(なんてぇ体だよ) なんとなく熱っぽい体を持て余して、伊達は心の中で吐き捨てた。 数日に一度とは言え、ちゃんと眠るようになってから体調を崩すとは、思ってもみなかった。 普通の人間にとって「異常」なことが、自分にとっては「日常」であり「正常」な状態である、という事実を突きつけられたようで、気分も悪い。 そもそも「体調を崩した」ことなど記憶にない伊達は、どうするべきかと考えながら、鬼ヒゲの蛮声を聞き流していた。 平常でさえ耳障りなだみ声は、頭痛に変貌して頭の中を引っ掻き回す。 (駄目だ) わざわざ面倒を起こす気はない、と、これまでは授業の半ばに退室することだけはなかったのだが、我慢するにも限度がある。 伊達は一言もなく椅子を立ち、断りもなく教室を出た。 「お、おい、伊達!」 鬼ヒゲがドアから首を出し、怒声を響かせる。が、伊達が振り返ったと同時に、 「なんでもない」 と引っ込んでしまった。 少し休めばいいはずだ、と伊達なりに解決策を考えて、休めそうな場所へ向かう。 いくら無人でも、汗臭い上に近所の雑音が絶えない寮は、選択肢に入っていない。 校舎裏の桜並木、あそこも気に入っている場所の一つだが、寒気を感じている状態で、雪のちらつく真冬に戸外にはいたくない。 (あそこしか、ねえか) 最初から「そこ」を選べば良いものを、なんとなく消去法でなければ選べない伊達だった。 三号生には、午前中以外、決まったカリキュラムはないという。 午後は各自、自らのためになると思うことに時を費やすのだ。 「羅刹は真面目にトレーニング、卍丸は遊びに出かける時もあるな。影慶は、……今は、筆頭代理の仕事が、あるからな」 そして、そう教えてくれた当の本人センクウは、日が落ちるまで草花の世話。 つまり、何か特に用事があるのでないかぎり、彼はいつも、午後には温室にいた。 伊達がふらふらと温室に辿り着いた時も、やはりセンクウは中にいて、小さな白い花をつける蔓薔薇の世話をしていた。 「伊達……か?」 まだお互いに姿の見えないうちに、気配で訪問者のことは分かる。 だが、センクウの声には疑問が含まれていた。 どうやら気配にすら乱れが表れているらしい。 「少し、寝かせてくれ」 寝かせてくれも何も、伊達がそれ以外の目的で温室を訪れたことなど一度もない。 にも関わらずわざわざ断ったのは、こんな時にかぎって、ちょうどいいと何か手伝わされてはたまらなかったからだ。 「どうした。顔色が悪いな」 「ああ。……だるい」 「風邪か?」 「分からん」 どういう状態を「風邪」というのか、伊達には事実、分からない。縁のなかったものであるし、第一、風邪ほど曖昧な病気もあるまい。 センクウが「手伝え」などと言い出すはずもなく、伊達は洗いたてらしい、洗剤の匂いのするシーツにくるまって目を閉じた。 光が閉ざされて、頭の芯を苛む痛みがかすかにやわらぐ。 伊達、とセンクウの声が聞こえたような気がしたが、答えるより早く、意識は泥のような眠りの中へと引きずり込まれていった。 目が覚めても、まだ少し頭の中が霞がかっているような感じがした。 蛍光灯の無機的な光が目に痛く、頭に刺さる。 感覚さえ狂ったのか、今が何時かも分からない。 薄目に外を見やると、いつの間に雪がやんだのか、夕焼けの色が鮮やかに西の空を染めていた。 どうやら、三時間ばかりは眠っていたらしい。 「起きたか」 砂利を踏む足音が近づいてくる。 ふと、甘ったるい酒の匂いがした。 「薬代わりだ。少しでもいいから、飲んでおけ」 差し出されたのは、温かい紅茶。 そこからふわりと酒が香る。ブランデー入りらしい。 どうやら砂糖まで入れてあるようだが、甘いと思いながらも、伊達はほとんど一息に飲んでしまった。 体が糖分を欲しているせいだろう。苦手も何もなくなっている。 「俺はもう戻るが、好きなだけいればいい。良ければ、食うものでも持ってこようか」 言われて、伊達は自分の体に聞いてみる。 「……食えそうにねえな」 そして、答えた。 「そうか。必要なら、エアコンをつけていくが?」 「いい。この中は寒くねえ。毛布も、あるしな」 「それならいいが……。まあ、ゆっくり休めよ」 それだけ言い置いて、センクウは出て行った。 ドアの閉まる音がする。 伊達はもう一度目を閉じた。 最初の10分。 次の10分。 それから、さらに10分ばかり。 伊達は、妙な苛立ちを覚え始めていた。 どうしたことか、眠ろうとして目を閉じても、眠いにも関わらず眠れないのである。 何かが、ほんの僅かだが何かが気に障って、ある一定のラインより下に、沈むことができない。 (くそったれ) 腹の中で呟いて、ごろりと向きを変える。 そんなことを、何度繰り返しただろうか。 嫌気がさしてきて、伊達は勢いよく起き上がった。 途端にひどい眩暈を感じて、手の中に顔を埋める。 「なんだってんだ、こりゃあよ」 ゆっくりと、世界が揺れている。 渦を巻き、波打っている。 一日寝ていればなんとかなるはずだ、とまた横になるが、やはり眠れない。 そうこうしているうちに、日は完全に暮れ、西の山際を染めていた太陽の名残も、完全に見えなくなった。 夜闇の中、明るい光に満たされた温室のガラスは、内側にあるものを鏡のように映し出している。 この明るさのせいか、と伊達は明かりを消しにいった。 せいぜい鉢や棚を引っくり返さないように気をつけて行き、何事もなく戻ってくると、あらためて眠りに挑む。 が、結果は惨敗だった。 物言わぬ植物の、感情のない視線に囲まれているような錯覚を覚えて、ますます眠れなくなる。 やはり、夜の温室というのは異界だ。 植物のためだけに作られた空間は、動物の存在を疎んじている節がある。 (……くだらねえ。そんなわけがあるか) 馬鹿げた妄想だ、と伊達は全てを無視しようと努めた。 それから、どれくらいたったのだろうか。 ささくれだった神経に、何者かの気配が感じられた。 表から、近づいてくる。 それが誰のものかも分からないほど、今の伊達には余裕がなかった。 ドアが開き、「彼」が入ってきて姿を見せるまで、本当に分からなかったのである。 だから、現れた「彼」がセンクウであると知った時には、驚くと同時に、自分に呆れた。 よく馴染んだ気配すら、感じ分けられなくなっているらしい。 「忘れ物か?」 「いや。これをな」 そう言って、センクウは皿に乗せ、ラップをかけたおにぎりを差し出した。 「すぐには食えんでも、あとで腹が減るかと思ってな」 ここに置いておくぞ、とセンクウは、寝具の入ったダンボールの上に皿を置く。 「……やけに、でかいのが混じってるな」 おにぎりがやや大ぶりなのは分かる。おそらくはセンクウが自分で握ったのだろうから、手のサイズに相応しい大きさになる。 だが、それより更にニ回りは巨大で、かついびつなものが二個、中に混じっていた。 「ああ」 とセンクウが苦笑する。 「卍丸がな。手伝ってやるというから」 「……あんた、何も言ってないだろうな?」 まさか、自分が「風邪」らしきものでダウンしているなどと、他の者に知られたくはない。 「心配するな。猫にやると言ってある」 「ね、猫だぁ?」 「大差ないだろう。気まぐれにやってくるし、ヒゲもある」 悪戯げに笑って、センクウが伊達の頬の傷跡に触れた。 「けっ」 くだらねえ、と吐き捨てて、ごろりと横になった。 (あ……) ふっと意識の表面を覆う、靄のような感覚。 「眠り」だ。 今なら眠れそうだ。 タイミングの問題らしい。 そう伊達は納得して、目を閉じた。 「目が覚めたらでいいから、一つだけでも、腹に入れるんだぞ」 囁くような小声で言って、センクウが遠ざかった。 薄くなっていく気配と、同じ速度で深まっていく眠り。 だが、意識が落ちようとして気配を完全に見失った瞬間、逆に目が覚めた。 いや、覚めた、というのは正確ではない。 微睡みの底辺から覚醒の頂点まで、「意識が跳ね起きた」というべきだ。 そして、伊達は理解した。 問題は、タイミングではない、と。 「センクウ!」 温室のドアから半身を出し、ほとんど見えなくなりかけていた後ろ姿を呼ぶ。 センクウが立ち止まり、振り返る。 どうした、と態度で聞いているが、 (俺に大声でわめけってぇのか) 冗談じゃない、と伊達は自分が近づくほうを選んだ。 「どうした」 普通に喋って声の聞こえる範囲に近づくと、問われる。 問われて、口篭もった。 (どう、言えってんだ) 「伊達?」 ここまで来ておいて「なんでもない」とも言えず、言いたいことを言うにも言えず、伊達は自分の、らしくもなく感情的な行動を後悔した。 「……よく分からんが、冷えるとよくないぞ?」 センクウが、戻ったほうがいい、と視線で示す。 なんとかうまい具合に、望む結果だけを手に入れられないだろうか。 熱で鈍くなった思考能力で、解答を探す。 頭痛がするほど考えた挙げ句、見つけたのは、正直な理由を話す、というあまりにも不本意なもの。 だが、妙な勘違いをされるよりは、はるかにマシだ。 「暇なら、ここにいてくれ」 まずは、それだけ言う。 「この温室に、か?」 「それ以外に何がある」 「傍にいてくれ」ともとれる台詞。これでは吐き気がするほど甘ったるい。そんな馬鹿げた誤解は、冗談でも御免こうむりたい伊達は、すぐさま次の言葉へとつないだ。 「見張り、でな」 人の気配というものが全くなくとも、やはり全神経が警戒してしまう。 それでいて、雑多な気配は癇に障る。 妙なことだが、センクウの気配というのは、「放たれる」ものではなく「在る」だけのもので、それは、あえて言うならば植物的で、傍にいられても全く気にならないのだ。 それでいて、腕が立つ。 いくらこの温室が「平和」な空気に満たされていても、見張る者がなくては眠れない。 血まみれの業を、わざわざ口に出して確かめたくはなかったが、伊達にとってみれば、おかしな誤解をされるよりは、百倍もマシだった。 センクウは一つ頷き、 「分かった」 とだけ答える。 曖昧な表情で。 苦笑、憐憫、困惑、悲哀、何か言いたげな、諦めたような。どうともとれる、あるいはそれら全てが混じりあったような。 「だが、少し待っていてくれ。一度は戻らんと、羅刹がうるさくてな」 「ああ」 「他に何か欲しいものはあるか? 薬は?」 「さあな。毒と変わりねえとすれば、市販のヤツじゃほとんど効かねえだろうな」 「面倒な体質だな。分かった。とにかく、おまえは中に入っていろ」 伊達の向きを換えさせて軽く背を押し、センクウは足早に引き返していった。 温室の中に戻り、やはり眠れないまま横になりながら、伊達はふと、今の自分について思う。 平和と安寧を知ることはできたが、それに馴染めない自分について。 そして、少しずつ馴染もうとしている自分について。 だが朦朧とした頭では考えなどまとまらず、今はただ、眠らせてくれる男が戻ってくることが待ち遠しかった。 そして。 微かに彼の気配を感じたと同時に、伊達は深い、喪失めいた眠りの底へと、沈んでいった。 (了) |