人の気遣いや思いやりが、かえって自分を苛むことがある。 優しい言葉が、思い出したくない昔の情景を蘇らせることがある。 どうしても眠ることのできない伊達に、心底から案じる顔をして、 「少しは休んだほうがいい」 と言う桃たちの、気持ちは嬉しかったが、素直には頷けなかった。 眠れと言われると、眠れない事実に直面する。 長年にわたる不眠の理由に、自分で気付いている伊達は、そのたびごとにその理由を思い出し、それを作り出した過去を思い出す。 苦痛なのは、過去そのものではない。 過去あったその出来事を、どうでもいいと切り捨ててしまえる自分に気付くことが、苦痛なのだ。 寮にいると、起きている自分を見かけた誰かが、また「寝ろ」と言ってくるかもしれない。 そういった気遣いをされるのが嫌で、伊達は時々、夜中に寮を抜け出すことがあった。 薄曇の空の下、明かりの乏しい夜の住宅街を歩き、なにげなく訪れた塾の敷地。 張り詰めた冬の夜気に、僅かな潤いが感じられる。今夜中、少なくとも明日の朝には、本格的な冬の到来を告げられることだろう。 さすがに冷気は身を刺すようで、伊達は羽織ってきたジャケットの襟を合わせた。 寒いな、と思って、暖かい場所を思い出す。 (……行ってみるか) こんな時間には主もいるまいが、あそこでならば、眠れるのかもしれない。 伊達は、三号生地区に足を向けた。 歩きながら、数日前のことを思い返してみる。 温室を見つけた、あの日のことを。 授業中、居眠りしていようと漫画を開いていようと、教官たちは、自分や桃のすることに口は出さない。力で勝てない、というのもあるが、何より、高等学校卒業以上の知識を持っている者を相手に、「真面目に九九を唱和しろ」とは、さぞかし言いにくいことだろう。 出る意義のない授業には、近頃では、顔も出さないのが伊達のやり方だった。 教室に行きもせず、屋外で軽くトレーニングすることもある。 だがその日はそんな気分でもなく、ふらふらと敷地内を散歩していて、辿り着いた三号生地区。 刑務所のような高い壁に囲まれた、不可侵域である。 伊達もこれまで、あえてその中に入ろうとしたことはなかった。 中に何があろうと、興味はない。 一度、八連制覇の直前に招かれて入ったきりで、ここに足を向けたことすら、これまでにはなかった。 中を覗いてみようと思ったのは、外壁の崩れた場所を見つけたからに他ならない。 壁に沿って歩いていくうち、正門のほぼ真裏と思われるあたりで、人一人、屈めばくぐれる程度の穴を見つけた。 植え込みが邪魔をして、内部からは見えないのだろう。転がっている破片などから見るに、昨日今日にできた穴ではない。だいぶ古いものだ。 気まぐれに、入ってみた。 もちろん、面白いものがあると思ったわけではない。 あえて言うなら、見回りの誰かに見つかって一悶着起これば、退屈がまぎれるかもしれない、と期待したのだ。 そうして散策しているうちに、場違いな温室を見つけた。 あの時に見た昼の温室は、明るい日差しの中、鮮やかな花の色と緑を抱え込んで、いかにも健康的だった。 だが今、あらためて夜の温室の前にきてみると、……なにやら、得体のしれないもののように見えた。 闇の中、物言わぬ無数の植物がひしめいている。 薄雲越しの月明かりを受けて、ぼんやりと……。 「!?」 突然、光が襲った。 闇に慣れた目にはそれは暴力に等しく、伊達はとっさに顔を背ける。 誰かが、温室の明かりをつけたのだ。 その「誰か」など、一人しかいないのだが。 藍色の闇の中、浮かび上がる緑。 その合間を、見慣れない男が歩いていく。 まさかセンクウ以外の者がくることもあるのか、と思ったが、なんのことはない。 彼が髪を下ろしているだけだった。 もう就寝するところだったのか、部屋着らしき軽装の上に、丈の長いコートを身に着けているようだ。 (忘れ物でもしたのか) だが、しばらくそのまま様子を見ていても、人が出てくる気配はなかった。 伊達が手をかけると、温室のドアは小さく、キィ、と鳴った。 温室の中は、昼間とりこんだ熱によって暖められ、心地好い。あれほど不気味に見えた沈黙の草花も、光の中では他愛ないものだ。 後ろ手にドアを閉めると、 「伊達か? どうした?」 奥のほうから声がした。 さして大きくもない声だが、はっきりと届いてくる。 「あんたこそ、こんな夜中にどうしたんだ」 声の方向へと歩きながら問い掛ける。 「ああ、少し、な」 返ってきた答えに、微かな笑みが含まれていた。 センクウがいたのは「休憩場所」らしき例のスペースで、そこには、前回はなかったダンボール箱が一つ、増えていた。 伊達の視線がそこに向いているのに気付き、 「これか?」 センクウが悪戯げに笑う。 その顔に、伊達は束の間、言葉をなくした。 (こんな男だったか?) 髪型一つでこれほど印象が変わるとは思っていなかった。 風呂上りなのか、いくらか湿り気を帯びた金色の髪が、いくらかはまとまって束になり、いくらかはコートの背や肩にはりついている。 「伊達?」 「いや。なんでもねえ」 たぶん、見慣れないのは髪型だけではなく、着ているもののせいもある。 伊達はそう納得した。 街に出ればいくらでも見かけられそうな、黒いロングコート。材質は、レザーのようだ。 こうしていれば、少し背は高すぎるが、普通の男に見える。 「……なんでもないわりに、ぼんやりしているな。眠いのか?」 センクウの手が、ダンボール箱の中から、何かを伊達へふわりと投げた。 受け止めてみれば。 大きな羽根枕。 伊達は絶句する。 どう反応していいのか分からずに。 「どうした?」 再三センクウに問われる。 「こんなもの、いつの間に」 「この箱は一昨日だが、それは今だ」 伊達の中を、言葉にならない曖昧な思考が流れていく。 まさか、とまでは言葉になっているのだが、そこから先が形を成さない。 「伊達。寝ぼけているわけではなかろうな?」 「そうじゃ、ねえが」 枕。 もともとシーツは置いてあった場所だ。 センクウがここで一休みする時のためのもので、だとすれば、これもその一環だろう。 だが。 ならば何故こんな時間に、持ってきたのか。 伊達は考えているが、本当は答えは出ている。 それが「まさか」の続きだ。 ただそのことを、伊達はどうしても言葉にして考えられない。 「伊達?」 センクウの声に、いくらか不安げなものが混じった。 「本当に、どうかしたのか?」 間近から聞こえる。囁くような、抑えた調子。 いつの間にか傍にきていた。 「いったいどうした? 夜中にこんなところで」 「散歩してただけだ」 「寝ようと思ってきたわけではないのか?」 「………」 寝ようと思ったわけではないが、寝られるのかもしれない、と思ったのは事実だ。 だがなんとなく、それを言うのが癪だ。 「まあ、いい」 答えない伊達に、センクウが諦めた。 「だが、もしまた昼寝にでもくるなら、それを使え。本よりはいいだろう」 何故、センクウはこんな夜中に、風呂まで入ったあとで、枕を持ってきたのか。 明日にでも明後日にでも、また花の手入れをしにくる時でも良かろうに。 「なんでこんなもんを、こんな夜中に」 ほとんど独り言のように、伊達が呟いた。 「あったほうがいいだろう?」 センクウが答える。 「だったら、明日でも明後日でも、あんたはまた面倒見にくるだろうが」 何もわざわざ、夜中に持ってくることはない。 伊達が言うと、センクウは少し困ったような顔をして微笑んだ。 「おまえが使うだろう?」 今更になって、伊達はセンクウの目が緑がかっていることに気付いた。 そんな他愛のないことに驚き、そういえばこれほど近くで話したことなどなかったかと思いつく。 「伊達? またぼんやりか。今日はどうかしてるな」 「いや。それより、俺が使うって」 「本より、いいだろう?」 「そりゃあそうだが、こんな夜中に持ってこなくてもいいだろう」 また同じことを問われて、センクウは溜め息をついた。 物分りの悪い男に、分かるように言ってやる。 「だから……、おまえが次はいつくるか、分からんだろう? 明日、俺より早く来ているかもしれん。だから、思いついた時に持ってきた。そういうことだ」 まさか 「あんた、まさかわざわざ俺のために……?」 いつ来るか、来るか来ないかも分からない、俺のために? いつ来ても、いいように? たとえば明日の朝、いきなり現れても、いいように? ようやく「まさか」の続きを見つけ、解答に辿り着いた伊達に、センクウはゆっくりと頷いて見せた。 枕など、あってもなくても構わない。 ただあの時、「次は枕を持参しろ」と言われたから、なんとなく「その本が枕代わりになるから置いていけ」と答えた。 ただの「掛け合い」だ。 「あんなもの、真に受けるんじゃ……」 「そういうわけではないがな。あれば、使うだろう?」 「それで、こんなクソ寒い夜中に、わざわざ出てきたってのか」 「『こんなクソ寒い夜中』に、散歩しているおまえほど酔狂でもないと思うが?」 慣れない。 人の好意というものに、慣れることができない。 優しくされればされるほど、分からなくなる。 何故、と。 「そんなに困った顔をするな。とにかく、毛布と、替えのシーツと、枕と、それから適当な暇潰しの道具と。全部この中に入っているから、勝手に使ってくれ」 「俺があんたに何をしてやった?」 得体の知れない好意は、不安でしかない。 理由のない好意は、その裏になんらかの作為を隠している。 伊達が抱いているのはもはや疑問ではなく、警戒だった。 センクウは少し困ったように眉を寄せる。答えを探しているというより、言葉を捜しているような、慎重な顔になる。 ややあって、 「嬉しかったからだな」 センクウは笑った。 伊達は、それでますます分からなくなった。 「つまりな」 分からない、と極太の筆で書き殴ったような顔の伊達に苦笑しながら、続ける。 「こんな温室、ここにあるには不似合いで、わざわざ花を見に来る物好きもいない。どれだけ手をかけたところで、単なる俺の趣味でしかない。ずっと、意味……俺以外の誰かにとっては、価値がなかった。場違いなのは分かっているから、諦めてはいたがな。だが、少なくともここが、おまえが休むのには役立つと分かった。それが、嬉しかった。だから、どうせならもっとゆっくり休めるようにしておこう、とな」 喜んでほしいんだよ、と、センクウは最後にそう付け加える。 あまりにもあっさりと、他愛なく、言い切ること。 自分には生涯かかっても、こんなふうにあっさりと「喜んでほしいからなんだ」などという言葉は、言えないだろう。伊達は溜め息をつく。 (妙な奴だ) だが、悪くはない。 「そういうことか。それなら、ありがたく使わせてもらう」 ぽん、と腕の中の枕を叩いて、伊達が笑い返すと、ようやくセンクウも満足そうに頷いた。 寝ていくか、とセンクウは言ったが、伊達は宿舎に戻るという彼と共に外に出た。 冬の空に、煌々と月が照っている。 「こういう日は、月見のほうが洒落てる」 「しかし、寒くはないか?」 「適当なところにもぐりこむさ」 伊達の答えにセンクウは苦笑を残して去っていった。 (悪くない。こういうのも、たまにはな) 教室にでも入り込むか、と伊達もまた、その場を後にした。 (了) |