意地悪な太陽

「うーむ……」
 澄んだ湖面に映した自分の顔を見て、孫堅は渋い顔をしていた。
 山の中腹を根城にする賊にタチの悪いのがいると聞いて、精鋭を率いての討伐に出てきた、その野営地点である。
 賊の討伐などになにもわざわざ彼が、と思う向きもあるかもしれないが、国のことは二人の息子が手分けしてきっちりとこなしているため、はっきり言って暇になってしまったのだ。
 それでこうして、暇つぶしに遠征などする。

 孫堅はもうだいぶ長い間、自分の顔など見ているが、別に見とれているわけではない。
 髪の色だ。
 何処でどう異国の血が混じったのかは定かではないが、それにしても、色が薄い。それが息子や娘にまで受け継がれて、全員がとうてい「黒」とは言えない頭をしている。
 まだしも孫策と尚香は濃い焦茶色だが、孫権は赤みが強い。
 孫堅自身にしても、普段は頭巾や兜で誤魔化しているが、強い光に当たればあからさまに茶色に見える髪だった。

 それがここ数年で、一段と色を失っている。早く白髪になってくれないものかと思ったこともあるが、山際からさしてくる朝日に照らされて、
(どう見ても黄金色だぞ)
 まばゆい自分の髪を見、溜め息をついた。

「おはようございます、孫堅様」
 不意に後ろから声がして、孫堅は慌てて頭巾をかぶった。この髪の色はあまり人に見られたくない。だからこんな早朝にこっそりと、顔など洗っているのだ。
 だが隠すのが間に合ったとは、思えない。
 振り返ると、声の主、周泰が佇んでいた。
 朝日を背にして姿は影になっているが、
(むぅぅ……)
 漆黒の髪は見事に光を跳ね返して、輪郭が銀色に見える。

 髪のことなどで深刻に悩んでいるとは知られたくない。孫堅は自分の狼狽など忘れたふりで、
「どうした、早いな」
 などと空とぼけた。
「昨夜はやけに山犬が吼えたので、異常がないか気にかかりまして」
「それでわざわざこんな早くから見回りに出たのか。ご苦労だったな」
「いえ。……それにしても、何故そうも慌てて隠されますか」
「うっ」
 孫堅は頭巾をかぶった頭に手をやった。

 これは、妙な髪の色を持ってしまった者にしか分からない悩みだ。
 黒く艶やかな髪。誰もが持っていて当たり前のその色に、どれほどの羨望を抱くことか。
 そんな鬱屈があるなどと周泰は夢にも思わないのだろう。
「見事な黄金色で、しばし見とれておりましたものを」
 などと言った。
 欠点を褒められた場合、喜ぶか怒るか、確率は半々だ。
 孫堅はずいと周泰を睨み上げ、
「誰にも言うな。良いな!?」
 と脅しかかった。

「え、あ、はあ……」
 孫堅の剣幕に驚いて、周泰が一歩退く。何故それほど強く言いつけられなければならないのか分からないらしい。珍しく、動揺が顔にまで表れている。
 これではかえって印象づけてしまったか、と孫堅が悔やんだその途端、山から下りてきた風が、一際強く吹いた。
「あっ」
 と驚く間もなく、乗せただけの頭巾がさらわれて飛んでいく。手をのばしたが届かない。
 頭巾は風にとられたまま、湖の真ん中辺りに落ちて、沈んでいった。
 それを見届けるや、
「なにか寄越さぬか! 気の利かぬ奴だな!」
 振り返った孫堅が周泰へと怒鳴った。

 叱責された周泰は慌てて自分の持ち物を探った。露よけに肩に羽織っていった布があるのを思い出し、解いて差し出す。
 奪うようにそれをとった孫堅が、自分の頭へとそれを巻きつけるのを、周泰は黙って見ていた。
 その視線に気付いた孫堅は、険しい目で睨み返す。慌てて周泰は顔を伏せたが、
「物珍しそうに見るな!」
 またしても孫堅に怒鳴られるハメになった。
 のみならず、
「主を珍獣のように見る奴があるか!」
 などと、思ってもみなかった言葉までぶつけられて、さすがの周泰もうろたえた。
「まさかそんな。俺はただ、あまりに綺麗だったので……」
 思いつくままに、めったにしない言い訳などを口にする。

 綺麗と言われて、孫堅は面食らった。
 奇抜だとは思ってきたが、こんなものが「綺麗」なのだろうか。派手でちらちらと鬱陶しくて、とても好きにはなれない。
「どう綺麗だという」
 問うと、
「どう、と言われても」
 周泰は困惑するだけだった。もともと語彙の豊富な男ではない。
 だがそれゆえに、とっさに嘘や世辞などを口にできない男でもある。綺麗だと言うなら、彼には本当にそう思えるのだろう。
 褒められても嬉しくはないが、それで少しは孫堅の気も鎮まった。

 無論、周泰の言うのを認めたわけではない。
「俺に言わせれば、綺麗というのは、おまえの髪のようなのを言うんだ」
 つかつかと近づいていくと、無造作に腕をのばし、彼の髪をまとめている巾の紐を引く。見回りの後であらためて身繕いするつもりだったのだろう。あまり丁寧にまとめておかなかったに違いない。呆気なく解けて、髪が肩に散った。
「しかし、このような髪は誰でも持っております」
「黒いだけならな。おまえの髪は、水のようだな。……冷たい」
 指に一束とってみると、事実、水のように滑らかで冷たく、心地良かった。

 その手で自分の髪に触れれば、なんとも柔らかく生暖かく、好きになれない。
「どこがいい、こんなもの……」
 小声で自問した。そしてもう一度手をのばし、周泰の髪に差し入れる。
 困惑したのは周泰である。こうして相手の体に気安く触れ合うような人種ではないし、身分の上下、年齢の上下、様々な隔たりがあり、またそれを侵しがたいお国柄である。
 孫堅は……と言うよりも、孫家の人間は、何故かそういった事柄に関しては大雑把で、屈託がない。悪いことではないが、国主の父、という最も高い身分の男が相手では、周泰が落ち着いていられるはずもなかった。
 困惑は顔に出るし、狼狽がそのまま所作になり、身じろぐ。

 孫堅はそれに気付いて少し目を大きくしたが、急ににやりと笑った。
「策の相手は大変だろう」
 などと言う。周泰にはなんのことを言っているのか、一瞬は分からなかった。が、間を一歩詰めてほとんど密着せんばかりになった孫堅に腰を抱かれ、妙なところに触れられては、それを考えるどころではない。
「孫堅様、なにをされますか」
「おまえを見ているといじめたくなる。権はともかく、策は放っておかんだろうな」
 問いを無視して耳元に唇を寄せ、吐息と共に孫堅が言う。
「冗談にも洒落にもにこりともせん奴が、たまに変わった顔を見せるとすればそういう顔だけだ。それならもっと見てやろうという気にさせられる。無理難題を吹っかけたくなる。見たいとなったら、我慢のできる策ではない」
 正直に答えろ、と命令された周泰は、それでようやく、先ほどの孫堅の言葉の意味を理解した。

 

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 

 孫策と共にいると、難問をぶつけられることは少なくなかった。返答に困る質問をされることもよくある。
 そういう時の孫策は楽しそうに笑っているし、できなかったからと言って怒ることもないから、悪意があってしているわけでないことだけは確かだ。それで周泰も、ほとほと困り果てることはあっても、さして嫌だとも思わずにいる。

 先日など、街の巡察について行ったはいいが、民家の垣根の内側にある柿を見つけた孫策が、
「美味そうだな。一つもらっていこうか。おい、周泰、とってくれよ」
 と言った。周泰は当然、その家の主に言って分けてもらうことを考えたが、行こうとすると孫策は、
「おまえならそこから手をのばせばとれるだろう」
 などと言う。
 たしかに手は届くが、それでは柿泥棒である。……そういったことをしたことがないわけではないが、今はもう、そんなことをせずに普通に柿くらい口にできる身だ。
 ふと、俺の出自を知っている孫策様は、こうして暗に嘲っているのではないか、などと考えてしまった。

 そんなふうに、まあいいかと済ませるのが難しいこともないわけではない。だがたいていは埒もないことである。
 その時も、周泰がまごまごしていると、孫策はその場から声を張り上げて、
「おい、主。美味そうな柿だな。一つもらってもいいか?」
 と中に声をかけた。驚いて出てきた老人が、相手を孫策と知って平伏すると、彼は笑いながら周泰へと顎をしゃくる。家の主の許可も得られたことだと、周泰が一つもぎとって渡すや、孫策は袖でざっと埃を拭いて、赤いほどに色づいた柿に噛り付いた。皮を巧みに吐き出しながら、
「うん、美味ぇ。よう、もう二つ三つ、もらってもいいか? 俺一人だけ食うんじゃ勿体ねぇや」
 満面の笑顔になる孫策に、恐縮していた老人たちもほっとした様子だった。そして嬉しそうに、篭一杯の柿を差し出してきた。
 それを従者に受け取らせるや、孫策は上から一個とって周泰に投げて寄越し、
「おまえも食えよ。美味ぇぜ」
 と言い、ふと真顔になって小さく頷くような仕草をした。そして、
「今のは、ちっとまずかった。すまん」

 孫策に困らせられることは事実として少なくない。
 だが、それが彼の悪意ではなく、むしろ情に近いことはよく知っている。
 周泰も、自分があまり笑ったりできない性分であることは承知しているから、いつもと違う顔が見たいと思って困らせているのだ、と言われれば、なるほどと納得もできた。
 しかし、である。
 それはそれとして、これはなんなのか。
 孫堅の手は帯を緩めて着物の裾をたくし上げ、下履きの中に入り込んできている。
 彼もまた、自分を困らせて、普段とは違う顔を見たいのだろうかなどと考えながら、それこそ、どうすればいいのかと困惑する。

「孫堅様、何故、このようなことを」
 孫堅の手がじかに肌に触れてきた。口を突くままに尋ねる。
 すると孫堅は、人も意地も悪そうな笑みを浮かべた。
「俺にされるのは嫌か?」
「あの、俺……私は、男です。このようなことは、なにも俺など相手にせずとも、二日も堪えれば、麓の女を買うことくらい……」
 その二日が堪えられない、と言われたらどうしようか。周泰は言いながらそんなことを考えた。
 が、案に反して孫堅は、拍子抜けしたようなぽかんとした顔で肌を離す。
 そして、
「なんだ、策はまだ手を出してないのか」
 と言った。

「孫策様が、なにを?」
「……ははあ。なるほど。俺の勘違いだ。困らせるのにこれほど都合のいい手はないんだが、あれで案外策の奴、人がいいのか、それとも世間が狭いのか」
「孫堅様?」
「周泰。俺がおまえの少し違う顔を見たいと思えば、こうするぞ。困るか、怒るか。それとももう少し、違う顔を見せてもらえるか」
 いきなり足を払われた。油断していたこともあり、呆気なく体勢を崩す。踏みとどまろうと引いた逆の足まで払われ、周泰は後ろ様に倒れてしまった。
 肘をついて背を起こす上に、孫堅の体がかぶさってくる。
「な……なにを、されますか」
「さて、なにをするか?」
 笑みに混じる意地の悪さは、最高潮に達していた……。

 

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 

 初めてだとは思わなかったが、などと考える一方、
(箸をつけるのは年長者からだしな)
 と悪く洒落て、馬鹿馬鹿しさに孫堅は自分で苦笑した。
 ようやく孫堅のものを飲み込んで、腹の下、周泰は苦しそうに口を空かして喘いでいる。
 戦の最中、危地にあれば緊迫はする顔だが、どれほど傷つこうと、痛みや苦しみに耐えかねたような顔は、ついぞ見たことがない。
 それが今、自分の目の前にあるのだと思うと、妙な満足感を覚える。
「周泰。おい、周泰。力を抜け」
 言いながら、軽く頬を叩く。
「俺はなにも、無体を強いて苦しめたいわけじゃない。無理をさせる以上、おまえにも取り分は必要だ。力を抜いて、楽にしろ」
 言いつけると、なんとか従おうと、苦心するのが分かった。

 従う気になったところで、どうすればいいのか、侭ならないだろう。それをなんとか誤魔化すことに成功したらしく、鉄環でもはめられたようだった締め付けが、いくらか緩んだ。
 草を掴み千切っていた手を促して、己の背を抱かせる。
「よしよし。少し痛いだろうが、できるだけ力は抜いていろ。痛いだけではなくしてやろう」
 言って、ほとんど引かずに、腰を押し付けた。
 それに合わせて周泰の腕に力が入る。ほとんど身動きもとれなくなるほどの力だが、触れさせたまま、押し付け、緩める、その繰り返しにはなんの障りもない。
 根気良く続けていると、ようやく馴染んできたのか、抵抗が僅かに減った。
 少しずつ、動きを大きくする。
 感覚をこらえるだけで精一杯なのか、周泰の喉から、かすかな声が洩れ聞こえる。

 杜撰に巻きつけただけの布は、頭から外れてしまっている。
 目の端にちらちらする己の髪を鬱陶しいと思った孫堅だが、ふと見た周泰の目が、眩しそうにそこに向いているのに気付き、
「やはり、こんなものが気に入ったのか」
 体を休めて問う。半ば意識は手放しているのか、周泰は子供のように一つ頷いた。彼の手が明るい色の髪に分け入って、梳き出ていく。失礼もなにも、考える余裕がないに違いない。
「俺はこっちのほうが好きだがな」
 草の上に散り広がっている周泰の髪を指でとって、孫堅はそこに唇を押し付けた。
 そして急ににやりと笑い、
「見たいなら、相手をしろ。こうしている時だけは、外していよう」
 周泰は聞いているのかいないのか。

 なんにせよ、他の者が起きてくるまでにはもう間がなさそうだ。
 それまでには何事もなかったかのように片付けねばならない。
(この分では、今日は具合が悪いとか言って休ませるしかないな。それはどうとでもなるとして、さて、次に迫ればどんな顔をするのやら)
 この親にしてこの子あり。孫堅は自覚しているのか、いないのか……。

 

(おしまい)