「おい、待て! 周泰!!」 孫権の呼び止める声はあっさりと振り切られ、のばした手は虚しく空ぶった。 張遼の策に落ちて太史慈が孤立、危機にあるという報告が届いた途端、それまで傍に控えていた周泰が、ものも言わずに立ち上がり、さっさと武装を整えて騎乗してしまったのだ。 追ってきた孫権が止める間もない。 「まったくあやつは……! こうなると人の命がどうというより、孤軍奮闘の危機感そのものが好きなのではないかと思えるぞ」 憤然と孫権が腕を組む。脇から陸遜は爽やかに笑い、 「甲斐性なしの王子様を助けるには、あれくらいのお姫様で丁度いいんですよ」 ……孫権は、頭痛を覚えてよろよろと陣幕の中に帰っていった―――。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
さて、単騎で飛び出した周泰はというと、単騎駆けはなにも蜀の趙雲の専売特許ではないのである。 夷陵の城に曹洪を攻めた甘寧が、敵の計略にかかって城に封じ込められた時のこと。敵が幾重にも包囲する中へ、周泰が単身、周瑜が援軍として動いているということを伝令しに、駆け込んだことがある。宣城での一件も、襲撃にあってからしばらくはほとんど単独で奮闘していたわけであるから、スタンドプレイは、好きではなくとも得意なのかもしれない。 一陣の黒き疾風と化して野を駆け抜け、まさか単騎で攻めてくるとも思っていない相手の虚を突き、合肥城に攻め込んだ。 周囲に敵しかいないものだから、なにを加減するでもなければ、慮ることもない。 馬を駆け回らせつつ、暴れ放題である。 そうしながら、太史慈の隊を探していた。
(まったくあの甲斐性なし、こんな見え透いた罠にかからずともいいものを) 甲斐性の有無は関係ないと思うが、ともかく、あれでも一応は大事な恋人である。まだなんにもしてもらってないのに、みすみす死なれても困る。 「太史慈! 子義!! 何処にいる!?」 珍しく声を張り上げて、周泰はこれと思える方向へとひたすらに駆けていた。
土煙を上げて兵が倒れ、馬が倒れる。 やがては赤い泥が飛沫になる。 なんとか太史慈の姿は見つけたが、さすがに包囲が厚かった。駆け込むにも、そろそろ敵も精鋭が揃い始めている。馬はとうに潰れ、二度ばかり敵の馬を奪った後で、その一騎もそろそろ危うい。 いっそ強引に突っ込もうか、と周泰が考え始めた時、背後がざわめいた。 振り返ると、そこには黒鹿毛の馬に跨り、薙刀を脇に構えた張遼がいた。 魏に張遼あり、と恐れられた男だ。 かつて呂布のもとにあって騎馬にての戦い方に熟練し、魏にあっては徐晃や楽進に劣らぬ将と呼ばれ、今では魏の武将衆の筆頭にも数えられている。戦の采配となれば曹操や夏侯惇の手腕が上だろうが、武力を言えば、魏随一の実力者と言えた。
一騎討ちを挑むつもりだろうか。張遼は左手を水平に上げ、周囲の兵を下がらせた。 周泰も馬首を返し、向かい合う。背後のことは気になるが、この難関を排さない限り、とても太史慈のもとへは行けまい。 互いの馬が近づき、相手の顔もはっきりと見える距離にまでなった時。 「我が名は張文遠と申す」 張遼が名乗りを上げた。 「周幼平だ」 周泰が返す。 一瞬の沈黙。 カカッ、と蹄の音を立てて張遼の馬が動いた。 合わせて周泰も馬腹を蹴る。
固唾を飲んで見守る魏兵の中、二騎の馬が互いの右を駆け違った。
息詰まるその瞬間は、あたかもスローモーションのようだった。 疲れた馬を一瞬だが死力をもって駆けさせ、周泰が薙刀の間合いを外し、張遼の内懐、すなわち己の刀の間合いに入る。だが周泰の振り下ろす刀をかわしざま、張遼は薙刀を一瞬手放して浮かし、あろうことか手刀で峰を打って周泰の手から刀を叩き落した。そして素早く己の薙刀を掴む。 武器を失い体勢を崩した周泰の負けは、そこで決まったも同然だった。 馬上で姿勢を崩した周泰は、このままこらえるか、それともあえて落ちて次の一撃に備えるかを考えた。が、それより早くとんでもない力で引っ張られた。
見ていた者にはよーく分かった。 張遼は周泰の刀を落とした後、素早く薙刀を左手へと持ち替えた。そして空いた右手で、落ちそうになっている周泰の腕をとったのである。 冷静に言って、素晴らしい膂力である。なにせ張遼、そのまま周泰を彼の馬から引っ張って、自分の前にまで引き寄せてしまったのだ。
何事か分かっていないのは、振り回された周泰だった。 自分が相手の馬の上、更に言うならば張遼の腿の上にうつ伏せるように乗せられていることに気付くまで、だいぶ時が要った。 何事かと思って体を起こそうとすると、浮いた脇腹に手を添えられて、引き起こされた。 ものすごい馬鹿力である。張遼は周泰の大柄な体を子供でも扱うようにたやすく起こして、自分の膝の上に横向きに腰掛けさせてしまった。 「なん……」 なんなんだおまえは、と周泰が言おうとした。 途端、 「しっ」 と、微笑まれる。品のいい笑顔が、不意に近づいた。 しかし品の良さとは裏腹に、乱暴なほど強く顔を左右から掴まれて固定され、―――口付けられた。
それも、やたらと上手かった。
してほしいのにしてくれない甲斐性なしの誰かさんのおかげで、欲求不満だったところである。 巧みに啄ばみ、歯列をなぞり、また舌を追って追われる本格的な攻防は、日照りの後にきた慈雨も同然。 甘く優しく、深くまで、侵入してくる。
いきなり張遼が馬を駆けさせなければ、そのままトリップしていた可能性も高い。 だが突然、甘やかな漂流は終わった。 張遼が馬を数歩走らせた背後に、ズガッと重い音を立てて長柄の大斧が突き立った。 「貴殿らは衆人環視の中で何をしとるかッ!!」 楼閣の上から、徐晃の怒鳴り声が落ちてきた。 張遼は涼しい顔で馬の位置をかえ、徐晃の姿が見えるところにまで行くと、 「危ないではありませんか、徐晃殿」 張り上げるということもない普通の声で、上へと言い返す。 「危ないもなにもござらん! 深刻な顔で打って出るから、これは覚悟を決められたかと心痛を覚えた拙者がまるで馬鹿ではござらんか!!」 「私にとっては一世一代の戦のつもりですぞ。さて、周泰殿。思わず我を忘れてご無礼を働きましたが、どうかお許しくだされ。貴方を一目見た瞬間から、もう私の目には他の何も映ってはおりません」 しっかと周泰の手を握り、目を見つめる張遼。 「できればこのまま、二度と離したくはないのです」 あいた手で腰を抱き寄せて、また唇も触れんばかりに接近する。 「もう一度、仙酒にも勝る甘露、いただいてよろしいか」 臆面もなく真顔で囁いて、そっと唇に唇がかすった。
「待てと言ってござろうが〜〜ッ!!」 上からは徐晃の怒声。 途端、張遼。 「うるさい」 と言うが早いか、脇に挟んでいた薙刀を持ち直し、思いっきり投げつけた。ものの見事にはるか上方、徐晃の握る欄干に突き刺さる。 「人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られてなんとやら。この私と騎馬戦で争いますか?」 鋭い切れ長の目で、横目に睨み上げる。右手と左手の間の欄干に薙刀を突きたてられた徐晃は、呆れたのとか怖いのとか情けないのとか恥ずかしいのとか、いろいろあって身じろぎもできなかった。
さて、周泰はと言えば。 ちらりと太史慈を見やって、呆然とした間抜け面になっているのを確かめると、少し苛立った。 関係のない徐晃でさえ、戦の真っ只中になにをしているかと怒って横槍……横斧……上斧を入れてきたのだ。 (甲斐性なし) 心の中で吐き捨てる。 「よくそんなくだらん台詞が出てくるものだ。何処ぞの唐変木には千年たっても言えそうもない」 「おや。思われるかたがおいでですか」 「いたらどうする」 「無論、奪います」 張遼はあっさりと言ってのけ、微笑んだ。
(これくらいの甲斐性くらい持てばいいものを) それは甲斐性の問題ではないという気もするが。 「私しか見えないようにします。そうなるように、手を尽くします。貴方の思われるかたが呉においでなら、このまま私の傍へ浚います。貴方の望むことは全て叶えてさしあげましょう。私だけを見てくださるならば、ですが」 「全てと言いながら、他の奴が見たいというのは却下か」 「逆ですよ。私だけと思い定めてくださるならば、です。その範疇にあることであれば、どのようなことでも」 「曹操の首をとれと言ったら?」 「とります」 「死んでくれと言ったら?」 「死にます。ただ、その時は貴方も道連れに」
不吉な台詞に穏やかに笑いながら囁いて、狂気のギラつきなど片鱗もない優しい目をしている。 面白い男だとは思うが、周泰はまたちらりと、太史慈を見やった。 すっからかんに放心しているらしい。 (………………) 「なるほど、彼ですか。貴方の思う相手は」 「まあ、な」 「取引をしませんか。貴方さえこのまま私のものになってくださるなら、太史慈殿には無事にお帰りいただきましょう。呉のなにを聞きたいとも思いません。なにをしてくれとも言いません。ただ私の傍にいて、私のものにさえなってくださればいいのですが」 私のものになる、の意味を示すつもりか、張遼の手は鎧の隙間を辿り、暗に外すことを仄めかす。 「嫌だと言ったら?」 「彼を諦めるのが、ですか? それとも私のものになるのが?」 「両方だ」 「知れたこと」 と張遼はまた何事でもないように笑い、 「死んでいただきます」 それは「どちらに」と問うまでもなかった。
周泰は大きな溜め息を一つついた。 「分かった。どうせ俺が思うほどには思ってもくれん相手だ。それでも好きだと思う以上、先の人生と真っ当な幸せくらいくれてやってもいい。あいつは帰してやってくれ。俺が残る。まあ、……おまえは上手そうだしな」 自嘲混じりに笑ったのは、何処までが本気なのか。
にっこりと笑った張遼が手綱を取り直すと、馬の向きを反転させた。 一応上司のしてることだしあからさまに呆れるわけにもいかないし、と固まっている兵士を尻目に、本丸内へと向かう。 だが、後少しで門内に入るというところで、突然、馬が嘶いて棹立ちになった。 一人であればとっさにさばけもしたろうが、今、張遼の膝の上にはでかい男が乗っている。その体重に押されて、踏みとどまることができなかった。 落ちる間際、馬の尾をしっかりと掴んでいる太史慈の姿を見たが……故意か偶然か。頭から落ちた張遼の顔面に周泰の肘が決まって、あとの記憶は、ない。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
半ば虚脱していた兵たちが我に返る前に、太史慈は張遼の馬を奪い、そのまま周泰を後ろに乗せて全力で駆けた。勢いで突破して砦の外に出る。本来ならば背後から矢の雨でも降るところなのだろうが、やけに静かだった。 「子義」 と周泰が呼ぶが、太史慈は答えない。 周泰は溜め息をついて、後ろから太史慈の胸に手を回した。ぎくりと硬直した肩の上に、顎を置く。 「少しは妬いたか?」 真っ赤な顔をして、太史慈は大きく頷いた。 「あれほど面白い台詞を聞かせてくれとは言わんが、せめて一言くらい、聞かせてくれ。俺をどう思ってる」 「………………」 「どう、思ってるんだ?」 「………………」 「今日は、俺からは言ってやらん。『俺もだ』程度では済まさん。はっきり答えてくれ」
馬はゆっくりとだが、歩いていく。 さて、帰り着くまでに聞きたい言葉は聞けるのかどうか。 周泰は道の先を見やって、また一つ溜め息をついた。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
「これに懲りて少しは……って、聞いておられるのかっ、張遼殿!」 「聞いておりません」 「ぐ……」 「それより、次の戦の策でも考えましょう」 「やっと正気に返られたか」 「狙いはやはり孫権です。どうも奥でじっとしていられない気性のようですから、上手く挑発して誘い出し、取り囲んでしまうというのはいかがです」 「ふむ。上手く運べば主君を失い、呉は瓦解するか」 「まあ、そこに到っても構いませんが、誰かが危地にあると聞けば必ず出てくるかたのようですし、それが主ともなれば九割九分九厘……」 「おい」 「今度こそ生け捕って私のものに!」 「どうして魏にはこう変なのしかいないんだ……ッ(号泣)」
(おちまい?) |