ただ一度、もう二度と

 どうやって逃れてきたのか、周泰に覚えはなかった。
 痛みの記憶すらない。
 なんとか孫権を救い出し、徐盛の姿を求めて混戦の中に引き返した。彼を伴って河の傍まで引き返したところで、追って来る一団を払うため、再び取って返し敵の中へと突っ込んだ。
 どうしたい、という思いはなかった。ただ、体が勝手にそう動いただけだ。
 今思えば、明らかに軽率だった。逃げ切ることを考えれば良かったのだ。

 敵の包囲からはからくも脱出したが、追っ手を振り切るために幾度となく方向をかえて走り、最早己が何処にいるかも分からなかった。ただひたすら、背丈を越える草を掻き分けて進む。
 一刻も早く自軍に戻らなければならない。
 せめて河が見つかれば、あるいは夜になり星が出れば、どちらに向かえばいいかは分かる。
 そう思って歩きつづけたが、次第に傷と疲労が身を蝕み始めた。

 死はいつも隣にある友だ。
 恐れる者は戦えぬ。
 その友の手に、いつか落ちる時が来る。
(ここまでか……)
 そう思ったきり、周泰はその場に倒れこんだ。
 小さく耳元に、草を踏む音を聞いた気がした。

 

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 

 雨音の囁きに気付き目が覚めた時周泰は、己がまだ生きていることに驚いた。
 そして、自分が寄りかかっている相手を知って、言葉も出なくなった。
 瞑目し、瞑想する様に、じっと身じろぎもしない、徐公明。
 周泰の視線を感じたのか、その目が開く。
 間近に顔を見ることになり、周泰はいくらか狼狽した。
 互いが不用意に動いた弾みに、もたせていた肩が外れる。周泰はとっさに腕をつこうとしたが、途端に激痛が左の肘から肩まで突き抜けた。間に合わず、徐晃の膝の上に突っ伏す形になった。

 すまぬ、と言いかけて、困惑する。
 彼は敵だ。それが何故こうしてここにいるのか。
 考えながら、痛む腕を動かしてなんとか起き上がろうとすると、胸の下に潜り込んだ徐晃の手に助け起こされた。
 やはり周泰は、礼も詫びも言えずに惑う。
「無理に動くと、傷が破れる」
 徐晃はそう言いながら、もう一度自分の左肩に周泰の体をもたれさせた。

「……なんのつもりだ」
 敵だ。ただそれだけ心に確かめて、礼など述べるのはやめた。なにか思惑があるのかもしれない。
 問うと徐晃は
「なにについて訊いておられる?」
 逆に問い返してきた。
「なに、と?」
「貴殿を殺さずにいることについては、簡単でござる。弱り果てて意識もない首を落とすより、戦場で刃を交えた時にそうしたい、と思ったまでのこと」
 徐晃は何事でもないことのように、さらりと言い切った。
 その言葉には、気負いもなければ虚勢もなかった。
(方便では、ない、な……)
 当然のことであればこそ、当然のようにしか言えない。周泰はそう感じた。
「もし、こうしていることを不思議に思うなら、先刻からの雨で、床のほとんどは濡れてござる。それゆえ寝かせられるだけの場所がござらぬのだ」
 倒れぬようにするにはこれでなかなかコツがいる、などと付け加えて、徐晃は屈託なく微笑を見せた。

 敵の言葉をどこまで信じるか。それは容易な問題ではない。
 だが考えようにも、血を失ったせいか景色さえはっきりとは目に映らない。気が付けば、自分の体を支えていることもできず、徐晃の腕に抱かれ支えられていた。
 吐く息がひどく熱い。傷から熱が生まれているらしい。
 顔を上げる力も出てこず、徐晃がどんな顔をしているのか確かめることもできない。ただ彼の腕は、血が通って温かくはあるが、ほとんど動くこともなかった。まるで岩だ。なんとなく、また瞑目しているのだろうと思う。

 何度か眠り、何度か目覚め、周泰は夢と現を行き来したが、その間も徐晃に動いた様子はなかった。
 何度目かの覚醒の時、ようやく姿が消えていた。
 雨水の届かない壁際に寝かされていたが、足元のほうは冷たい。また、背中が今裂かれたように痛かった。生きているのだから深手ではないのだろうが、よほどに大きな傷があるらしい。
 徐晃が何処に行ったのか、それは分からなかった。
 周泰は、彼の姿がない今が、出て行く好機だと思った。
 何処かで監視のように感じていたらしい。

 立つと、右の腿も痛む。馬上にあった時、槍で突かれた覚えがあった。
 見回せば、半ば朽ちかけてはいるが、漁師小屋だ。壁に腐りかけた網がある。ならば河は遠くない。ここが何処か、河水を見ればある程度は分かるだろう。
 帰らねばならない。
 生きているならばまだ働ける。
 体はあちこちが痛み、動かすのも侭ならず、また眠り似た波に襲われそうにもなったが、周泰は壁を伝うようにして表に出た。

 空の一方が薄紫に染まっていた。
 暮れではなく、夜明けのようだ。もう雨も上がっている。
 最低でも丸半日は過ぎていることになる。
 まずは南へと方角を決め、歩き出そうした時、後ろから腕をとられた。
「無理をなさるな」
 徐晃だった。

 有無を言う間もなく抱え上げられ、小屋の中に連れ戻される。
 元の場所に下ろされて、またも隣に腰を下ろした彼の肩にもたれさせられた。
「お気持ちは分かる。拙者を信じてくれなどとは言わぬが、せめてあと一日なりとも休めば、歩いて帰ることも叶うようになる。今はまだ、熱がひどうござるぞ」
「……ならば、目を離さぬことだな」
 周泰の答えに、徐晃は一つ溜め息をついた。少し苦笑する。
「隙あらば逃げる、と申されるか」
「………………」
「どう逃げようとも、その有り様では拙者が追いつくほうが早い。まして今打ち合えば、よほどの油断でもせぬかぎり、負けるとも思えぬ。どうしてもというならば試されるも良いが、無駄なことでござるぞ。意地も誇りも当然ござろうが、せめて一日だけ、それを忘れてくだされ」
 言って徐晃は、腰を探って一本の草を出した。

「なんだ」
「今とってきた薬草でござる。熱醒ましによく効く。煎じる道具もないが、飲まぬようにしばらく噛んでいれば代わりになる。まあ、恐ろしく苦いが」
 それを毒だとまでは、周泰も思わなかった。殺す気があるならば、回りくどいやりかたなどせずとも、そこにある斧で打てばいい。
 さりとて、受け取るには屈託がある。
 熱がどうと徐晃は言うが、先刻ほどではない。周泰にはそれが、己の感覚が麻痺しているためとは分からなかった。
「……いらぬ」
 そう言い放って顔を背けた。

 また溜め息が間近に聞こえて、
「まるで子供ではないか、それでは」
 思いも寄らなかった言葉が続いた。
 さすがに侮辱されたと感じ、周泰が顔を振り向ける。途端、全身を一度に痛みが襲った。一言言うこともできずに、苦鳴を噛み殺してうめく。
「大人ならば、利用できるものは利用するものでござる。拙者が毒草などとってくるとは、まさか思われまいに」
 無理はなさるな、と徐晃は先刻と同じ言葉を繰り返した。

 それでも受け取ることを躊躇っていると、
「決して毒ではないのだが」
 と徐晃はその薬草を半分、自分の口に入れた。奥歯ですり潰すようにして、飲み込まず、何度も噛んでいる。苦い、と言っていたが、そんな顔はしていない。
 ここまでされて受け取らぬこともないか、と周泰は徐晃の志を受けることにした。
 恩にはなるが、返せとも言うまい。

 だが、徐晃の手に残った切れ端に手をのばした途端、強く肩を包まれて身動きを封じられた。
 何事かと思う目の前に、影が迫る。
 頬に手が添えられると共に、口を塞がれた。
 驚いて空かした唇の合間から、どろりとしたものが流れ込んでくる。
 驚きのあまり、味も感じなかった。
 茫然とする侭、気が付けば深く口付けられ、口の中に他人の舌がある。
 それがまた出て行くまで、出て行った後も、周泰はただ驚き固まったままだった。

「な……なにをするか!」
 ようやく我に返って怒鳴るが、徐晃は嫌味もなくただ笑うのみで、打ち込もうとした手刀は軽く掴みとめられた。
「動いては傷が開く」
 抱きこまれると、身じろぎもできない。普段ならば遅れをとるはずもないが、周泰自身が感じている以上には、高熱は彼の力を奪い取っていた。
 体が侭ならずとも、怒りは覚える。このようなふざけた輩の世話になどなるかとも思う。周泰はその意思を、せめて視線にこめて徐晃を睨みつけた。
 思いがけないものを見ることになるとは、思いもせずに。

 何故己をそんな目で見るのか。
 どんな目だと言われて説明はできないが、己に向けられるはずのない顔であり、眼差しだった。なにかが一度に溢れてきたように、切実で、張り詰めた……。
「なにを……」
「なければ会えなんだろう。だがあっては到底添うことなどできぬ。さりとて裏切るなど言語道断。……拙者が共も連れずに一人でいる時、たまたま貴殿を見つけた。願うだけ無駄と諦めていたが、まさか叶うことがあろうとは。だがこれが最初で最後。こうしていられるのは、今だけでござる」
「なにを言……」
 問い詰める前に、再び、唇を重ねられた。
 噛み付くような強引な口付けに押されて、ろくな抗議もできずにほしいままにされる。
「御身の傷に、感謝されよ」
 ようやく解放されるが、動くに合わせて唇が掠るほどの距離で囁かれる。
「さもなくば、これだけで済ませるなどできぬ。ただ一度と思えば、なおのこと」

 何度繰り返されたか。
 ただ口付けだけ。
 執拗だが、急に躊躇うこともあり、かと思えば吐息だけが触れる。
 苦悩の内にあるのがなにか、それでも分からぬほど鈍い周泰でもない。
 何故かはまるで分からなかったが、尋ねても答えは聞けまい。

 ただ一度。
 彼の言うとおり、二度目はあるまい。
「これが最後と思うなら、好きにすれば良かろうが。俺が死んだとて、おまえには敵だ」
 言うと、
「何処の世に、生かしておける思い人を殺せる者がござろう。貴殿にとれば拙者はただの敵でも、拙者には……」
 痛い思いもつらい思いも、してほしくはない。そう願いつつ、このようなことを無理強いするのもおかしな話だが。
 そう言って徐晃が笑うと、彼の目が微かに揺らいだ。

 

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 

 熱に飲み込まれていつしか眠りに落ちた後、目覚めるともう徐晃の姿はなかった。
 去ったのだろう。
 理由はないが、周泰はそう思った。
 背の下に、彼が頭に巻きつけていた布が畳まれてあった。血を吸って赤く染まっている。これのために、さほど痛まなかったらしい。

 思いは、かけられれば返せるというものではない。
 同情も憐憫も覚えず、ただ触れただけで終わることもある。
 ただ、応えてやれぬことが負い目のように心を覆っていた。
 周泰は己の血に染まった白い布をとった。
 せめて負い目くらいは、厭わず背負おうか。
(いつか……おまえの死を見届けることがあれば、遺骸くらいは、俺が葬ってやろう)
 その時に返すまで、この頭巾は持っていようと決めて、周泰は小屋から出て行った。

  
(終)