瞳の海に 潮 満ちて
過日の願い 今 還る

(ここにいて)
(ずっとずっとわたしのそばにいて)
(いったらだめ)
(ずっとここにいなきゃだめなんだから)
(よーへー)
(……よーへー)
(……しんじゃ……やだぞ……)

 


 祈りながら思い出した。
 十年も前にした約束。
 「大きくなったら」。
 ずっと忘れていた。
 あれほど一生懸命に、嫌いだった野菜も食べて、体も鍛えたのに。
 どうして忘れたのか。
 これほど今も思っているのに、どうして忘れていられたのか。
 忘れてしまっていたならいっそ、思い出さないままでも良かった。
 こんなことになって思い出すくらいなら。

 昔一度、私を助けてくれた。
 倒れたきり目を開かなくなった幼平のことが心配で心配で、傍に見ていなければ食事も喉を通らないくらい心配で、つきっきりで看病していた。
 なにかしたい、なにかをしてやりたいと思えば思うほど自分の無力が悲しくて、たまらなくて。
 だから、もう二度とこんなことにならないようにと……。
 ああ、そのこともいつしか忘れていた。
 私はどうやら、忘れっぽいらしい。
 大事なことさえ、忘れてしまうものらしい。
 あの時にも心に決めたはずだった。
 幼平に二度とこんな怪我をさせないように、もっと強くなるんだと。
 なのにいつしか、元のとおり。
 剣の稽古を我慢するのがつらくなって。

 兄上の婚礼の時には、そんなことなど思い出しもせず、まるで別の世界のことだったかのように真っ白に、もう一度誓った。
 大きくなるためだから、我慢しようと。
 その誓いは守れただろう。
 けれどまた私は幼平に守られ、私の代わりに彼が倒れて……。

 それほど深い傷ではないと医者は言う。三日もすれば起き上がれるだろうと。
 だがどうだ。
 兄の時も医者はそう言った。
 けれど結局、その時の傷が元で私の傍からいなくなってしまったではないか。
 この傷が不意に破れないと、どうして言える。どうして信じられる。
 幼平。
 せめて早く、目を覚ましてくれ……。

 ずっと私の傍にいてほしいんだ。
 あの時太史慈が教えてくれたように、二人ともが白髪になるまで。
 なのにみんな消えていく。
 兄上も周瑜も太史慈も、私の傍からいなくなった。

 幼平。
 おまえも、いつか私の傍からいなくなるのか―――?

 

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 

「お話があるとのことですよ」
 医者と入れ替わりに陸遜がやってきて、その彼と入れ替わりに、孫権様が来られた。
 こんな有り様で話をするのは、二度目だ。
 ―――情けない。
 もっと強ければ、力があれば。
 あの時の孫権様は泣いておられた。
 蒼い目が満ち溢れた海のようで、綺麗だが見ているのはたまらなくつらかった。
『ようへい、しなないで』
 しがみついてきた手の小ささ、裏腹なその強さは、今でも覚えている。あの涙の、この手に落ちた感触も。
 二度と見たい顔ではなかった。
 こんな俺ごときにそれほどの思いをかけてくださるのかと、どれほど嬉しくても、二度と味わいたくはない、嬉しさの裏のつらさ。
 泣いておられないだけで、今の孫権様は同じ顔をしておられる。

 今もまだ、それほどに俺を思ってくださるのか。
 あの頃と少しも変わらずに。

「申し訳ありません」
 貴方にそのような顔をさせるこの顛末。不甲斐ないにも程がある。
「謝るな。おまえが謝っては、助けられた私はどうすればいい」
 だが貴方に、そんな顔はさせたくない。
 喜びの裏に張り付いた痛みが。
「だいたい、私が不用意に飛び出さなければこんな……」
 言いかけて、孫権様はとりやめてしまった。
 言ってもどうしようもないことだからだろう。事実であれなんであれ、そうなってしまった後で言っても、意味はない。意味は、二度と繰り返さない、と決めることのほうにある。
 ……もう二度と、このかたを俺のことで哀しませるようなことはしたくないと、思ったはずなのだが。

 一つ大きく溜め息をついて、孫権様が傍に来られる。先刻まで医者がかけていた椅子に腰を下ろされ、俺を見た。
「なあ、幼平」
「は」
「覚えているか」
「なにをです」
「兄上の婚礼の儀のことだ」
「無論です。盛大でした。あれほど大きな祝いの宴は、そう忘れられるものでは」
「そうではない。その時にした話のことだ」
「その時にした話……?」
「忘れてるか。……まあ、そうだろうな。おまえたちにとれば、子供の戯言だったろうからな」
「……?」
「私も結婚したいと言ったろう。おまえと」

 ……目を輝かせて、あまりに無邪気に。
 後で太史慈殿に聞いて、意味が分かった。
 ずっと共にいるという、絶対に破られない約束。
 孫権様は「結婚」をそういうことだと解釈されたのだと。
 孫策様のみならず、太史慈殿にまでからかわれて、どうしようもないほどに恥ずかしかったが、耐えがたいほどに嬉しかった。
 明日も明後日も。
 来年も再来年も。
 年老いて老人になっても。
 俺といたいと望んでくれている―――。

 思い出すだけで、やはり耐えがたい。
 あの時孫策様は、大人になったら忘れてしまうだろうと、それが少し寂しいとおっしゃった。
 だが忘れていたのは俺のほうで、孫権様は、覚えておられたのか。俺といたいと願った、あの日のことを。
「幼平」
 孫権様が言う。
 蒼い目が、不意に揺らいで海になる。
 潮が満ちる……。
「『結婚』しよう」
 破ってはならない約束。
「私はもう大人になったし、好き嫌いも直した。おまえたちには及ばないが、それなりに強くもなった。だから……なあ、幼平。私と、『結婚』……してくれ……」
「孫権様」
 共にいること。
「なあ、幼平……」
 ずっとずっと―――。

 


約束して
破らないで
傍にいて
ずっと一緒に
ここにいて
ずっとずっと
置いて逝かないで
傍にいて
ずっと
ずっと

   

(終)