酒精恋醸

 一年、五年、それから十年。
 時の流れの中で変わるものもあれば、変わらないものもある。
 たとえば、変わったものがあまりにも大きくて、変わらなかったものが実にささやかだとしたら、貴方はどう感じるだろう。
 私は―――変わってしまった様々なことより、変わることのないささやかな出来事が、なによりも愛しい……。

 

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「あれは私がまだ十四の時だったか」
「なにがですか」
「兄上がおまえを連れてきたのは、確かその頃だったと思うのだが」
「は。間もなく十五になられたお祝いをされた覚えがありますので」
「そうだった。思い出したぞ。宴の席で、面白いことの一つでもしてみろと言われて……」
「そのようなこと、早くお忘れくださいませんか」
「忘れられるものか」
 なにもできないと承知で無理を言われ、困り果てて、たぶん泣きそうになっていた幼平を、私が助けたことがある。

 幼心にも、理不尽を感じていた。
 今でも感じている。
 幼平が寒門の出で、私たちのところに来るまで江賊として生きていたこと。
 私にとれば、「たかが」それだけのことだ。
 それを大きく取り上げあげつらって幼平を軽蔑し軽んじるなど、私には理不尽にしか思えない。
 あの時も、幼平にそんな戯事ができるとは思わない者たちが、満座の中で無遠慮にはやし立てていた。
 私がなにを言ったのかはもう覚えていない。ただ、私は怒り、その後で兄上が笑って場を宥めてくれた。
 もう大人なのだとばかり見ていた幼平を助けたことで、私はだいぶ得意に感じたものだ。
 大袈裟かもしれないが、人の「主」という立場の感覚を、初めて感じた出来事でもある。

 私には、他の誰よりも幼平が一番のお気に入りだった。
 兄上に我が儘を言って側近にもらってからは、兄上が彼を戦に連れて行くのでないかぎり、いつも傍において話し相手をさせていた。
 他の誰にもできない話。他の誰かにはしようと思わない話。
 いつもこうして、部屋に呼び入れて話していた。
 時が過ぎるに合わせて、卓にあるのが茶から酒になりはしたが、それは今でも続いている。

 西の庭に花が咲いた。
 これまで見たことのない鳥を見た。
 今日の雨は蒸し暑くて嫌だった。
 そろそろ栗の美味い季節になる。
 新しい着物を作らせたが丈が合わない。
 呂粛がどこぞの女にフラれたらしい。
 張昭の孫が………………

 話はいつも他愛ない。
 そして、話しているのはいつも私で、幼平は相槌を打ちながら聞いているだけだ。
 十年という時が過ぎ、様々なものが変わりゆき、私も大人になったが、このことだけは変わらずに、ずっと。
 私の思いがいつの間にか変わってしまっていても、このことだけは変わらずに。

 年月をかけてゆっくりと、私の思いは同じものでありながら違うものに。
 誰よりも、他のなによりも、幼平といる時間が良い。
 私は上手く隠せているか?
 幼平はなにも、気付いていないか?
 彼にとれば私は、あまり上等とは言えない、頼りない主、ただそれだけかもしれないが私には……。

「孫権様。少し飲みすぎではありませんか」
 私は今、なにを話していただろう。
 考えていたことは分かるのに、なにかを話していたことも分かるのに、なにを話していたのかが分からない。
 幼平の言うとおり、少し飲みすぎたかもしれない。
「今日はもうお休みください。今、侍女を」
「いや、いい。わざわざ呼ぶことはないさ。おまえが手伝ってくれ」
「は。そうおおせならば」
「だいたい、立って歩けるか自信がない。これは侍女など呼んでも、また他の誰かを呼ばせることになる」
 椅子から立つと、案の定、ふらりときた。
 すかさずのびてきた腕が、支えてくれる。寄りかかると、安心する。
 いつも私の傍にいる、この男。

『おおきくなったら、幼平よりおおきくなるんだから』
 ああ、でも今でも、私より幼平のほうが大きいな。
『そうしたら、こんどはわたしが幼平をまもってやるからな』
 今でもずっと、助けられてばかりだ。
『だから……死んだらだめだぞ』

「……どうなさいました」
「昔の思い出は、なにかと涙につながるものだ」
 甘く、苦く、あるいは哀しく。
「涙につながらないなら、きっと大したことのないものなのだろう」
 おまえに会えて良かった。
 我が儘を言って困らせたこともあったな。
 兄上を失って、私が全てを背負わなければならなくなって、悲しいともつらいとも言うことは許されなくなった時、一度だけおまえから誘われたことがあったな。一緒に飲まないかと。
 あの時だけは泣き上戸だった。
 おまえだけが許してくれた。
 そんなおまえがこの十年、ずっと私の傍にいた。
 他愛ない話の一つ一つ。
 私には、全て涙につながってしまう。
 おまえを思えば、いつだって涙の気配を感じるほどだ。

「やはり、お酒を過ごされましたか」
 寝台の端に腰掛け、上着を脱ぐ。受け取った幼平が丁寧に畳んで櫃におさめる。
「酔っ払いの戯言になぞしてくれるなよ。我ながら上手いことを言ったと感心しているのに」
 解けない結び目に難儀していると、いつかもそうだったように、見かねた手が助けてくれた。
「戯言とは思いませんが、それでは詩のようです。これまで詠まれたこともないのに」
 私はもう子供ではないが、子供ではなくなったからか、子供扱いが心地良い。
「言ってくれるものだな、幼平。やらぬだけで、できぬのではないぞ?」
「そこまでおっしゃるなら、ぜひとも拝聴したいものです」
「よし、いいだろう。そのかわり、上手くできた時には褒美がほしいな」
「また埒もないことを。俺にご用意できるものであれば、なんなりと」
「二言はないな?」
「ありませぬ」
 どれほど少しでも、私に向けて笑ってくれる。
 それだけのことでさえ、私は泣きたいほど嬉しいのだと、幼平、おまえには分からぬだろうな。

 詩など、整ったものにするのは難儀だろうが。
 戯言にまぎれてでも吐きたい思いは、ずっと私の中で温められてきた。

 

 

路傍の花を見て思わず涙すれば
隣を歩いていた友が驚いて笑い
呆れながら何事かと問う
また笑われるだろうと思えば 答えはしないが
わけのないことではない わけはある
大きな幸せを 私は思い出したのだ
幼き日 あの人と同じ花を見
二人同時に「きれいだ」と言った あの時の

影を刻む高天の月を見れば
こらえがたい不安を覚えて思わず身も震え
やはり 涙が滲んで隠せなくなる
昔 同じような月の出た喪の晩に
私は心細さと恐ろしさに襲われ
泣いて困らせること 甚だしかった
おまえもいつかは帰らぬ人になるのかと
そして今また 同じような不安に襲われるのだ

その人とのこととなると 私はまるで気狂いで
なにを見てもかの人を思わずにはいられない
喜びも悲しみも 溢れてとめどないことは泉のようで
形になればきっと その人の帯まで濡れてしまうだろ
私の内はその人のことで一杯で 隙間もなく
ゆえに 居所のない涙が吹き零れる
それは何処へも行きようを失って
仕方なしに外へと零れてしまうのだ

 

 

「………………」
「どうだ。学者が採点すれば、まずいとけなされるだろうがな」
「……それは、反則です」
「どこが。体裁くらいはちゃんと整えたぞ。韻を言われるとつらいが」
「俺には、反則です、孫権様。……なにを望まれますか」
「合格か?」
「約束は守ります」

 私の前に跪き
「ご所望なら、俺の首でも命でも」
 ……だなどと。
 けれど、そのままもらってしまおうか。
 おまえをそのまま。

「幼平」
 私の腰掛ける隣を叩く。
 幼平が訝しげな顔をして
「では、失礼をいたします」
 隣に座ったところで、巻き込んで寝台に倒した。
「あの、孫権様?」
「おまえがほしい」
「……は?」
「なんでもくれるのだろう。だからそっくりそのまま、おまえをもらう。首も命も、全てだ」
 だから、命の入れ物も、当然。

「……本気、いや、正気ですか」
「酔ってはいるが、泥酔はしていない」
「しかし……」
「くれると言ったろう。二言はないとも」
「いえ。……俺を相手に、よくその気になるものだと」
「そんなことか。蓼食う虫も好き好きと言うし、おまえは蓼などよりは、よほどに美味そうだ」
「……真顔でそのようなことを言うのはど……」
 目の前にして、いつまでもお預けは御免だ。一口、噛りついた。

 美味いものには二種類あって、感激するほど美味いが一度食えれば満足なものと、口にした傍からまた恋しくなるものと。
 前菜の感触ですら、いつまでも、何度でも味わっていたい。
「……は……、孫権、様……」
「嫌だという言葉は聞かんぞ」
「いえ。灯りを……」
「灯り? なんだ、恥ずかしいのか。だが消せば真っ暗だ。月は出ているが、少し心許ない」
「興醒めされます。俺の体など見れば」
「くどい。私はおまえが……あ、いや。……そういうことか」
 傷だらけの体―――。

 十も、それ以上も、私のための傷。
「……負い目だと言えば、おまえもつらかろう。だから、私はおまえの傷全て、愛しているぞ。私への忠義の証だものな。厭わしいことなどない。愛しいだけだ」
 右の肩から胸についた大きな刃傷を、唇で辿った。
「孫権様、それは、違います」
「なにが違う」
「たぶん俺は、貴方が俺の主でなくても、守りました。……忠義などでは、……ない、と思います」
 思いがけない言葉を聞いた。

 幼平の手を背中に感じる。
 抱かれるままに近づくと、柔らかく、唇を唇で、挟まれた。
「幼平」
「仲謀様」
 ……初めて、字で読んだな……。
 孫家の権、という主としてではない、ただの私。
 心に響く―――。

「……ところでな、幼平」
「は」
「一つ気になっているのだが」
「なんですか」
「いざとなったら、いきなり体勢逆転するというオチはなしだぞ」
「え?」
「言っておくが、私は女ではないのだからな」
「……とりあえず、どちらの覚悟もしてありましたから」
「それならいい。では、いざ」
「あっ……」

 ……せっかくのシリアスにこんなオチつけるなよ、作者め。
  

(ちゃんちゃん♪)