そのことは街頭ニュースで聞いた。 通りすがりだった。 なにげなく目に、耳に飛び込んでくる音と映像。 サラリアンの評議員を救ったドレルの男のことだ。 サーベラスが送り込んできた暗殺者と戦い深手を負ったその男は病院で死亡し、評議員は深い感謝と哀悼の意を表明したとのことだった。 (へえ) マウスにとってはその程度のことだった。 ただ一つ、他の大勢の者と違うとしたら、ドレルと聞くと思い浮かぶ特定の姿があることだ。 そして、 (まさかな) と思った。 だがすぐに思い直した。 銀河中で恐れられる一流のアサシン。"彼"がサーベラスの暗殺者ごときに遅れをとることなどない。 (でも) ドレルはケプラル症候群という厄介な病に悩まされている。もし、そうだとしたら。 すぐにマウスは、その不吉な考えを追い払った。
"彼"はマウスにとって、父を思わせる存在だった。 本物の父親は知らない。母親も知らない。気がつけば一人、薄汚い裏路地や熱風の篭もったダクトの中で、少し年上の子供たちにこき使われて生きていた。ダクトラット。通気口の中の子ネズミたち。まともな大人やまともな子供からは無視されるか、眉をひそめられるような存在。 "彼"だけが人間として扱ってくれた。 すべてに飢えていたあの頃、"彼"は来るたびにいくらかの食料をくれ、お菓子をくれ、時には頭を撫でてくれた。膝を折って視線を等しくし、目を見て話をし、聞いてくれた。 人間の目よりも黒く大きなドレルの目。その中に透けて見える瞳。映り込む、薄汚れた自分の姿。その目は時々どこか遠くを見て、話しかけてもなにも聞こえていないようなこともあったが、手を引けば我に返って、"彼"はいつも、ダクトラットたちとまっすぐに接してくれた。 マウスは特別"彼"になついた。自覚もある。他の子供たちはなにか警戒していたが、マウスは今となっては不思議なくらい、無邪気に"彼"を信じ込んだ。役に立てるのが嬉しくて、"彼"がほしがりそうな情報は一つ残らず覚えておこうと努力した。 "彼"は決して父親代わりには振る舞ってくれなかったが、それでもマウスにとって、人間として認められ、役に立ち、必要とされることの喜びを教えてくれた、かけがえのない相手だった。
だから。 (セインのわけないさ) マウスはそう思った。 一年程前にシタデルで会って以来、また姿を見ない。小耳に挟んだ噂では、連合軍のシェパード少佐とともに、コレクターと戦っていたらしい。シタデルを訪れたのはその最中のことで、―――"彼"、セイン=クリオスの息子のことを考えると、マウスはなにか硬いものを胸の奥に感じる。 決して心地よくはないその感覚を、マウスは大きく息をついて追い払った。
追い払った幻。 それが現実に目の前へ現れたのは、それから10日ほどたった日のことだった。 セインの息子だ。コルヤットという名の彼は、一年前、セインに渡したはずのホロを持ってシタデルに現れ、父と同じ仕事がないかと言ってきた。そしてセインは、息子に暗殺をやめさせるためにやって来た。マウスがセインに再会したのは、そのときだ。 本物の父親と、本物の息子。 マウスはコルヤットから向けられた視線、投げかけられた合図に気づかないふりをし、去ろうとした。 だが後ろから腕をとられた。大袈裟に驚いたふりをした。まったく気づかなかったというように。 「俺になにか用か? また仕事がほしいのか?」 マウスは苛立ち、妙に焦燥し、落ち着かなかった。 「そうじゃないなら、俺に用なんかないだろう。離せよ」 コルヤットの前からは一刻も早く立ち去りたかった。 そんな態度をコルヤットがどう思ったか。そんなことはマウスには興味がない。とにかく彼の前から消えたかった。 そしてたぶんコルヤットもまた、マウスの態度などどうでも良かった。 「そんなことはどうでもいい」 父親によく似た静かな声で彼は言い、 「父さんの写真がほしいんだ。持ってるんだろう? 君の仲間に聞いた」 と、付け加えた。
「写真?」 マウスは思い切り語尾を上げた。肩を竦め、いかにも馬鹿馬鹿しいと失笑する。 「なんでそんなものを俺が。それも、おまえに? 息子だろ? なに言ってんだか」 「マウス」 「馴れ馴れしく呼ぶな。じゃあな」 乱暴に腕を振って、掴んだままだった手を振りほどいた。 だがすぐに、掴み直された。 そして彼は言った。 「僕がほしいんじゃない。人にあげたいんだ。頼む。タダじゃ駄目だというなら、僕にできることならなんでもする。だから、お願いだ」 黒い大きな目が、まっすぐにマウスの目を見た。
数えきれないほどの嘘を見てきた。 侮蔑の上を覆う、偽りの笑いを向けられてきた。 だからその目がどうしようもなく切実なことが分かった。 だから、なんでもするという言葉に乗って無茶な難題を言うことができなかった。 「な……なんでだよ。なんで。だいたい、自分の父親だろ? 写真くらい持ってるだろ。それをくれてやれば」 「持ってない。ドレルはこの目で見たことなら、全部そのまま思い出せる。だから、写真なんて持ってない」 「で……だ……、だから、なんでだよ。なんで写真なんか」 「あげたいんだ。言っただろ」 「誰に」 詰問する。コルヤットは、種族の違うマウスにも分かるほど、なにか苦いような、悲しいような顔になった。 そして答えた。 「父さんの、……大切な人に」 と。
「僕はいつでも記憶の中に見ることができるけど、人間はそうじゃない。だから写真が大切なんだろう? だから、きっと欲しいんじゃないかって。それに、父さんのこと、忘れてほしくないから……。だから、あげたいんだ。持っててもらいたいんだ。父さんの写真……」 黒い曲面の鏡に映った自分の姿が、僅かに揺れていた。 「頼むよ。持ってるなら、コピーさせてくれ。頼む」 コルヤットはマウスの腕から手を離し、まっすぐにマウスを見、少しだけ頭を下げた。
淡い緑色の肌をした、異星の男の横に並んで、拳を突き上げた幼い自分。彼が少し困惑したような顔でいるのは、無理もない。ドレルには写真を撮るという習慣がないからなおのこと、どんな顔をしていればいいのか分からなかったのだろう。 そしてもう一枚。 盗んだカメラでこっそり写した。裏路地の、打ち捨てられたブロックに腰掛けて、膝の上に肘をつき、軽く手を組み合わせた姿。もちろんすぐに気づかれてしまったが、彼はやはり困った顔をして、その写真は絶対に人に見せないようにと念押しした。あのときは無邪気にただ約束したが、大人になった今だから分かる。身の安全を考えるならば、自分の痕跡になるものは一切処分したかったに違いない。だが彼は、その危険を背負っても、マウスの思いをそのまま許してくれた。 懐かしい、大切な思い出だ。
だが少しだけ迷って、マウスは端末のデリートボタンを押した。 ノイズの中へ、幼い自分の姿と共に、優しい異星の男の姿も消えていく。 もう一枚、それもきれいに消し去って、マウスは彼に別れを告げた。 (さよなら、セイン)
これが真実だった。 セインがもう生きていないということを聞かされたとき、マウスはようやくそのこと、自分の真実に気付いた。 驚き、束の間呆然としたが、ただそれだけだったのだ。 残念には思ったが、目の前にいるドレルの青年のような痛みや悲しみは、どこからも出て来なかった。 幼い頃に憧れ、頼りにしたドレルの男。 その思い出は一生忘れたりはしないだろうが、いつまでもしがみついているものではない。
大切な写真は、より大切な者の手に渡った。 自分には思い出があればいいと、マウスはビルの合間の狭い空を見上げる。きっとセインもそれを望むだろう。 (だって、ヘビーすぎるもんな) 「さ、仕事仕事!」 軽く勢いをつけて壁から背を離し、マウスは足早に街へと出ていった。
The End |