夜の庭 S

 一日の汗と埃を洗い流し、そろそろ休もうとしたところで、センクウは不意に、やろうと思って忘れていた一つのことを、思い出した。
 もう真夜中近い。
 エアコンなどという気の利いた……軟弱なもののない部屋は、外気とほとんど変わりないほどに冷えている。
 何も今すぐにせねばならないことではないが、躊躇わず寝台から抜け出し、押入れを開けた。
 予備の枕が一つ、使われないままそこで眠り続けている。
 それを取り出すと、壁からとったコートに袖を通した。
 あまり厳しいものではないとはいえ、消灯時刻を過ぎてからの外出は禁じられている。
 センクウは、人に見咎められないよう、そっと宿舎を抜け出した。

 一号生や二号生の寮と異なり、三号生の寝起きする宿舎は、塾の敷地内にある。
 そこから彼の温室までは、そう遠くない。
 一昨日の昼、余っているシーツや毛布を一まとめにし、温室の休憩場所へと運び込んだ。だがその時、枕だけは入れ忘れていた。
 そのことに今日の昼気付き、あとで持ってこなければ、と思いながら忘れていたのだ。
 あの場所でならば何故か眠ることができるという、変わった後輩。
 他の場所では眠れないのなら、できるだけ寝心地のいいように、整えてやりたいと思った。
 ここ数日、訪れた様子はないが、またいつかくるかもしれないのなら、その時のために。
 ともすると、明日あたりふらりとやってきそうな気がしたからでもある。
 通いなれた順路で温室につき、薄暗い建物の中に踏み込む。
 月明かりに浮かび上がる植物の姿は、どことない凄みを感じさせる。
「邪魔して悪いな」
 なんとなく、センクウはそう「彼等」に声をかけてから、明かりをつけた。

 一昨日、一通りのものを詰めて運んだダンボール箱に、枕を追加する。上部の蓋には「好きに使え」とメモを貼ってある。
 これを見たら伊達がなんというか。
 想像して、少し笑った。
(ああ、そうだ)
 重ねる順番を、考えたほうがいいかもしれない。
 この季節、いくら温室の中が外よりは温かいとは言え、じっと横になっていては少しずつ体も冷えてくるだろう。
 とすると、下にシーツを敷いて上に毛布をかけることになる。
 適当に突っ込んだだけの寝具一式を取り出して、毛布、枕、シーツの順に入れていく。上から順に取り出していくだけで、ちゃんと整うように。
 そこまでやった後で、伊達がもう二度と来ないかもしれないことを思って、苦笑した。
 とその時、温室のドアが小さく鳴いて、誰かが入ってくる気配がした。
 一瞬、自分の外出に気付いた誰かが後を追ってきたのかと思ったが、違う。
 気を澄まして気配の主を窺い、驚いた。
「伊達か? どうした?」
 まさかこんな夜更けにやってくるとは。
 だが、だとすると、今夜中に枕を持ってきたのは正解だったのかもしれない。
 眠れない男が、眠れる場所のことを思い出して、寝にきたのかもしれないから。
「あんたこそ、こんな夜中にどうしたんだ」
 返ってきた声は間違いなく伊達のものだ。
「ああ、少し、な」
 いちいち言うほどのことでもあるまいと、曖昧な返事を返す。
 それから間もなく、伊達の姿が見えた。
 黒いジーンズにシャツ、その上に厚手のジャケットを羽織っている。
 視線は、ダンボール箱に向いていた。
「これか?」
 センクウは箱に手をかけた。
 途端、伊達は妙な顔をして、黙ってしまう。
「伊達?」
 どうかしたのかと思って問うが、
「いや。なんでもねえ」
 伊達は緩く首を振った。
 しかし、それからもまた少し、何かを考えるような顔で沈黙する。考えるような、と言っても考え込んだ顔ではなくて、漠然と何かを思っているような様子だ。
 ともすると、眠くて思考能力が落ちかかっているのかもしれない。
「……なんでもないわりに、ぼんやりしているな。眠いのか?」
 そう尋ねながら、センクウは、箱の中から枕を引っ張り出して、伊達へと放った。

 何にそんなに驚いたのか、滅多なことでは動じないはずの伊達が、枕を受け止めて呆気にとられる。
 てっきり、いつもどおりににやりと笑って、「気がきくじゃねえか」とでも言い出すと思っていたセンクウは、予想外の反応に戸惑った。
「どうした?」
「こんなもの、いつの間に」
「この箱は一昨日だが、それは今だ」
 伊達はまた、黙り込んでしまう。
(いったいどうしたんだ?)
 調子が狂う。
 伊達という男は、あまり無駄にあれこれ喋るほうではないが、無口でもない。
 くだらない内容であれこれと時を過ごすことはないにせよ、言葉の駆け引きを楽しむようなやり取りは、これまでにも耳にしたことがある。
 弁も立てば頭も切れる。少なくとも、「自分の言葉を失う」というタイプではないはずだ。
 言い返す言葉など、考えずとも思いつく男だとばかり思っていた。
 だが、今日の伊達はどこかおかしい。
「伊達。寝ぼけているわけではなかろうな?」
「そうじゃ、ねえが」
 戸惑ったような、小声が返ってくる。
 腕の中の枕を見下ろしたまま、困惑、というよりは、混乱しているようにも見える。
「伊達?」
 何かあったのだろうか。
 心配になってきたセンクウは、芝の上から降りると、伊達の前にまで近づいた。
「本当に、どうかしたのか?」
 困ったような伊達の顔を覗き込んだ。

 それでも伊達は枕とセンクウとを見ながら、何事かに気をとられている様子だ。
「いったいどうした? 夜中にこんなところで」
 そもそもこんな時間に、わざわざ寮を抜け出して、こんなところまで来ていること自体、普通ではない。
 そのことと、今の伊達の様子と、何か関係でもあるのだろうか。
 普段表には出さずとも、いろいろと抱えているもののある男だ。
 問うが、伊達は急に憮然となって、
「散歩してただけだ」
 と呟いた。
「寝ようと思ってきたわけではないのか?」
 重ねて問うと、また沈黙。
(まったく……)
 これではどうしようもない。
 相手の心中を推し量ることはできるが、伊達の表情は曖昧で、ましてや心を隠すことには長けた男だ。
 適当に推量したのでは、見当違いになりかねない。
 あれこれ考えだけ先走らせてもいいことはない、と、センクウはそれ以上追及するのはやめた。
「まあ、いい。だが、もしまた昼寝にでもくるなら、それを使え。本よりはいいだろう」
 センクウが言うと、伊達はようやく顔を上げた。

 何か、問いたげな眼差し。
「なんでこんなもんを、こんな夜中に」
 ほとんど独り言のように、伊達が呟いた。
「あったほうがいいだろう?」
 センクウが答える。
「だったら、明日でも明後日でも、あんたはまた面倒見にくるだろうが」
 何故か、伊達は怒ったような様子である。
 自分の勝手にしたことだから感謝してほしいとは思わないが、腹を立てられても困る。
 かといって、「おまえのために持ってきたんだぞ」などと恩着せがましいことは口が裂けても言いたくはない。
「おまえが使うだろう?」
 現に、今こうしてここにいる。もしこのまま寝ていく気になったなら、あれば使うもののはずだ。枕があっては眠れない、というのでなければ。
 この男が何を考えているのか分かれば楽なんだが、と目を覗き込む。
 むろん、人の心など、見えるものではない。
 うっすらと読み取れるのは、困惑。
 そしてふと、また伊達の反応が途絶えていることに気付く。
「伊達? またぼんやりか。今日はどうかしてるな」
「いや。それより、俺が使うって」
「本より、いいだろう?」
「そりゃあそうだが、こんな夜中に持ってこなくてもいいだろう」
 また同じことを問われて、センクウは溜め息をついた。
(なるほどな)
 伊達はそれが得心いかなかったのだ。
 もののついでとして、ならばともかく、そのためだけにセンクウが出てきたとは、思えないでいるらしい。
 たしかに物好きな行動だとは思うが、普通ならば、ひょっとして、とくらいにはすぐ思い当たる程度のことだ。
 なんとない痛みを覚える。
 人に思われることに慣れていない、目の前の男に。
 考えすぎだろうとは思っても、それが伊達の根本に流れる、自虐のような気がしてならない。
 自分が人に思われることなどない、と決めてかかっているようで。
「だから」
 物分りの悪い男に、分かるように言ってやる。
「おまえが次はいつくるか、分からんだろう? 明日、俺より早く来ているかもしれん。だから、思いついた時に持ってきた。そういうことだ」

 伊達が目を見開く。
「あんた、まさかわざわざ俺のために……?」
(そんなに驚かなくてもいいだろうに)
 何故か、哀しい……。

「あんなもの、真に受けるんじゃ……」
「そういうわけではないがな。あれば、使うんだろう?」
「それで、こんなクソ寒い夜中に、わざわざ出てきたってのか」
「『こんなクソ寒い夜中』に、散歩しているおまえほど酔狂でもないと思うが?」
 伊達が戸惑うのが分かる。
 案の定、孤独の寒さに慣れた獣は、人の温かさに馴染めないのだ。
 「いつもの伊達らしく」反応することもできるだろうに、それができずに困惑する様が、ほんの少し、この男の胸の底を覗けたような気がして、嬉しい。
「そんなに困った顔をするな。とにかく、毛布と、替えのシーツと、枕と、それから適当な暇潰しの道具と。全部この中に入っているから、勝手に使ってくれ」
 宥める顔をして笑うセンクウに、伊達が返すのは、警戒の視線。
「俺があんたに何をしてやった?」
 何かの報酬としてしか、人の好意を受け取ることができないのかと、また少し胸が痛む。
 まかり間違って「心配なんだ」とか迂闊なことを言えば、二度とここにはこなくなるだろう。
 エベレスト級のプライドを傷つけず、なんとか上手く説明することはできないだろうか。
 いい加減な嘘も決してつきたくはない、と、ずいぶんと考えて、答えを見つけた。
「嬉しかったからだな」
 センクウは笑った。
 満足のいく説明が思いついたこともあるし、今こうしてここで話していることも、嬉しいことだったから。
 そして、面食らった伊達の顔が可笑しかったことも、ある。

「つまりな、こんな温室、ここにあるには不似合いで、わざわざ花を見に来る物好きもいない。どれだけ手をかけたところで、単なる俺の趣味でしかない。ずっと、意味……俺以外の誰かにとっては、価値がなかった。場違いなのは分かっているから、諦めてはいたがな。だが、少なくともここが、おまえが休むのには役立つと分かった。それが、嬉しかった。だから、どうせならもっとゆっくり休めるようにしておこう、とな。おまえに、喜んでほしいんだよ」
 しばらく呆気にとられていた伊達は、やれやれ、といった様子で苦笑しつつ、溜め息を洩らした。
「そういうことか。それなら、ありがたく使わせてもらう」
 それから、ようやくいつもの伊達らしく、不敵に笑った。
「だったら、どうする? このま寝ていくか?」
「いや。妙に目が冴えちまった」
「まあ、好きにしろ。俺はもう戻る」
 あまり抜け出したままでいると、まずい。あれこれと規則にうるさい羅刹辺りに見つかっては、長々と説教を聞かされるハメになる。

 センクウが出ようとすると、伊達もそのままついてきた。
 外に出ると、雲の切れ目から、明るい半月が照っていた。
「こういう日は、月見のほうが洒落てる」
 空を見上げて伊達が薄く笑う。
「しかし、寒くはないか?」
「適当なところにもぐりこむさ」
 言外に、無断で塾内に入り込むことを匂わせた笑み。
(仕方のない奴だ)
 センクウは、ルールをあえて破って楽しんでいるような、妙な子供っぽさに苦笑した。
「この分だと、雪見にもなりそうだが……。まさか、風邪などひくなよ?」
「俺がそうヤワに見えるかよ」
 じゃあな、と背を向ける伊達と別れて、センクウは宿舎に戻った。
 幸い誰も気付いていないようだ。
 時計の針は0時を回っている。そろそろ寝ようかと部屋の明かりを落とした時、窓の外を白いものがふわりと掠めて落ちていった。

 

(了)

わけ分からんぞ、と思ったアナタ。
それがセンクウの気持ちです(ぉぃ)
困惑するセンクウの気持ちを味わってネってゆーことにしといてください。