やたらと暑い日だった。 だが暑いと言っても、心身の鍛練と思えばつらいものでもない。 真面目の上にあまり上品ではない接頭語がつきそうな太史慈は、酷暑の昼間でも、襟元すら緩めずに日向を歩いていた。 暑さというものは、拒もうとするとたまらなく鬱陶しく感じられるが、受け入れて全身で感じようとすると、じりじりと焼け付くような日差しも、汗ばんで蒸される感触も、そう厭わしくはなくなる。他人が見れば暑苦しいと思うのはともかくとして、太史慈本人にとってみれば、この程度の暑さは、まだ心地良く受け入れられる範囲だった。 無論、だからといって我慢大会でもあるまいし、無駄に耐えるつもりもない。 彼が向かう先は水場で、小脇には着替えを抱えている。午後には予定もないから、汗を流してさっぱりした後で、風通しの良い日陰を選び、久しぶりに書でも広げようと考えたのだった。
だがいざ人工の滝を落とした池、水浴場に来てみると、滝の傍を泳いでいる先客があった。孫策、孫権である。 「よぉ、太史慈。おまえも来たのか」 孫策は彼を見かけると、のんきに水の中から片手を上げ、 「気持ちいいぜ。来いよ」 などと言う。しかし主の浸かっている水の中へ、自分の汗を落とせる太史慈ではない。 「無理ですよ、兄上。私たちが上がらないかぎり」 「このクソ暑いのにそんなことにこだわるなよ。俺がいいって言ってんだから、いいじゃねぇか」 「そういうわけには参りません」 固辞して、太史慈は二人が出てくるまで、少し散歩でもしていようと決めた。
振り返ったところに、丁度正面から、気怠そうな足取りで歩いてくる長身の姿があった。周泰である。肩に一枚着物を置いているところを見ると、彼も水を浴びに来たようだ。 「よう、周泰、おまえもか?」 孫策が楽しそうに声を張り上げ、 「冷たくて気持ちいいぞ。おまえも来るといい」 孫権も続けてそう言った。 一方太史慈は、……慌てて回れ右をしていた。
「なにをしてる、子義」 背後から怪訝な声をかけられる。 前からは、 「おい、権。聞いたか。俺たちなんて眼中にないって感じだな。子義だってよ、子・義」 冷やかす声が飛んできた。 「あー、いいなぁ。私も字で呼んでほしいのに、何度言っても駄目なんですよ」 「俺もだ。あーもう、暑さしのぎに水に浸かってんのに、余計に熱くなりそうだな」 「な、なな、なにを言っておられるのですかっ、お二人ともっ。周泰殿っ、ご主君の前で……」 「うるさい。俺はお二人に話し掛けてるわけじゃない。仕事で話すならともかく、今は構わんだろうが」 主によっては嫌うだろうが、事実この兄弟はまるで気にしていない。となれば、周泰の言うことが道理である。
「それよりなんなんだ。俺を見るなりいきなりそっぽを向くとは」 「う……」 (言えない……) ただでさえ暑いところに血まで昇ってきて、太史慈の頭はくらくらしはじめた。 だがなんとかしてもらわないことには、とても姿を見て話せはしない。 「し、周泰殿っ」 「なんだ」 「いくら暑いからと言って、それは少し、自堕落ではないか?」 「なにが」 「そんな、その、自分の部屋の中ならばともかく、襟元を広げて歩き回るとはっ」 言われて、周泰は自分の胸元を見下ろした。 襟を締めていては着物の中が蒸し風呂同然で、とても耐える気になれなかったのだ。 おかげで、首から腹近くまでがすっかり拝める有り様だった。
こんなものごときで狼狽するなと呆れつつ、奥手なのにも程があると半ば苛立ち半分。 周泰は太史慈の真横に立つと、 「それなら、子義、おまえが整えてくれ」 汗ばんだ彼の手をとって、自分の襟……というか胸に触れさせた。
目を剥いた太史慈。次の瞬間には、ふらりと後方に倒れていく。なんとか右足を一歩引いてこらえたが、その足にも力が入らず、へなへなと尻餅をついたなりに座り込んでしまった。 「……甲斐性なし」 情けない太史慈を一瞥して、周泰が言い捨てる。 「甲斐性で受け止められる色気の限度を上回ってんだよ、それは」 滝の傍から孫策の笑い声が飛んできた。 「それでは、いつまでたっても友達止まりだぞ」 声を合わせるように、孫権までが言う。 太史慈は真っ赤になって項垂れているが、周泰は横目に水の中の兄弟を睨むと、服のまま、池に入っていった。 「権、逃げるぞ!」 「はい兄上!」 「太史慈〜、とっとと決めねぇと、愛想つかされちまうぜ〜」 入れ替わりに、二人は水から上がって逃げていった。
孫策と孫権の姿が見えなくなるまで見送って、水の中で服を脱ぎ、岸に投げる周泰と、慌てて背を向けるほとんど達磨状態の太史慈。 予想通りの反応とはいえ、それをいつまでも「仕方ない」で済ませていては、進展など百年たってもありそうにない。 周泰はわざとらしいほど大きく水の音を立てながら岸に戻り、陸に上がった。 「お、俺は後で……っ」 と逃げ出そうとした太史慈を、逃すものかとすかさず手首を掴んで捕まえる。 あとは力任せに振り回し、振り向かせた。
「シ……」 子義、と呼ぼうとしたが。 ……太史慈が目を白黒させて卒倒するほうが早かった。 どうやら進展は、当分望めそうもない二人である―――。
(おちまい) |