氷 中 花

 風がやけに冷たく、首筋を撫でた。
 生暖かい夏の夜にはそぐわない冷気に、肌が粟立つ。
 風の吹いてきた方を振り返ると、そこにいるはずの甘寧の姿がなかった。
「甘寧?」
 断りなく離れるはずはない。そう思って周泰は、近くの闇に目を凝らした。だが、最早かさりと草の震える音もない。
 静寂が押し寄せてくる。
 狼狽する心を落ち着かせるために息を吐けば、その音がやけに大きく響いた。

(悪戯、か?)
 怪異などまるで信じる様子もなかった甘寧のことだ。この状況を利用して、悪戯の一つや二つ、仕掛けてきても不思議ではない。
「甘寧」
 呼びかけた自分の声の大きさにたじろぐ。そう大声を出したつもりはないが、この静けさのせいだ。一里先までも届きそうな気がした。
「ふざけているなら、よして出てきてくれ」
 声を抑えて請う。
 だが、返事はない。

 草の陰に屈み込んで笑いを堪えている様は、容易に想像できる。甘寧というのは、そういう稚気のある男だ。親しんだ気安さから、こういう悪戯に振り回されたことは数知れない。
 驚いてやらないと拗ねることも承知である。
 だが、今は遊んでいる場合ではないのだ。この付近の町や村で噂になっている「怪異」の正体を突き止めること。それは孫堅からの主命だった。

 

 「女」がいるのだという。
 寂れて人の姿もない山間の村に、夜な夜な女のすすり泣きが聞こえる。だがその女の姿は見えず、聞こえるのはただ泣く声ばかり。
「その女の声を耳にして、何事かと近付いていった者は、戻ってこなくなるそうでございます」
 宴に招いた歌舞団の、座頭の話だ。

 正体を突き止めてやろうと、その山村に向かった麓の町の若い者たちも、二人は行方知れずになり、二人は命からがら逃げてきた。
 だが、逃げ帰ってきたほうの一人は、ちらと女の姿を垣間見たらしい。すばらしい美女だった、と語った。だが翌日には大熱を出し、三日後には死んでしまった。
 声だけを聞いて逃げてきた一人は幸い無事だが、家から出もしない有り様だ。というのも、その二人が逃げてきた数日後くらいから、町の傍でも女の泣き声が聞こえるようになったからである。自分を追って来たのだと、半病人、半気狂いになっている。
 町の者たちにしても、夜は怖くて表に出られない。

 その町に一泊した歌舞団の者たちは、その夜、本当に女の泣く声を聞いた。
 ひどく小さいのに、耳につく。そして、広い屋敷の何処ででも、同じように聞こえてきた。溜め息のように微かな、嗚咽に近いような泣き方だ。それが半刻ばかりも続き、すうっと消えていくと、もう聞こえなくなった。
 本当ならば、次の町まで二日はかかるところ。少しゆっくりと休んでいきたかったが、とてもとどまることなどできず、逃げるようにして建業までやってきたらしい。

 領内に住む民の安寧を守るのも、君主たるものの務めである。なんとかしてやれまいかという訴えを聞いた孫堅は、すぐさま配下の兵たちに調査を命じた。
「まことの怪異ならばいざ知らず、人が怪異を騙っているかもしれぬ」
 少し機知のある盗賊や人買いが、怪異を装ってそれを隠れ蓑に、悪事を働いているかもしれない、と孫堅は見たのだ。
 一隊編成してその山の付近に向かわせ、なにか分かれば随時連絡を寄越すようにと言いつけて、人の仕業という証が残っていないか、念入りに調べさせた。
 ところがである。
 連絡があったのは最初の二日だけで、あとはぷっつりと音沙汰がなくなった。

 本物の怪異かと疑う者が半分。逆に、まとまった数の賊がひそんでいるのではないかと考える者が半分。
 さて、次をどうするかは揉めに揉めた。
 その結果、腕の立つ者を送り込むことに決まったのである。

 人選には条件があった。
 第一には、相手が人であった場合、多数を相手にしても引けをとらないだけの者であること。
 第二に、そこが賊の根城であるとすれば、人知れず忍び込むといった行動に長けている者であること。
 第三に、相手が本物の怪異であった場合、状況によっては即刻逃げる決断ができる者。

 第一の条件はいい。第二の条件で、根っからの軍人が振るい落とされた。第三の条件で、逃亡を恥と思う者が消えた。
 結果残ったのが、甘寧と周泰だった。腕は立つ。元々が水賊であったため、騙まし討ちといった隠密行動も苦手ではなく、更に、妙な誇り高さなど持っていない。
 他に何人か候補に上がった者もあるが、怪異を恐れすぎる者も除外されるのは言うまでもない。

 そうして二人、噂のもとになっている山に分け入った。
 甘寧など気楽なもので、人のしていることなら俺たちに潰せないはずはなく、怪異というものの仕業なら一度見てみたい、などと言う。挙げ句、
「もしなーんにもなかったら、な。いいだろ?」
 二人っきりで他に誰もいないのだから、などと擦り寄ってくる始末である。
 周泰も、怪異を信じるよりは、人の仕業だろうと見ていた。神や魔物といったものを目くらましに悪事を働く人間は、いくらでもいる。
 さほど深刻にも思わず、もし本当になにもなかったら、甘寧の我が儘を聞いてやるのもやぶさかではない、とこうしてやってきたのだが―――。

 

 静けさの中に、女の声が聞こえた。
 はっとしてそちらを振り返る。
 だが、泣き声ではない。
 小さく笑う声だ。
 それも、あちらから聞こえたと思ったはずが、耳を澄ませば声は四方から聞こえてくるようで、何処からと定められなくなる。
 人の仕業であれば、必ず何処かに女がいる。他の誰かが山に入っているのでなければ、自分に聞かせるための声だろう。つまり、こちらはもう見つかっている。

 声の方角をよくよく聞き分けようと試みて、周泰はそれに意味がないことに気付いた。
 もしこれが賊の企てならば、囲まれている可能性のほうが高い。女の声はあくまでも囮だ。迂闊に近付けば、木立の中になる。そこで長刀は振るえない。
 だが、
(甘寧は……?)
 人が襲ってきたのであれば、分からないはずがない。いくらなんでも、あっと声を上げる間もなく甘寧が倒されたとは考えられない。
 それとも、声を出す間もないほどの、暗殺の手際ということだろうか。
 ならば相手は賊などではなく、相応の訓練を受けた手練の者ということになる。

 だが、だとすれば。
 この状況で甘寧がまだ悪戯を続けるはずもない以上、彼は討たれたということになる。
 そんな馬鹿なと思うと同時に、どっと汗が噴き出してくる。
 まずいと思っても抑えられず、心臓は早鐘を打つようだ。
 呼吸も荒れたまま、殺せない。
 周泰は抜刀の姿勢をとったまま、周囲の気配に気を配った。だが触れてくるものがなにもない。
 ただ、
「………………」
 聞こえるか聞こえないかの小さな声で、女の吐息めいた笑いが聞こえてくる。

(真正の怪異、か……?)
 気配を完全に断ち、人のうめき一つ洩らさずに仕留める手練の暗殺者がいるのでないかぎり、そうとしか考えられない。
 人々が聞いたのは女の泣く声だというが、これは泣き声ではない。
 別の怪異か。
 それとも、泣いていた女が、急に笑うようになったのか。

 そこまで考えて、わけも分からずにぞっとした。
 怪異であり、甘寧が声も立てずにどうにかなってしまったのならば、逃げるべきだ。逃げてありのままを報告し、次の一手の台とならねばならない。
 だが周泰は、頭の中に浮かんだその選択肢をとる気には、なれなくなっていた。
 臆病と罵られ笑われるくらいならばいい。言いたい者には言わせておけばいい。
 ただ、このまま逃げれば甘寧はどうなるのか。
 相手が人であり、捕らえられただけならば、隙を見て逃げてくることもできるだろうし、打ち倒すことも叶うだろうが、怪異に巻き込まれたのならば、人などとって食われても不思議ではない。
 もし何者かに殺されたのならば……相手が悪いと逃げるべきだとは分かっていたが、自分の首を餌にしておびき出し、この手で討ち取らねば気が済まなかった。

 相手が怪異であれ人であれ、奪ったならば許せない。
 思いがそこに到るや、腹は決まった。
 いざとなれば組討で、と邪魔になる刀は腰から外して放り出す。こんな物がほしいならば持って行けばいい。
 無腰で木立に分け入り、声の源へと耳を澄ます。
 女の声は微かに、しかしはっきりと喜びに満たされて、聞こえてくる。
 何処だと声を張り上げれば甘寧と共に消えてなくなりそうな気がして、周泰は無言のまま、そのくせ足音や草を分ける音は隠しもせず、これと思う方へと進んでいった。

 気が付けば、木々の間は乳のような靄に覆われて、見下ろす自分の腰から下さえろくに確かめられなくなっていた。
 夏の夜とは思えないほど空気は冷たく、吸い込めば喉までが凍りそうになる。
 凍えそうだと思った時には、そこは白い靄しか見えない場所になっていた。
 足を出せども歩いている気はせず、のばした手で幹を頼っているはずが、見ればそこにはなにもなく、肘から先は靄に埋まるのみ。長くそうしていると、白い中で腕が凍りつきそうになる。
(怪異)
 人に太刀打ちできるものではない気もしたが、ならば引き返すこともままならないだろう。それができるならば、帰ってきた者があるはずだ。

 辺りが白一色、他に見えるものもなくなって、
「甘寧!」
 周泰は声を上げて呼んだ。
 声はこだまを繰り返して遠ざかっていく。
「甘寧!!」
 あとはただひたすらの静寂。
 何処にいるのかと焦れて足を速めると、
「うふふふふ……」
 間違いなく背後から、女の笑う声がした。

 癖で左の腰に手をやりつつ振り返れば、そこにもう靄はなく、女が一人座っていた。そして、その膝の上に頭を乗せて、甘寧が横たわっている。
 刀があれば、一歩で間合いに入る。その首を切り飛ばすことなど造作もない。置いてきたことを悔やんだが、もう遅い。
「女。なんのつもりだ」
 問えば、女は顔を上げた。
 目は何処を見ているかも定かならぬ死人のものながら、桃の花弁のような唇といい、黒々と濡れた瞳、切れ長の目と蛾眉、ふっくらと白い頬、美しい女だった。

 反するように身なりは粗末で、袂にはほつれ以上の鉤裂きの跡まである。それも、見たことのない衣である。
 女はすぐに上げていた顔を伏せ、細い指先で甘寧の腰にある鈴を鳴らした。
 大きさのわりに、澄んだ音がする鈴だ。
 その音に女は感極まったように眉を寄せ、膝の上の甘寧の頭を愛しそうに撫でた。

 その手を目で追って、周泰は、甘寧の髪が白く凍り付いていることに気付いた。
 頬にも肩にも薄く氷が張り、顔色は真っ白になっている。
 わけは知らない。相手が「なに」かも分からない。
 だが、このままでは―――もう遅いのかもしれないが―――甘寧は凍え死ぬ。
「返してもらう」
 女に向かって踏み出し、手をのばす。遮ろうとのびてきた女の手は、触れた瞬間に痛みが走るほどに冷たかったが、力は弱かった。払いのけて突き飛ばし、甘寧の肩をとって抱き起こした。

 途端、女はとてもすすり泣くとは言えない声を上げて、その場に泣き伏した。
 そして
「返して……!」
 と叫んだ。

「返して、成元」
 女は続けて口走る。
「成元を返して。返して、お願い」
 生気のない目から、涙が溢れている。それは瞬く間に凍りつき、ここはいったい何処なのか、落ちて固い音を立てた。
「成元……?」
 人の名前だ。だが、そんな名の者は知らない。
 女は甘寧を「成元」と呼んでいる。
(人違い、か……?)

「この男は成元ではない」
 周泰が言うと、女は聞き分けもなく首を横に振る。
「成元よ、成元だわ。その鈴もある」
「この男は甘寧、甘興覇だ」
「嘘よ、成元よ。この私が見間違えるはずがない。鈴だってある。私のあげた鈴よ。お願い、返して」
(鈴もある、と言うなら、姿でまず「成元」と思い、鈴も……?)
 成元という男は甘寧に瓜二つで、更に同じように鈴まで身につけていたというのだろうか。

 周泰が次に思ったのは、昔の甘寧に、そういう名で付き合っていた女がいたのではないか、ということだった。
 理由は分からないが、その女は人でなくなり、怪異と呼ばれるものの仲間になった。
 だとすると、甘寧だと言い張るわけにもいかない。第一、女が納得しないのでは、この得体の知れない場所から帰ることはできないだろう。
 怪異とはいえ、その心根や体そのものは普通の女と大差ないことで、周泰はだいぶ落ち着いていた。
「俺はこの男を甘寧として知っている。だがおまえは成元だと言う。昔そう名乗っていたことがないとは、俺には言えん。……おまえの名は。その成元とはいつ、何処で知り合った」
 女から離れたことで体温が戻ってきた甘寧にほっとしながら、そう尋ねた。

 女は香藍といった。
 その話を聞いて、甘寧が成元でないことは分かった。
 何故ならば女の話は、高祖・劉邦の時代にまで遡らねばならなかったのである。
 その時代を当たり前として語る女の言葉は、最初は周泰にはわけがわからなくなることもあったが、数百年の隔たりがあることに気付けば、納得がいった。
「おまえは亡霊だ。おまえの生きていた時からは、もう三百年が過ぎている」
 周泰が言うと、女は急に虚ろになった。
 呆気に取られたのでもない。放心したのでもない。心や思いといったものが失せて、ただの人形のようなものになってしまった。
 それでものろのろと手を上げて、近付いてこようとする。
 甘寧を腕の中に庇い、
「香藍。この男は甘寧だ。成元ではない。おまえは三百年も前に死んでいる。成元という男も、とうの昔に。もう成元など何処にもおらん」
 言いながら周泰は、その言葉が唯一、この女を消せるものだと確信していた。

 女は腐れた紙のようにぼろぼろと崩れ、跡形もなく消えた。
 最後に微か、泣き声か笑い声が聞こえたような気がした。
 自分が死んだとも、成元という男が死んでいるとも知らずに、三百年の時を隔てて迷い出たのだろう。
 知らぬがゆえに在れただけなのだ。
 死んでいるはずはない、とまで狂うこともできずに化けて出た女が、憐れだった。

 白い靄が急速に引いていくと、そこは気温ばかりはそれまでと変わらない氷穴の中だった。
 湿った岩壁は凍りつき、吐く息が白い。
 そしてそこかしこに、凍死した人の屍が転がっていた。岩の一部のように同じ氷に覆われて、町や村の者、送り込んだ兵、広々とした空洞の中は、地面と屍、どちらがどちらかも分からない。
 唯一異質なものがあった。
 暗がりだが、そこにだけ月の明かりがさしている。それに照らされるようにして、奥の突き当たりに祭壇らしきものが見えた。
 元は完全な闇だったに違いない。祭壇の上には天井の崩れたらしい破片が高く積まれている。
 その下敷きに、氷の溶けかかった女の屍があった。
 衣も顔形も、香藍そのものだった。だが死体は半ば蝋化しているらしく、人の屍というよりは壊れた人形のようだった。

 

 必要なのは討伐ではなく、葬儀となった。
 周泰からの報告を聞き、氷穴の中で死んでいた兵士たちと同様に、なんらかの事情であの中に祭られた女の亡骸も、丁寧に弔った。
 周泰には、女の魂は支えを失った時に消えてなくなった気がし、それはまるで無駄なことのように思えてならなかった。

 香藍にとっては、甘寧ではなく成元だった。
 取り合って、奪い取った。
 なくせないものだから、容赦はしなかった。
 既に死んだ女ではあったが、もう一度殺したも同然だ。

 人一人殺して、奪い返してきた。
 凍りかけていた時とは違う、人間らしい体温の体を背中から抱き締める。
 驚いたらしい甘寧に、なんでもない、とだけ言うと、
「なんでもなくてそんなことするかよ、おまえが」
 甘寧は腕の中で身じろいで、体を反転させる。
「俺が死ぬかと思ったか?」
 甘寧が言う。そのことを恐れたのは、香藍と向かい合っていたあの時だけだ。
 だが周泰には、今の自分の気持ちを説明する言葉は思いつかなかった。だから、甘寧の勘違いにそのまま、頷くことにした。
 嬉しげな口付けを受けながら、心は重く沈んだまま、分かるのは、これから一生、香藍という名は忘れられないだろうということだけだった。

 

(終)