届け、この思い!

「ふう」
 窓辺に頬杖をついて、溜め息をつく男が一人。
 端正な横顔に落ちた憂いの陰に、遠目から彼を窺う侍女たちもまた溜め息をついている。
「きっと恋をしてらっしゃるのだわ」
「まあ、お相手はどなたかしら」
「きっと私たちとは天と地ほども違う令嬢よ」
「けれど、意外に身分の低い相手かもしれないわよ」
「こら、おまえたち。そんな思いつきだけでお喋りしていないで、仕事をおし」
「はぁい」
 いつの時代も、女三人寄ればかしましいものらしい。

 ともあれ、侍女たちの当て推量は満更外れてもいなかった。
 恋焦がれても叶うわけもない相手を思えば、自然と溜め息も零れるというもの。
 一目会ったその日から、恋の花咲くこともある。
 彼の胸には、ちらりと見かけただけのその人の姿が焼きついて、片時も薄れることがなくなっていたのである。
 ただし、その場所は戦場。
 相手は敵武将である。

 何故男を相手にとか、何故一度顔を合わせただけでとか、何度も何度も考えた。
 理屈で言えば、好きになるはずもない。
 だが、説明はできなくても、心の風見鶏は彼をさしたままなのである。
 起きていれば物思い、眠れば夢に見るほどで、最近では食も進まなくなってきた。
 心配した同僚たちがあれこれと言ってくるが、真実を話せるはずもない。
(話したところで笑われるだけだ。もし真剣に聞いてもらえたとしても、真剣に、諦めろと言われるだけに決まっている)
「はあ」
 溜め息はやまない。

 

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

 

 「遼来々」。
 そう聞くと、子供たちは怖がっておとなしくなるという。
 だが周泰は、もう一度その言葉を、本当の意味で聞けないものかと思いながら日々を送っていた。
 魏将・張文遠。
 思うほどに会いたくなる。
 いったいどこがいいのかと自問し、否定するために詳細に思い出してみるのだが、疾風のごとく駆けてきた騎馬姿と、鬼神のごとき奮闘を思い浮かべれば、わけもなく胸が苦しくなるのみ。なんの解決にもならない。
(やはり、道は一つか)
 戦場で敵として向かい合うこと。
 ただそれだけが、束の間の逢瀬。

 再び出撃の決まった日、敵陣にいるのが張遼だと聞いて、周泰はひそかに喜びを覚えた。
 将同士が真っ向からぶつかるということはめったにないが、その姿を見ることはできるかもしれない。
 告げたところで叶うはずもない、空回りの恋である。
 邪魔にならず迷惑にならず、ただ見ているだけが一番いいのだと、周泰は配下二千を率いて野に出て行った。

 歩兵同士がぶつかるそれぞれの後方に、整然と揃った騎馬隊がある。
 騎馬と騎馬がぶつかれば、張遼の隊に勝てる部隊はなかなかない。だが相手にしてもなにか策があるのか、一息に攻めてくるつもりはないようだ。
 陣の中ほどに、華やかな蒼と緋の鎧をまとった張遼の姿もあるが、彼にも動く様子はない。
 一つ妙なのは、報告にはなかった武将の姿がすぐ傍についていることだ。
 夏侯淵。
 彼は別の要地を任されているのではなかっただろうか。
 それが何故ここに、と思うと、真横に並んだ駒もあり、わけもなく気がささくれ立つ。

 やがてその夏侯淵の部隊が動き出した。
 弓部隊である。
 隊列を組んだまま一里ほど前に出てきた。
 驟雨と化して降り注ぐ矢を浴びて、呉の兵が後退する。しかし魏の兵も、矢を盾に退いた。
 気が付けば、魏の騎馬隊が全体的に前に出てきている。
 互いの将の号令はほぼ同時で、騎馬同士が動き出し、ぶつかった。
 相手の馬を止めるため、双方とも、後方から弓での応戦が始まる。

 呉には分が悪い。
 張遼の騎馬に、夏侯淵の弓。

「あっ」
 と傍の誰かが叫んだ時には、周泰の左肩に矢が一本、深々と突き立っていた。
 まさかここまで矢が届くはずもないと甘く見ていた。だがまぎれもなく、夏侯淵の放った一矢である。
 周泰はなんとか衝撃に耐えて馬上にとどまった。
 すると妙なことに、それと時を同じくして、魏の部隊が全て撤退を始めたのである。
「もしや、毒でも!?」
 狼狽した親衛隊が駒を寄せてくる。
 将を一人倒せば、軍の士気は確実に変化する。これ以上兵を失う前に、これを一つの勝利として魏軍が引き上げることはありうる。
 だが、引き抜いた矢に毒の塗られた様子はなかった。
 ついていたのは毒ではなく、羽の傍に、一通の結び文……。

『先日一目拝見せし時より、お慕い申し上げ候。叶わずとてせめてこの思い、一言なりともお伝えしたく、さりとて会うて話すことさえ侭ならじ。思い余って恥も忘れ、夏侯淵殿に嘆願いたし候。迷惑至極と思されなばご放念くだされ。―――張文遠』

 以来、戦場を飛び交う矢には、時折余計なものがついているようになったとか、ならないとか。

  
(おちまい)