビ猫……」
 細く赤い筋のついた顔を押さえつつ、のしのしと近づいてくる。やる気か? お?
 目一杯威嚇の姿勢ってのをとってみたが、哀しいかな、俺はほんの子猫で。いくら腐れてたって相手は武術を身につけた人間で。
 掴み上げられたのが勝敗の分かれ目、俺はぽいっと外に放り出されて、慌てて駆け戻った時には、どーんと立ちはだかる巨大な扉。
「ニャ〜ッ!!」
 引っかいても叩いても体当たりしても、びくともしなかった。

 次にその大扉が開いたのは、もうとっぷり夜も更けてからだった。
 上機嫌に出て行くアホ君主に、また一発痛い目見せてやりたかったが、不意打ちなんてものが通用するのは一度だけだ。今度下手に捕まると、外にまで追い出されかねねえ。
 隠れてやり過ごし、その後で戸の前に戻ってきた。ぴったりと閉められた戸を引っかいて鳴いてみる。しばらく待たなきゃならなかったが、やがて少しだけ隙間が生まれた。
 そこから入り込むと、寝巻き一枚、ほとんど引っ掛けて襟を片手で合わせただけ、なんて姿で周泰が俺をすくい上げる。
「……寒かっただろう」
 まあたしかに寒かったが、中に篭もる匂いだけで、俺の頭はかなり熱くなってるが。
 人のモンに手ェ出してんのは知ってたが、俺との関係からして公にできることでもなし、それに主から無理を言われて断れる周泰でもなし、と、お互いに気付かれねえようにすることを前提に、黙認はしてた。あくまでもそれは、なんとなく勘付いちゃいても、あからさまにそうと分からないことを条件に、見逃してただけだ。
 暖めてくれるつもりか、肩口に寄せられて、嬉しいのとは別に、鼻につく他人の匂い。
 こいつは俺のだってぇの……ッ。

 ずっと猫でいるってことは、このまんまとられちまうってことだ。
 それはイヤだ。
 冗談じゃない。
 人間に戻りたいが、どうすりゃいいのかは分からねえし……。
 一度出て行った周泰が、持って戻ってきた濡れ手拭で体を拭いているのを見たり見なかったりしながら、無性に恥ずかしいような腹が立つような気分で考える。
 しかし冷静な頭で真面目なこと考えるのには限界がある。そりゃあね、肝心なそこを拭くのは当然だろうけどさ、実際に目にすると、なんつーいやらしいこと……。
 子猫でもれっきとした雄らしい。

 疲れたらしい周泰が、それでさっさと横になっちまうと、俺は寝台の上に飛び乗った。
 追い落とされることはなく、それで周泰が寝入るのを待って、ごそごそと上掛けの下に這い込む。
 真っ暗だが、何故かよく見える。猫の目のせいだろう。
 体の上に上って、襟元に頭からもぐる。鼻先にちょいと引っかかったのが、お目当てだ。ざり〜……っと、舐めてみた。
 逆側には手も届かないから、一点集中。手のひら……というか、肉球で押さえつけて、少し動かしてみたりする。なんか……不覚にも楽しくなっちまうのは、俺が猫だからか? 思わず爪が出そうになるのは、こらえてみる。
 周泰は……普通なら目を覚ましそうなものなんだが、やっぱり疲れてんだろうなぁ。体は反応していても、声一つ立てないで熟睡中だ。
 帯を乗り越えて下に回る。また潜り込む。大雑把に始末しただけで、まだ匂いが残ってる。

 他人の気配なんか、どっかいっちまえ。
 たとえ俺が猫になっていようとなんだろうと、おまえは俺のものなんだから。
 仕方ないとか言ってねえで、あんなボケ君主、蹴り出しちまえばいいものを。
 ……まあ、それができたら周泰じゃない気もするけどな。
 それでもなんでも、俺のもの。
 こんなことしてもいいのは、俺だけだ。

 気付かれたら、猫の分際でなにしてると斬り殺されそうな気もしたが、さすがに異変を感じ取ったらしい周泰が少し声を洩らした時には、俺は開き直っていた。
 子猫サイズで見る体はいつもとまるで違っていて気後れはしたが、周泰は周泰。俺の、俺の、俺の、俺のだったら俺の。何処もかしこも全部俺のだ、俺の。
「ん……ぅ……」
 イイところを舐め上げる。それから、足の付け根なんかが弱かったりすんだよなぁ。爪を立てないように踏ん張って、舐めるくらいしかできないのがもどかしい。
 こっそりと、そっと、爪を出した手で、先のほうを軽く引っかいてみたり……。
「……っ、……」
 噛んでみたり……。
「あ……っ」
 うぅ〜〜〜、楽しいなんて思ってるのは猫の頭か!? 俺が腐ってんのか!?

 なんて一人(一匹)勝手に悶えてたら。
「甘、寧……」
 ……いっぺんに、目が覚めた気分だった。

 こーゆーことする奴がいればそれは俺だって、それくらいにはちゃんと、おまえの中に俺がいるんだな……?
 体の上を歩いて上掛けから顔を出す。
 この猫が俺なんだって分かったら、ずっと傍に置いて、飼ってくれるか?
 たかが猫でも、俺だと思ってくれるか?
 ……そっと、喉元に足を置いて身を乗り出し、周泰の唇を舐めた。

 ふっと体が消えてなくなったような気がして、次の瞬間、ずっしりと重みが戻った。
「うおっ!?」
 ……お?
 おおおおおお!!
 俺だ!! 元の俺だ!!
 人間に戻ってる!?
「ん……う、……?」
「あ」
 思いっきり、俺は周泰の胸に跨っていた。重いのは分かったが、ここに俺がいるのを見たら周泰がどうするかと、そのまま目が開くのを待つ。
 まあ、なんにせよ、確かなことは一つだけある。
 猫ほど鼻はきかなくなってるが、俺の匂いしかしなくなるまで、たっぷりと刻み付けてやる。
 わけはその後、話せばいいさ―――。

 

(おちまい)