深い渓谷は灰色の岸壁と滴るような緑に包まれ、冷たく澄んだ水の香が辺りを満たしている。 だが、風が吹くと混じるのは、軋むような血の匂いだった。
夏の名残の中、秋の気配が漂う九月の終わり。 先に寮を出た松尾、田沢、秀麻呂の三人が、何故かそのまま行方を眩ましてしまった。 今更シゴキが嫌だと逃げるような奴等ではないし、サボるとしてもせいぜいで半日だ。 それがそのまま二日も戻ってこないとなると、只事ではない。 桃たちが動こうとした矢先、一通の挑戦状が届けられた。 天挑五輪大武会と、七牙冥界闘という、衆人環視の中での戦いを経て、その筋ではかなり有名になってしまったがための事態。 力に対する称賛は、やがて血をまとい、血は血を呼んで戦場を作る。 あれ以来、名をあげようとする者が押しかけてくることなど日常茶飯事で、時には大掛かりな招待を受けることもあった。 もちろん、それらは塾長・江田島を通さねば受理されることもないのだが、困った者たちが、問答無用の実力行使に出ることも少なくはなかった。 今回の一件も、そういった荒くれ者の一団が仕組んだことだ。 叩きつけられた挑戦状には、人質にとった三人を無事に帰して欲しければ、自分たちとの決闘に応じろという、脅迫まがいの内容が記されていた。 あまり良い噂を聞かない、ただの功名心に逸った愚か者だと、これまで無視しつづけていた江田島だが、こうなっては応じざるをえなかった。 そして指定のあった十月五日、桃、伊達、虎丸、飛燕の四人は、飛騨山地の奥深い、この渓谷を訪れたのだった。
万一のことを考えて、塾にはJと富樫、月光、雷電を残し、手の空いている元死天王にも、近辺警護を依頼してきた。 出向く人数に制限はなかったが、彼等を残すほうがいいと言ったのは伊達だ。 「俺たちを呼び出している隙に、手薄になった本陣を叩く腹かもしれねえ。主力が全員出払っちまうのは、まずい」 渓谷全体に張り巡らされた卑劣な罠の数々を見れば、その判断がいかに正しかったかが分かる。 ろくに休養することもままならない敵地の奥深くで、また一夜が明ける。 桃は、固く唇をかみ締めたまま、黙々と敵の本拠地を探して歩く。 伊達が先頭を行き、後ろから二人がついてきているが、前を見るのも、振り返るのもつらい。 (馬鹿なんだ。なんだってこんなに馬鹿なんだよ) ほとんど怪我を負っていない桃と虎丸に対して、伊達と飛燕は、既に満身創痍に等しい有り様だった。 彼等はいつもそうなのだ。 自分たちの役割を、そうと決めてかかるところがある。 桃は、八連制覇のことを思い出した。
飛燕が口を滑らせたのだと、富樫から聞いた。 八連制覇に赴く前、伊達は配下の三人に、桃たち四人の盾となることを命じたという。 大四凶殺での勝負は、最後の第四の凶以外は全て引き分けという結果になっているが、実質的には全て自分たちの負けなのだと、伊達も、三面拳も考えていた。 その自分たちが生きて、男塾にある理由。 「ここで死なせるには惜しい奴等だ。どうせ一度は捨てた命、奴等にくれてやろうじゃねえか」 そう言った伊達は、何処か嬉しそうですらあったという。 あれからいくつもの戦場を共にくぐり抜けたが、それでも伊達は、そして彼に従う三面拳は、己の身をあくまでも「従」として扱おうとする。 それが、こういう時に浮き彫りになるのだ。
それを咎めても無駄だと、桃は知っている。 八連制覇の時ならばいざしらず、今の伊達たちに何を言っても通じはしない。 いや、何を言うこともできない。 死んでもいい、と己の命を投げてかかっているのではないがために。 彼等は皆、どれだけ傷ついても苦しんでも、最後には生きて帰ることを己に課している。 仲間の「死」という重荷を、生き残る者に背負わせないために。 そして、傷つき続けるのだ。 死線を越えてまで。
ようやく敵方の本隊を見つけた時には、辺りは闇に包まれていた。 鬼哭谷と呼ばれるこの渓谷に辿り着いてから、これでまる三日が過ぎていた。 もうすぐ、四日目に突入する。 まともに食うものも食わず、眠る時間もなく、罠を警戒し襲撃を迎え撃ち、桃たちの体力と気力は限界に近づきつつある。 先刻の不意打ちで虎丸が飛燕を庇って重傷を負い、その飛燕も足に大きなダメージを受け、今まともに動けるのは、桃と伊達の二人だけになっていた。 這ってでもついてこようとする二人を気絶させ、洞穴の奥に隠してきたが、そこが安全とは限らない。 一刻も早くケリをつけねばなるまいと、気が逸る。 かがり火を焚き、銃器すら携えて油断なく周囲をうかがう連中は、これまでに襲ってきた雑魚とは、気配からして違う。 それでも桃や伊達にとってはとるに足りない相手ではあるが、いかんせん数が多すぎる。 どうするべきかと、桃はじっと炎を見つめた。 「俺が行く。引っ掻き回している隙に、桃。おまえが大将の首とっちまえ」 気配を殺して藪の中に身をひそめたまま、伊達が上着を脱ぎ、槍を取り出した。 馬鹿を言うな、と怒鳴ろうとして、すんでのところで桃は思いとどまる。 乱れた気配に見張りの者が気付いたようだが、運良く飛び立った梟のせいで、うまく誤魔化すことができたらしい。
「馬鹿を言うな」 感情を押し込め、声を殺して桃が低く言いつける。 「その怪我で、あれだけの人数をどうやって相手にするつもりだ。囮には俺がなる。まさか大将が囮だとは誰も思わないだろう? だから」 「馬鹿はてめえだ、桃。いくらクズみたいな連中でも、これだけの人数をまとめあげてるんだ。幹部連はそれなりに胆のすわった野郎だろうぜ。今の俺に、そいつらと対等にやり合う余力はねえ」 「けど」 「いいか、桃。俺は、一度はアヤつけた男塾に戻って、おまえって野郎に会って、本物の大将ってのがどんなもんか、知ったつもりだ」 「伊達。何を急に」 突然の話、桃はうろたえた。 こんな時にそんなあらたまった話は、不吉すぎる。
「俺はずっと、勝つために、最後に勝つために、過程はどうだっていいと思ってきた。何人、誰が死んでも、それは勝利のためのやむをえねえ犠牲なんだってな。けど、だから俺はおまえに勝てなかったんだ。おまえは、誰一人として死ぬことを良しとしねえ。いくら勝ったって、それで頷けねえ甘ちゃんだ。だから、誰も死なねえように、足掻く。勝つだけならもっと簡単な道があるのに、そのために足掻いてきたから、仕方ねえと切り捨てずに背負ってきたから、おまえは強いんだろう」 「そんな話、今は聞きたくない……!」 「聞け。何も、これが最後だと思ってこんなこと言ってんじゃねえんだ。いいか? おまえは強い。けどな、やっぱり甘ちゃんなんだ。卑怯も卑劣もクソもねえ、地獄みてえな修羅場くぐってきたことがねえ。だからその分、おまえより俺のほうが、現状ってヤツは感情抜きで的確に把握できるつもりだ。―――桃。俺は、俺も、おまえも、飛燕も、虎丸も、誰も死なねえで、全員が生きて帰るために、言ってるんだ。ここは、俺が行ったほうがいい。量だけなら、今の俺でもさばける。だが、質は無理だ。だから、ここは俺に任せて、おまえはアタマをとれ。それが、この状況から四人とも生きて帰るための、最善の手だ」
真っ向から桃の目を見据える伊達の目には、力強い意志があった。 それは、覚悟や決意ではなく、約束だ。 「……必ず、無事にまた会うんだからな」 桃が握り締めた拳に、伊達が自分の拳を合わせる。 「ああ。俺は死なねえ。この程度の連中相手じゃ、勿体無くて死んでやれねえぜ」 「信じていいんだな?」 「信用ならねえか?」 「信じ……られはする。けど、信じていても、心配にはなるんだ」 「ホントに甘い野郎だな。だったら、―――桃。今日は、何日だ」 「え?」 「今日は、何月何日だ?」 「急に日付なんて……。今日は、十月……」 到着したのは五日の明け方。 それから三日たった今は、月の位置から見て。
十月八日、午後十一時頃。
「……!」 「こんなくだらねえ奴等のせいで、なんにも用意してやれなくなっちまった。その代わり、一日遅れになっちまうが、この俺自身を、生きたままおまえの前に連れて行ってやるよ。そいつで勘弁してくれ」 「だ、伊達……」 こんなぎりぎりの戦場で、それでも覚えていてくれた、小さな約束。 「伊達。……伊達―――」 言葉が何も出てこない。 名前だけを、繰り返す。 「安上がりすぎるか?」 何処かおどけたようないつもの伊達の声音に、こみあげてきた瞼の熱をぐっとこらえて、桃は笑って見せた。 そして、はっきりと首を横に振る。 「それでい……、それが、いい。それが一番欲しい」 「それなら、約束だ。だから、おまえもちゃんに受け取りに来いよ」 合わせたままの拳を軽くぶつけて、伊達はひらりと身を翻した。 夜の獣は音もなく藪の中を駆け、炎の照らす中へと踊り出る。 「な、なんだ貴様!? その顔の傷……!!」 「お招きに預かり、男塾二号生、伊達臣人、参上してやったぜ」 囲まれて、悠々と吐き捨てる台詞。 (伊達。約束だ。必ず、……って、いいのか、おい。本当におまえのこと、もらっちまうぞ?) こんな時に、と思っても、桃は自分の奥深いところから湧き上がってくる力に、呆れつつも笑わずにいられなかった。
(19XX年 10月8日 PM 11:08―――)
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