「常識というものについて、いくらか話して聞かせたいかと思います。伊達に必要なのは『数学』や『英語』ではなく、それらのほうのようですので」 と、言ったという。 で、納得したという。 桃からその話を聞いて、伊達は「やられた」と思った。 本当に言いやがった、と。 カスミソウにまつわる一件の翌日、また温室に入り込んだ伊達に、どうせならこれから毎日、午後二時から五時までは必ず来ないか、とセンクウが言い出した。 本当に花とその名前について講義してくれるらしい。 花の名なんて、と思う一方、どうせ半分は寝ていることになるだろうし、何より、自分の一言にひどく傷ついたような顔は、できるなら見たくない。 雷電もそうだったが、センクウもまた、同情など遥かに超えて傷ついたようなのだ。 伊達が人の優しさというものに気付きはじめたのは、困りきった顔で、痛みを堪えるような顔をして、桜の名を教えてくれた雷電に触れてからだった。 そんな、掛け値なしの、疑うことすらできないほど大きな思いやりを向けてくれる相手を、自分のことごときで傷つけたくはない。悪意ある言葉でならばまだしも、何気ない一言で、あんなにも。 無論、自分が特異であることを、思い知らされたくもない。 俺らしくないとは思ったが、花の講義を受けることに抵抗はなかった。 そんなわけで承諾したのだが、一抹の不安があったのが、そこだ。 毎日抜け出させるとなると、問題がある。 それに、影慶は黙認してしまっているが、相変わらず伊達は不法侵入しているのである。 毎日訪れるとなればさすがに発見される確率も出てくるし、この温室通いが気に入った伊達としては、今更になって一悶着起こるのは不本意だった。 まさか、と思っていたことを、本当にセンクウは鬼ヒゲに告げたのだ。 確かに「花の名前」という常識的なことを教えるには違いないから、嘘はついていない。 しかしその言い様では、問題がある……はずなのに。 それに鬼ヒゲはすぐさま納得し、即刻許可を与えたというから、伊達としては頭を抱えるしかない。 分かってはいるが、よりにもよってそんな。 (俺はそんなに非常識かよ) 面白そうに話してくれた桃の、本当に面白がっている顔を睨んでやりながら、伊達は半ば机に伏せるようにしていた。 約束通り伊達がやってくる。 センクウの思っていたとおりの顔をして。 伊達にさんざん苦い思いをさせられている鬼ヒゲが、自分の言葉を誰かに洩らすだろうことは分かっていた。 そして、それが伊達の耳に入るだろうことも。 「まあ、いいけどよ」 現れた第一声目がそれで、センクウは笑わずにはいられなかった。 怒ったふりの、不機嫌なふりの、情けなさそうな顔。 そういう表情が、何故かよく似合う。 似合うのだ。 不敵な笑みも、艶やかなほどに挑戦的な眼差しも、皮肉めいた薄い微笑も、引き締まって冷酷ささえ漂わせた顔も、どれも伊達らしくよく似合うが、だから反動のように、こういった顔も似合う。 「とりあえず、先に寝る」 講義初日から寝っぱなしというのは問題があると思うのか、伊達はわざわざそう言って、センクウには背を向けて横になった。 自分がどんな顔をしているか、自覚はあるのだろう。 隠そうとするところがまた (可愛い) とセンクウは思う。 そして、すっかり眠り込んでしまった伊達の顔を、覗き込む。 一月の半ば。 日付も覚えている。 十二日のことだ。 初めて温室に現れた伊達は、たしかに眠っていた。 一人で、いくらか固い寝顔だったように覚えている。 それから二月の初旬。 風邪をひいたらしい伊達は、見張る者がいないと眠れないと言った。 だから、ついていてやった。 そうして今。 覗いても起きないくらいに、しっかりと眠っている。 (俺の、勘違いではないよな?) 目を閉じた険のない顔、規則正しい寝息を立てる伊達に、心の中で問う。 そして、喜びと幸せを噛みしめる。 自分の傍で、本当に安心して、まるで無防備なくらい安らかに、眠っているのだと。 夢を見ていた。 幸福な夢。 温かい乳白色の音色に包まれた、若草色の草原に佇む夢だ。 そんな夢を見るのは、伊達には初めてのことだった。 いつも夢は黒いか、赤かった。 黒くて赤かった。 重苦しい空気は鉛のようにのしかかってくるか、それとも、真空に近いほど稀薄で、ただ果てしない空漠と静寂が広がるかのどちらかだった。 こんな温かい夢は見たことがなかったが、夢の中の伊達はそんなことには気付かず、心地好い風に身を預けていた。 そこはブルーペリドットの海が見える丘の上だった。 かつてこんな光景を見たことなどないのに、何故夢としてでも、見ることができたのか。 それは分からないが、夢の丘を歩む伊達は微かな疑問も抱かずに、海に臨む丘の頂きに来た。 太陽の姿は見えないのに、海は柔らかく輝いていた。 深く、しかし淡い青。 光の中で無色透明に透き通る海。 水平線に溶ける空は、ほんのりと緑がかった、淡く薄い水色。 伊達は知らないが、それはセレスティアル・ブルーと呼ばれる、神います至高の天空の色だった。 たった一人、他に誰もいなかったが、孤独ではなかった。 四肢を洗う風に目を閉じ、何処にあるか定かならぬ日差しへと、顔を上げる。 首筋を吹き抜けていく風が、ふと……柔らかな何かを襟に寄越した。 手をやれば、触れるのは小さな羽毛。 光の加減で微かに蜜色に輝く、純白の羽根だった。 ああ、と伊達は笑った。 いるんだ、と。 そして、来るんだ、と。 いつの間にか、腕に触れる温かい体温。 腕の中に抱いた、大きな鳥。 優しい緑色の瞳をして、柔らかな羽毛に包まれた長く優美な首を、めぐらせて伊達を見る。 さらりとした草の上に座り、いつしか抱いていた美しい鳥。 たった一度、何かをねだるように、それとも問い掛けるように、不思議な声で鳴いた。 その鳥の、名など伊達が知るはずもないが。 伊達が小さく笑ったような気がして、驚いた。 驚いて、我に返った。 ふと柱にかけた時計を見やれば、一時間近くが過ぎていた。 センクウは自分に呆れてみる。 あまり楽とは言えない姿勢のまま、延々と一時間に渡って人の寝顔など眺めていることになるとは、思ったこともなかった。 体を起こせば、さすがに肩が痛い。 けれど、こんなものを見たことのある者が、この世にどれほどいるのだろう。 それを思うと、もうしばらく、見ていたくなる。 起こさないようそっと逆側に回った。 寝顔が本当に幸せそうだ。 きっといい夢を見ているのだろう。 悪夢に悩まされ、眠ることができないと語った男が、今こうして、静かに眠っている。 良かった、と思う。 そのために自分がいくらか役立っていることも嬉しいが、伊達がそんなふうに安らかでいられることが、嬉しい。 もう二度と、怖い夢など見なければいい。 もう二度と、つらい思いなどしなければいい。 きっと人の倍も三倍も、嫌なものに耐えて耐えて、生きてきたのだろうから。 何処にいるともつかない神だが、本当にそんなものがいるのなら、お願いだからもう二度と、彼に重荷を与えないでほしい。 「伊達……」 名が口をつき、無意識にのばした手で、伊達の額にかかる前髪を梳き上げる。 夢の中でも、くすぐったかったのだろうか。 伊達がまた少し、笑ったようだった。 (……だが……) 夢はいつか覚めるものだ。 けれど、その夢を糧に歩むこともできるだろう。 眠りの内に見た夢に、その日一日をなんとなく幸せに過ごせることがあるように、未来に描いた夢に、叶わずとも心強く生きていけるように。 夢は夢、やがて覚める。 けれど夢が覚めても、消えないものがある。 それは記憶と、現実にある、人の思い。 (おまえの傍には、たくさんあるものな) 伊達を思い、心から案じる、幾人もの仲間たちの、溢れるほどの思い。 温室に咲く花はありふれたもので、伊達が本来備えた記憶力をもってすれば、名前だけならば一日とかからずに覚えることが可能だった。 しかし世界には、花も草も木も、こんな小さな箱庭には到底おさめきれないほどある。 が、図鑑や事典を用いて教えるのは趣味ではない、と、センクウは温室の中にあるものだけを、丁寧に解説していった。 通称、学名、分類、分布、季節、場所、その花にまつわる言い伝えや神話、伝説、花言葉、などなど。 伊達が退屈するかと案じていたセンクウだったが、意外に伊達は面白そうにそれを聞き、あれこれと質問をぶつけてくる。 名こそ知らずとも、見た花の形状を覚えるくらいは造作ない伊達だ。何処そこで似たようなのを見たがあれも仲間なのか、とか、時には解説として付した話の中に疑問や興味を抱く。そして話は天文学や地質学にまで及んでいく。 学ぶとなれば恐ろしく貪欲で、優秀な生徒だった。 もっとも、それらほとんど全てに答えられる教師も教師だが。 「あんた、よくそんなにいろいろと知ってるな」 と伊達が呆れたくらいだ。 センクウはそれに、少しぎこちない笑みを返した。 伊達ほど聡ければそれに気付くことは容易だし、センクウもまたすぐに、伊達が訝っていることには気付く。 言いたいこと、言わなければならないことが一つだけある。 今の伊達の言葉でそれを思い出したのだ。 だが、それはまだ言いたくないことでもある。 伝えるには、思い切りがつかないのだ。 センクウがすぐには答えないことで、伊達はさっと諦める。 気にはなるが、詮索されることが嫌いな男は、他人のことも詮索しない。 「おかげであっちこっちで恥かかずに済むけどな」 そう言って、元の話に戻る。 時はゆっくりと、しかし着実に、過ぎていく……。 五時の約束だったが、どうせその時間には正規の授業も終わっている。 伊達が温室を出たのは、七時過ぎだった。 最初の二時間ほどは眠っていたとしても、実に三時間、延々と真面目に講義を受けていたことになる。 「これで少しは俺も常識的になれるわけだな?」 宿舎に戻るため共に出てきたセンクウと別れる間際、伊達はそう言ってやった。 センクウは苦笑する。 そして、仕返しに出るのだ。 「伊達。もうそっちから帰らなくてもいいんだぞ?」 そう。 教官の許可をとり、影慶を中心に死天王や幹部連にも話を通したのだから、堂々と表から出入りすればいいのである。 言うまでもないが、伊達が来たのはいつもの抜け道からだ。 癖でそちらの方向に歩き出していた伊達は、そこから回れ右するのが嫌だったのか、 「うるせえ。どっちからでもいいだろうが」 そう言って少し足を速めた。 「素直じゃないな」 「うるせえって! いいからあんたは明日の講義のこと考えとけよ! 聞いて『分からん』なんて言いやがったら承知しねえからな!」 怒鳴ることか、と思って笑うセンクウから、それこそ伊達は逃げるようにして去っていったのだった。 (了) |