ここはとても静かな場所です。 私たち夫婦は、少し前からここに住んでいます。 いつでも涼しい洞窟の奥地で、ゆったりとした空間には、巣作りに最適な台地もあります。 天井からは美しい氷柱が何本も垂れ下がり、少しあたたかい昼には、先端から落ちる水滴が地面の水溜りにはね、穏やかな音色を奏でます。
近頃、洞窟の外にはなにやら恐ろしい侵入者が現れるそうです。 たしかに時折、この洞窟全体を震わせるものすごい音がしたりもします。そんな時には一斉に水滴が落ち、それはいつものゆるやかで快い音色ではなく、私たちを不安にさせます。 いったいどんな存在なのでしょう。 ですが私も夫も、それを確かめに行く勇気はありません。 洞窟の出口近くを見張っている若竜(わかもの)も、さすがに顔を出して覗くことはできないようです。 ですが一竜(ひとり)、そっと外へ出てみた者が言うには、雪は何頭もの「のっそり」……毛むくじゃらでとても大きな、けれどとてもおとなしい、時に私たちの食料にもなる「のっそり」の血で染まり、「のっそり」の死体がごろごろと転がっていたそうです。 なんて恐ろしいことでしょう。 「のっそり」は大きく、私たちが狩りをする時には、何竜(なんにん)もで取り囲みます。それを瞬く間に何頭も倒してしまうなんて。
私は不安でたまりません。 私一竜のことならまだしも、私には、大事な卵があるのです。 もう少しあたたかくなれば生まれてくる、私とあの竜(ひと)の、大切な赤ちゃん。 待ち遠しく、愛しくて、私たちは近頃、食事もこの巣の傍でしています。 どんな子が生まれてくるのでしょう。男の子でしょうか。女の子でしょうか。やんちゃな子? それともおとなしい子? いいえ、なんでも構いません。ただ元気に生まれてきてさえくれれば。
外にいるなにか恐ろしいものは、「のっそり」を短い間に何頭も倒してしまうというのですから、きっととても大きいに違いありません。それならきっと、この洞窟には入ってこれないはずです。 入ってこないでください。どうかお願いですから。 私たちはなにもしません。貴方になにもしません。ですから貴方も、なにもしないでください。 おなかがすいているのならば私を食べてください。お願いですから、この子のことはそっとしておいてください。 どうか、どうか。 私が不安でたまらず巣の上にうずくまっていると、彼がやってきて、そっと私の首を撫でてくれました。
きっと大丈夫だよと語る彼の瞳に、不安がないわけではありません。 でも、信じましょう。 きっと大丈夫。 恐ろしいものはここには入ってこれないし、もし入ってくれば若竜たちが教えてくれるはずです。 別の出入り口には、「角つき」がいます。彼等は私たちが一竜でも狩れる弱い相手ですが、襲われれば悲鳴を上げます。もしなにかあれば、彼等の悲鳴が聞こえるはずです。この洞窟は音がよく響くので、よく耳を澄ましていれば、きっと聞こえるのです。
彼に励まされ、私は巣のある高台から下りました。 私たちも食事をしなければなりません。赤ちゃんが生まれれば、肉を食べられるようになるまでの間はお乳を上げないといけません。大きな獲物は若竜たちや彼が狩ってくれますが、洞窟の中を飛んでいる虫くらいならば、ちょっとした運動で捕まえられます。 じっとしていると体もなまりますし、私は彼と一緒に、虫を捕まえることにしました。 それでも私は心配で、この広間の入り口ばかりが気になります。 なにかがやってくるとすればここからですから……。
しかし、その時でした。 いきなりなにかが私たちの巣の傍に、卵の傍に落ちてきたのです。 びっくりして振り返ると、そこにはなにか、おかしなものがいました。 それは立ち上がり、なにか……、なにかよく分かりません。けれどなにか。なにかを前足らしいところにつけて。
逃げろ、と彼が言いました。 でも、赤ちゃんが。 そう思った途端、私には激しい怒りと、強い闘志が生まれました。 守らなければならない。 この命にかえても。 大事な赤ちゃん。 傷つけ奪うなら、絶対に許すものですか。
私も彼も、それに向かって跳躍しました。 ですが、普段の狩りで相手にする獲物より、それは素早く、奇妙な動きをし、そして前足の先の大きな爪、のようなもので私と彼を攻撃してくるのです。 とても、強い。 でも、諦めたら赤ちゃんが。
私は必死に戦いました。 彼も、普段のおとなしさなどかなぐり捨てて、必死に戦いました。 でもそれは、私たちより強く……。 彼がまず倒れました。 私は驚きと哀しみで胸が張り裂けそうでした。 そして、私一竜で卵を守れる気がしなくなって、怖くて恐ろしくて、どうしていいか混乱しました。 そんな私に背を向けて、「それ」は彼に近付きました。 そうして「爪」を振りかぶって彼の体に突き立てました。 私がまだいるのに、食事を優先するなんて。 ここぞとばかりに私は飛び掛りましたが、焦りと不安のあまり目測を誤ってしまい、「それ」を飛び越えてしまいました。「それ」は驚いたようですが、―――彼の皮を剥ぎ取ると、私に向き直りました。 食事は、私も倒した後にするつもりなのでしょう。
勝てる気はしませんでした。 でも、「それ」は私たちよりも「角つき」よりも小さい生き物です。彼と私を食べればおなかがいっぱいになって、卵のことは放っておいてくれるかもしれません。 それならそれでも……。 親のない子が無事に生きていけるかどうか、それはあまりにも危険ですが、生き長らえる可能性が少しでも残るなら。
そんなふうに気弱になったのもいけなかったのでしょう。 私も胸元に「爪」の一撃を食らい、気が遠くなりました。 「それ」は私に近付いてきました。 食べるなら、構いません。でもどうか、赤ちゃんはそっとしておいて。 私を食べて、彼を食べて、それで満足したら、どうかこの洞窟から出て行ってください。 どうか。
……でも「それ」は、私の体を掴んで少し揺すると、「爪」を使って鱗を殺ぎ落とし、それきり立ち上がってしまいました。 そして彼の傍に行くでもなく、向かった先は、なんてこと! 私たちの巣!! でも私はもう、首を上げることもできませんでした。
ああ……。 どうか見つかりませんように。 枯草や獲物の毛皮、小骨の下に深く埋めてあるのですから、きっと……。
でも、「それ」は巣を掻き回し、そこから私の卵を取り出しました。
返して。 私の赤ちゃん。 お願い、食べないで……。 おなかがすいているなら、私たちを食べればいい。だからどうか、その子はそっとしておいて。お願い。
でも「それ」は、私にも彼にも見向きもせず、卵を抱えると、唯一の出入り口だったはずの道へ消えていきました。 私は動くこともできず、流れ出ていく命、命の弱っていくのを感じながら、冷たい地面に横たわっていました。
ふと、彼のことを思いました。 もう命の気配もない彼。 私はせめてその傍まで行こうとしましたが、もう前足を動かすことも私にはできず……。 ポタン、ポタンと聞こえてくる水滴の音も、だんだんと遠くなり、私は―――――――……
(終) |