う・ら・ら

「出したら出しっぱなし、使ったら使いっぱなしっ。まったくもう……」
 憤然たる気配全開である。頭から湯気が立っているのが見えるような気さえする。地面を蹴りつけるようにして、陸遜が腕に一杯の竹簡を抱え、中庭を横切っていく。
 戦と戦の間が少しあいたものだから、たまには肉体の鍛錬ではなく頭の鍛錬に時間をさいてほしいのだと孫権に直談判して、主だった将たちに、それぞれ適当と思われる書物を読ませた結果である。普段から書に親しんでいる者はともかくとして、主の命令だからと渋々引き受けた連中は、皆が皆してこれだ。
 返す場所が分からないから、と正直に持ってきた太史慈など上も上で、返す必要性のあることなど考えていないらしい孫尚香とか、
(女性ですから、仕方ないような、その程度の気遣いくらいできて当然のような)
 仕返しとばかりに堂々と放置している甘寧、
(やることが子供と同じなんですからっ)
 読んだかどうかの時点で怪しい孫策、
(問い詰められないと思ってるんでしょうけど、そうはいきませんからね)
 まあ、どうしようもない。

 あちこちで放り出されている巻物を拾い集めるのに半日。ひどいのになると……甘寧なのだが、
「何処で読んだんだっけなぁ。中身覚えるのに手一杯で、置き場所忘れちまったよ」
 などと言ってさっさと逃げるものだから、在り処を探すのにどれほど苦労したことか。
 いつもなら、日に当てると傷みが早くなるから、と必ず廊下を歩くのだが、重いのもあれば腹が立っているのもあって、庭を突っ切ることにした。もし文句を言うほど常識の分かった相手に出会ったら、常識があるならこの苦労も分かるだろうと、半分は押し付ける気でいる。
 大股に杏の木の並ぶあたりを歩く。
 ふと、人の足が見えて歩を緩めた。
 見れば、一際大きな木の根元に寄りかかって、膝の上に書を流したまま、眠っているらしいのは、周泰。
 陸遜は足を止めた。

 読もうと真面目に努力はしてくれたらしい、と思う。
 彼に勧めた時に困ったのは、書などというものはほとんど広げたこともない、という告白だった。
 学問とは一切無縁に生きてきて、読める文字も限られている。分かりやすいことをわざと回りくどく書いているような学問書など、文字は追えても意味などまるで分からない、と言われたのだ。
 仕方がないので、
「これは決して貴方を馬鹿にしてるんじゃありませんよ。ただ、読む機会がずっとなかっただけなんですから、それは仕方ないことですし。だから、ここから始めるのがいいと思うだけですからね」
 と念をおした上で、母親が子供に読み聞かせるような物語を二巻渡した。実を言えば、そういったものが書庫にはなくて、自腹で買い求めてきたものだ。
 見下ろせば、今彼の膝にあるのは下巻のようだ。

 まさかこれすら難しくて読むのに疲れて、ということはないだろう。天気がいいからと庭に出てきて、心地良さに眠ってしまったに違いない。
「傷んじゃうんですけどね……」
 日光を浴びている部分を、せめて影の中に入れてやろうと屈む。
 腕一杯の巻物と一緒では思うようにならず、ぽろりと脇から零れるのがあった。陸遜は慌てて足をのばし、爪先でそれを蹴り上げた。音を立てずにうまく腕の上に戻し、ほっとする。そっと見てみるが、周泰はまだ眠っている。そこでもう一度、ほっとした。

 巻物を木陰に置いて、両膝と両手をつき、顔を覗き込む。
 男らしい顔だ。
 陸遜は自分の顔を思う。綺麗だという言葉に悪意がないのは分かっていても、そんなふうに言われて嬉しい男はいない。女たちに騒がれると、まるで玩具にされているように感じる。犬や猫に向けるのと大差ない感情を向けられているような気がしてならないのだ。
 今は良くても、十年、二十年とたち、肌に皺がよるようになった時には、もう見向きもされない顔になっているだろうと思う。綺麗、などというのはそんなものだ。萎れた花を綺麗という人がいないのと同じこと。
 本当の男の顔は、鋼と同じだと陸遜は思っていた。それは、打たれ、傷つき、欠けることがあろうとも、過ごした時の分だけ存在感を増していく。たとえ折れたとしても鋼は鋼、花のようにたやすく腐ることはない。

 隣に座り、目を閉じた周泰の横顔を眺めながら、陸遜は、最初はそんな憧れだったことを思い出していた。
 今は何故か、
(これってやっぱり、……好きだってことなんですよね……)
 知りたい、話したいというならばまだしも、触れたいと思うのは、紛れもなく。
 自分が隣にいることにも気付かないのだから、とそっと手をのばしてみる。だが触れればさすがに起きるだろうかと思うと、ぴたりと止まってしまう。
 知られたら、軽蔑されるだろうか。
 知られないように、ずっと押し込めておくか、それとも消してしまうのがいいのだろうか。
 そう考えると、寂しくなった。そして、押し込めておくならまだしも、消してしまうのはあまりにも哀しいと思う。

 思うこと。
 それそのものは、苦しみであり、喜びでもある。
 苦しみを厭い喜びを一つ失うのは、とても寂しい。
 それは、思う相手そのものを失うことと大差ない。
 ……そんな気がする。

「周泰殿」
 そっと小声で囁いてみる。答えは当然、返ってこない。
「好きですなんて言ったって、そうかとしか言わないんでしょうね」
 友人として、あるいは同朋、なにかそのようなものとして、ととられるのが関の山だ。
 そうしてずっとこのまま、隠し通していくのだろうか。いつか自然に薄れて消えるまで、まるでその時を待つかのように。
 それもまた寂しいことのように思って、陸遜は膝を抱えて俯いた。
 良いと言われている頭でも、恋の手立ては、なかなかに浮かばない。

 膝頭に頬を乗せたまま、顔だけ横に向ける。
 ちっとも起きない周泰に少し笑って、ふと、
(今なら、まだ起きないかな)
 辺りを窺う。誰がいる様子もなく、聞こえるのは小鳥の囀りだけだ。杏の花の香が、ここだけ別世界のように包んでいる。
(起きませんように)
 僅かにも揺らさないように、彼の背後の幹に手をつく。逆の手は膝の向こうに。覗き込んだ顔を近づける。息を詰めて、思い切った。
 触れるだけの接吻をして、素早く離れる。もう一度辺りを見るが、やはり誰もいない。
 周泰の目も、閉じたままだ。

 これ以上どうできるというのではない。
 けれど今ここは、他にいる人間もなく、杏の木々と鳥、二人だけの世界。
 今だけは―――。

 

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 

 肌寒さを感じて周泰が目を覚ますと、何故か足の上だけがやけに暖かかった。
 なにかと思えば
(陸遜……)
 開きっぱなしの書物の上に顔を押し付けるような有り様で、陸遜が寝ている。
 脇を見れば、日暮れの影の中に一抱えほどもある書が転がっている。
 なにがどうなってこうなったのかは分からないが、ここは日当たりも良く風も柔らかで、鼻につかない程度に杏の香も心地良い場所だった。他に一休みする場所に選ぶ者があってもおかしくはない。
 おそらく、最初は同じように幹に寄りかかっていたものが、倒れてきてしまったのだろう。
 人が傍に来たことにまるで気付かなかったのは不覚と思ったが、自分を起こすまいとして気を遣い気配を殺したなら、無理はない。
 それにしても、膝の上に倒れてこられれば目を覚ましそうなもの。よほど熟睡していたらしいと、周泰は少し自分に呆れた。

 ともあれ、そろそろ昼寝には寒くなる時間だ。
「陸遜」
 呼びかけて肩を軽く揺すると、睫毛が動いて、目蓋が持ち上がった。
「あっ」
 と言って陸遜が勢いよく体を起こす。その頭に顎を殴られかけて、周泰は慌てて背を起こした。
「すみませんっ!」
 陸遜は真っ赤になってその場に座りなおし、頭を下げた。
 その右頬には、竹の刻んだ痕がくっきりとついている。これには周泰も、笑わずにはいられなかった。

「え? なんですか? え、え?」
「いや、顔に痕が」
「えっ!? あ!」
 自分の手でその凹凸に触れた陸遜は、赤い顔を更に赤くして俯いた。
「見なかったことにしてくださいっ」
「そうも恥じなくてもいいと思うが」
「忘れてくださいっ」
 恥ずかしいと思う気持ちが、なにで倍加しているかなど、周泰が知るよしもない。

 陸遜はなんとか話題をかえてしまおうと、しかし顔は見られたくなく、腕で顔を抱え込むように俯いたまま、
「あの、それ、どうでしたか? けっこう辛辣な教訓なども含まれていると思うんですけど」
 人と話す態度ではないと思いつつも、顔を上げられない。
 吐息のような苦笑が聞こえて、ますます恥ずかしくなった。
「ああ。それに、これくらいならば俺にも普通に読める。面白いと思う」
「良かった」
 半日も書店に入り浸って厳選してきた甲斐があったというものだ。
「じゃあ、またなにか探してきてもいいですか?」
「手間ではないのか」
「いえ、そんなことは」

 言って、途端に閃いた。探すのは確かに手間だが、それよりむしろ……
「でもあの、もし周泰殿が良ければなんですが、孫子くらいなら私にも説明できますし、あの、えぇと、一緒に読みませんか?」
 教えてあげます、と言うのはいくらなんでも口幅ったい。言い方に困ってどこか妙な言いようになった。それでも言いたいことは伝わってくれたらしい。……気持ちはともかく。
「それこそ手間ではないのか?」
「そんなもの」
 貴方と一緒にいられるなら、と言いかけてなんとか思いとどまり、
「私のことはいいんです。ただ、私みたいな若輩者に、と思われるのでしたら」
「そんなことは思わんが、孫子など、俺に理解できるか」
「できます!」
 できるまで付きっきりででも、とはやはり言えない。

「兵法というのは、そう難しいことじゃないんです。使うとなると、これは先人の真似などしても意味がありませんし。ただ私には、孫子は戦の方策というより、よく人の心のありようを記しているように見えて、学べることが少なくないんです」
「……余計に難しそうだが」
「だ、駄目ですか?」
「駄目というより、俺に理解できるかどうか」
「できるようにしますっ」
 思わず意気込むと、周泰が笑った。

 笑った顔を前から見ているということは、陸遜自身は顔を上げているということである。
 気付いて頬に触れ、段差を感じてまた伏せる。自分で思っても滑稽な行動に、耳まで熱くなるのが分かった。当分顔は上げられそうにない。
「……分かった。よろしく頼む」
「は、はいっ」
「ところで、これはまだしばらく借りていていいか?」
「そ、それは、差し上げます」
「いや、私物にしてはまずかろう」
 言われて、自分で買ってきたことは言っていないと思い出す。
 しかし公共物を私物のように扱っていると思われるのも御免だ。

「それ……私のですから」
 かろうじて、そのために買ってきたことを言わなければいい、とだけ気付いて答えた。
「そうだったのか。だとすると、大事なものではないのか」
「え?」
「傷みがない。大事に扱っていたからだろう。それでは、こんなところで広げていたのは悪かったか」

 二人きりで話ができることなど、めったにない。
 どうすればそんな機会が持てるのか、賢い頭でも弾き出せなかった解答。
 それが偶然にせよ叶っているのに、はたして陸遜、いったいいつになったら顔を上げ、まともに話ができるのやら。
 軍略ならば即座に閃く頭を振り絞って、言い繕うすべを考えているのであった……。

    
(おしまい)