周泰争奪戦
〜泡沫の夢〜

 シャボン玉を、想像していただきたい。
 虹色にきらめきながら、宙にふわりと浮かんだシャボン玉である。
 よく晴れた爽やかな空に、今、無数のシャボン玉が浮かんでいる。
 それは微風に流されて漂い、ふと、隣の一つに触れる。
 触れたそこで諸共に弾けることもあるだろう。
 だが、それがまるで双子のようにつながり、弾けたかに見えて一つの大きなシャボン玉に変わることもあるのを、ご存知だろうか。

 シャボン玉は無数に浮かんでいる。
 風は気まぐれに彼等を運び、あるものは無慈悲という言葉にならないほど呆気なく割れて消える。そしてあるものは、一つ、二つ、三つ四つとつながりあい、弾けて、巨大な一つへと―――。

 

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 

 いつもの目覚めだった。
 周泰が目を開けると、そこはまだ薄暗い、自分の室だった。
(……?)
 はて、自分は一人だっただろうか。彼はそう考えた。
 一人だったような気もするし、隣に誰かいたような気がする。
 夜中に一つ寝台の隣にいたとしたら、それはそういう関係の者ということになるのだが、妙なことに、それがいたとして、誰だったのかは分からない。
 では、一人だったのか。
 一人だったような気もするが、やはり、誰かいたような気もしてならないという、妙な夜明けだった。

 昨日はかなり苛酷な調練をしたから、疲れているのかもしれない。それでまだ、完全に夢から覚めていないのかもしれない。周泰はそう己を納得させた。
 不思議な夢を見ていたのは、まだ思い出せる。
 それをなんと言うのかは知らないが、七色に揺れる大きな泡のようなものが、無数に空に浮かんでいた。霞んだ青い空に、真っ白な雲。その空に浮かび、漂う七色の泡。
 感動するほどのこともないが、なにか不思議な、きれいな夢だった。心に残って離れなくても、おかしくはない。

 ともあれ、いつまでも夢心地でいるわけにもいくまい。
 起き上がって周泰は、今日のことを考えた。
 珍しく、今日は一切の予定がない。
 午前だけ、午後だけというならばたまにあるが、丸一日自由だというのはめったにあることではない。
 だが、自由な時間を与えられたところで、やりたいこともない周泰である。
 昨夜眠る前にそのことを考えて、
(……俺は、どうしようと思ったんだか……)
 なにかはっきりと考えたことはある。それは間違いないのに、なにを考えたのか。そこに到ると、急に思考は躓いて止まる。

 真剣に思い出そうと眉間に皺を寄せる。と、
「よう、起きてるか?」
 扉が少しすかされると同時に、甘寧の声がした。
(ああ、そうだった)
 彼の声が呼び水になり、急に思い出した。甘寧もまた一日の休みがとれたから(この場合は無理に頼み込んだようだが)、二人でゆっくりと出掛けようという約束をしたはずだ。約束を取り交わし、それから……。
(……してたんじゃ、なかったか)
 眠りに落ちる間際、甘寧は隣にいたはずだ。それが何故、外から。
 そこまで考えて、着替えに戻ったのだろうと思い当たった。それならば納得がいく。

「少し待ってくれ」
「早くしろよ。一日しかねぇんだからな」
 入ってきた甘寧は、勝手知ったる恋人の室、慣れた様子で椅子にかける。
 いつもの光景だ。
 何故か周泰は、ほっと溜め息をついた。
 これが日常だ。もういい加減、夢は覚めたのだ。

 着替えるのにそこにいるのか、とか、今更じゃねぇか、とかお定まりのやり取りをした後で、結局は甘寧を室の中に置いたまま、衝立の向こうに行くことさえ許されずに、周泰はその場で着替えを済ませた。
 今やっと太陽も顔を出したばかりだろうが、一日の自由とは言え、日が落ちた後の半日はないも同然だ。
 早く行こうぜ、とせかす甘寧に引っ張られるようにして、室を出ようとした。
 と、その甘寧の前に立った者が一人。
 爽やかな笑顔を見せて、
「周泰殿、おはようございます」
 陸遜だった。

 甘寧は怪訝な顔をする。何故こんな朝から陸遜が、周泰のもとを訪れるのか、不審げとも言える顔だ。
 陸遜は小脇に二巻ほどの書物を抱えて、
「少し早すぎましたか? でも、日のあるうちじゃないと、文字を追うのにも苦労がいりますからね」
 まるで屈託がない。というか、甘寧のことは完全に無視の方向だ。
 だが甘寧にしてみれば、いったいなんなんだと機嫌を悪くする。押しかけてきて、横から割って入られてはたまらない。断れよ、という意思を視線にこめて周泰を睨んだ。
 周泰は……妙なことに気付き、思考が停止していた。

 昨夜寝る間際まで、陸遜が部屋にいた。疲れていた周泰は、日が落ちると同時に寝ることにしたから、それは夕方、灯火が必要になりそうな刻限だった。調練を終えて室に戻った周泰を陸遜が追ってきて、
「明日はお休みですよね。もし良かったら、少し面白い書があるんです。一緒に読みませんか?」
 そんな話と、いくらかの言葉をかわした。そうして陸遜が出て行った後、すぐに寝台にもぐりこみ……。

(待て。では、甘寧のことが思い違いか)
 ありうる。昨夜ではなかったものを、昨夜と勘違いしているのかもしれない。
 昨夜は陸遜が室にいて、帰っていった。すぐに寝た。甘寧が夜遅くまでいて、人には言えないことなどした後に寝たというのは、別の日のことなのだろう。
 とすると、「休みの日に」と甘寧と約束し、陸遜とも「明日」と約束してしまったことになる。
(まずいな)
 こういう時は、物分りのいい陸遜との約束を、数日日延べする他ない。甘寧を後回しにしようものなら、まず間違いなく腹を立てる。自分に怒るだけならいいが、陸遜までとばっちりを受けるだろう。
「陸遜。その……」
 すまないが、甘寧と先約があったことを忘れていた、と周泰が言いかけた時。
「おい、周泰。行くぜ!」
 廊下の曲がり角から、孫策の声がした。

 急に思い立って用事を言いつける気になったのだろうか。周泰は一瞬、そう考えた。
 だが違うのだ。昨日、部屋に引き上げる間際に、孫策に捕まった覚えがある。そこで物陰に連れ込まれて、かするような……
(ま、待て。俺は―――)
 孫策に、接吻された。そして、明日は外に出て、誰にも気兼ねなく過ごそうぜ、などと囁かれ。
 さすがに、それはおかしい。
 甘寧と孫策と、二人も相手にしているはずはない。そう、一人のはずだ。
(……一人? 本当にか?)
 間に挟まれてえらく苦労した記憶も、どうしてだか、ある。だが、それは甘寧と孫策だったろうか。なにか違う気がする。

 更にはそこに孫権の従者が現れ、
「ああ、周泰殿。孫権様からのご伝言です。少し遅れるそうです。支度ができたらまた私がお呼びしますから、門の前でとのことです」
 などと言うから、わけが分からなくなった。
 そう言えば孫権に頼まれて、少し手合わせをすることになっていた……とも思うのである。午前中に軽く体を動かして、そこからゆっくりと、久しぶりに二人で話でもして、と。その約束は、昨日の夕刻、東の中庭の階で取り交わした。
(そんな馬鹿な。いくらなんでも、こうも何人も、同じ日の約束をするはずはない)
 ありえないことだ、なにかの間違い、それぞれに皆が勘違いしているのではないか、と周泰は思ったが、残念ながら、彼自身の記憶に、全てが昨日のこと、今日この日の約束のように刻まれているのである。
「おい、どういうことだよ、周泰」
 あからさまに怒った声を出す甘寧から逃れるように顔を逸らすと、孫策がいるのとは逆側の廊下の角から、こっそりと太史慈の顔が覗いていた。
(……なんだ、これは。太史慈とは、俺が無理を言って、町に遊びに出かける約束をしてるんじゃないか……?)

 完全に、理解の範疇を超えている。
 挙げ句、そういったいくつもの記憶に引きずられるようにして、孫堅から呼ばれていたことも思い出した。「一日かけて仕込んでやろう」などと……。
「ちょっと待てよおまえら。今日は一日、周泰は俺に付き合うはずだぜ」
 なんとなく不穏な沈黙を、有無を言わせない調子で孫策が破る。
「それは……なにかの間違いです。だって私は昨日の夕方、間違いなく『明日』と約束したんですから。孫策様。別の日であるのを、勘違いしておられるのではないですか?」
「俺だって『明日』って約束してんだ。なあ、周泰」
「あ、はあ、いえ……それが……」
 明日、と約束したのは、太史慈ともではなかっただろうか。彼は相変わらず物陰で、ここに出てこないが。
 そのうち、引き返していった孫権の遣いがまた戻ってきて、
「孫権様がお待ちです。馬も引いてありますから」
「そんなわけあるかよ! 俺とだって。昨日もなにも、俺ァ今日になってはっきり約束してんだ。そうだろ、周泰!」
 甘寧との約束は、……たしかに、日付が変わったと思われる夜更け過ぎ、寝台の中で、念をおされている。「明日、いや、もう今日か」と。

「どういうことですか、周泰殿」
 陸遜に睨まれる。
 孫策にも睨まれている。
 甘寧は言うまでもない。
 孫権の従者は困惑顔だ。
 太史慈は……相変わらず物陰にいるが、去りもしない。
 今はここにいないが、もう少ししたら孫堅のところへ行かなければならないことになっているから、時刻を過ぎれば彼もまた現れるだろう。
 困惑しきって、もうどうしようもない周泰。
 だが何故か、同じ自分の中から、妙に強気な気分も湧いてこようとしている。その気分は、
「約束が重なっていて不満なら見限ってくれていい。子義、来い」
 と、物陰にこっそりと存在している男を呼ぼうとしている。
 そしてそんな不敬な自分を、圧倒的な大きさの自分が押しとどめているのだ。

 そんなふうに、太史慈を選ぶ強気な自分がいると同時に、甘寧に救いを求め、彼に呆れられるのは怖いと思う自分もいる。仕方ないかと孫策に従おうとする自分と、孫権の望みを叶えてやりたいと思う自分。逆らうに逆らえず孫堅にいいように振り回されている自分。陸遜と穏やかに、清らかに……「まさかそんなこと」と驚くほど他愛なく共にいる自分。
 まるで、何人もの自分が一人に重なってしまったようだった。

 周泰が返答に窮していると、問い詰めてなんとかなる相手じゃないと皆が思うのか、それぞれに言い争いはじめた。相変わらず近づいてこないのも一人いて、それがどうにも不甲斐なく思えるが。
 更にはそこに、待ちぼうけを食わされた孫権、時刻に少し遅れたからと意地の悪い顔をした孫堅までやってくると、これはもう、収拾のつくはずもない。
 率直な言葉こそかわしていないが、「わけ」のあることを互いに察した者同士は、
「おまえ、こいつとまで……なのか!?」
「そいつぁ俺の台詞ですよ! 俺ンとこに来た時は間違いなく初めてだったんですからね。後から割り込んだのは孫策様じゃねぇですか!」
「ちょっと待て! 兄上はともかく、甘寧、おまえがどうして!?」
「なに言って……。最初に俺に周泰寄越したのァ孫権様でしょうが!?」
「待たんか、おまえたち。まあ、経験も少なければ見誤ることもあるが、初めての男はこの俺だ」
「親父! あんたやっぱり手ェ出してたのかよ! ってぇか、いつの間に!? 俺が拾ってくる前ってことか!?」

 やかましい家系とやかましい男が言い争うのだから、それはもうこの上もなくやかましい。
 それを見て狼狽している周泰の手が、不意にぎゅっと握られてそちらを見ると、
「嘘ですよね、そんなこと」
 陸遜が切実な顔をしていた。そして、
「だったらこんな気持ちを知られたら嫌われるって、ずっと我慢してた私がバカみたいじゃないですか」
 まさかと驚く自分と、こいつもかと呆れる自分、とにかくうろたえている自分、およそ三分割になる周泰の心境である。

 さて。
 もともと体育会系の呉であるから、こじれにこじれた争議は、真偽のほどなどほったらかしで、「勝ったモン勝ち」にしてしまえというところに落ち着いた。
 正々堂々、一番大きな西の中庭を使っての争奪戦である。武器は禁止となっているだけ、まだ理性があると言える。
 周泰はと言えば、そんな状況では発言権などあるはずもなく、ぐるぐる巻きに身動きを封じられて、北の回廊の階上に据えられていた。つまり、「賞品」として。

 

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