ネギが伊達の膝の上に座って背をピンとのばし、小さな頭を上に向け、大きな欠伸をした。 ピンク色の口の中、小さく鋭い牙が白い。 小さな小さな肉食獣。 ふわふわと柔らかく軽い体。 心地好い手触りと、ほのかなぬくもり。 「眠いのかよ、ん?」 何故か伊達は、仕方なさそうに笑う。そうして子猫の華奢な喉をくすぐる。ぐるぐると喉の鳴る音が、センクウの耳にも聞こえた。 静かな夜だった。
子猫に話しかける伊達を初めて見た時、センクウは五秒間ほど停止してしまった。 意外だったのだ。 言葉の通じない獣相手に話し掛けるなど無駄、とでも思っていそうではないか。 それが案外普通に、 「なんだ、腹減ってんのか」 とか、たしかそんなことを言っていた。 (ああ……伊達も、そういうところ、あるんだな) とかしみじみと感じ入っていたのが、二秒間。 「センクウ、エサねぇのか? おい。おいセンクウ!」 と大声で呼ばれて我に返るまでに更に三秒ばかりの、合計五秒。
あまり隠し事の得意でないセンクウは、その日の内に率直に言ってしまった。 「おまえが動物に話し掛けるのは、少し、意外だった」 と。 伊達も自覚はあったらしい。 むしろ、この男一流のポーカーフェイスで何事でもないように振る舞ってはいたが、本当は「しまった」と思ったらしい。 「そりゃあ、話しかけるみてぇに鳴かれりゃ、相槌くらい打ちたくなるだろうがよ」 そっぽを向いた伊達の手にいたネギは、その頃はまだ、今よりはるかに小さかった。 無論、その日の内に他言無用の約束を取り交わしている。 だからこれは、この部屋にだけ通用する日常。
ネギに話し掛ける伊達。 伊達の足の上で丸くなるネギ。 そして、時々泣きたくなる。 やはり何故か仕方なさそうな、けれどたしかにいとおしそうな優しい目で、小さな生き物を見下ろして笑っている、伊達の姿。 何故泣きたくなるのかは分からないが、何故か勝手に感極まってしまい、センクウはいつも、そそくさとお茶を淹れに立つ。 「なにか淹れよう」 決まり文句を一つ置いて、顔を見せないよう、さりげなくしかし素早く立ち上がり、キッチンに入るのがセオリー。
だが、今日は違っていた。 何故違ったのかは、何故泣きたくなるのかが分からないように、やはり分からない。 ただ今日は、涙ではなくほのかに熱い気持ちが胸の奥から湧き上がって、不意に、抱き締めたくなった。 規則正しく打っていた鼓動が、突然わけもなく、一つだけ大きく打つように。 トクン、と。
衝動には抗えなかった。 だがやめるチャンスはあった。 無意識でもなかった。 のばしかけた手を、下ろすべきだと一瞬は思った。 きっと伊達は驚くし―――とまでは考えた。 だがその後に続くはずの、嫌がるだろう、という予想が頭の中に出るのを、無意識に抑えみ、頭の中をからにした。 センクウは、こらえることを選ばなかった。
「伊達」 と呼びかけた声も、ほとんど口の中の吐息と変わらない。 それでもなにか聞き取った伊達がセンクウのほうへと顔を向ける前に、腕は、その体をとらえていた。 体が瞬間的に拒絶することもなかったが、伊達が驚いたことだけは、じかに腕へと伝わってきた。いや、驚いたというより、茫然としているという有り様だった。 無理な姿勢で抱き寄せたせいで、傾いた膝の上からネギが滑り落ちて着地する。 「なぁ〜ぅ」 と鳴いて、センクウの足に体を摺り寄せてきた。
腕の中が熱かった。 心臓から体中へ、高温の血液が送り出されていく。 その温度が、これが単なる親愛の抱擁ではないことを、センクウ自身に思い知らせた。 抱き締めたいのではない。 抱きたいのだ。 うまれてこのかたほとんど初めて、自発的に、人を抱きたいと感じていた。 唇の間近にある、ほんの2センチの移動で触れられるこめかみ。キスをして、他の場所にもキスをして、抱き締めて、シャツの下の肌に触れ、そして、やがて、一つになりたい。 強烈な羞恥を伴って、下肢に疼きを覚えた。
自分の顔がひどく火照ったのを感じ、センクウはこの衝動を抑えこみ、できるなら冗談にして誤魔化してしまわないといけないとさとった。 今あるものだけでも、充分なのだ。 これ以上を求めて全てを失うなど、それこそ冗談ではない。 とても誤魔化せそうにないが、それならそれで心から詫びて、二度としないと誓って、たぶん、今までどおりに振る舞える。それを伊達が望むのならば、自分勝手な衝動の一つや二つ、抑えておけないほど弱くはない。
どうすれば冗談と思ってもらえるだろう? それはたぶん無理だろう。 そもそも隠し事の苦手なたちで、顔まで赤くしていては、言い訳のしようもない。 どう言って離れるのが一番いいだろう。 そんなことを考えている間に、ネギはいつの間にかドアの隙間から消え、おそらくは隣の部屋の猫ベッドの上。
「フッ」 とすぐそこで苦笑のような失笑のような伊達の息が聞こえた。 「なんだよ。あんたも男なわけか。相手間違っちゃいるが」 誤魔化すという選択肢は、完全に無効化された。 「っ……す……すまん……」 離れようとするのだが、体が自分のものではないように、ままならない。 「今、離れるから……」 「この分じゃ女口説いたこともなさそうだな。え?」 「…………」 答えられなかったが、そのとおりだった。 見たこともない女性からいきなり告白されたことはそれなりにあるのだが、自分から付き合ってほしいと思ったことは一度もない。よって、こういう場合のセオリーなど、まるでなにも分からない。失敗した時の善後策というものも。 「そのくせ、惚れた男に口説かれた女みたいに赤い顔しやがって。逆じゃねえか、普通」 「ぅ……」 「余裕のねえあんたってのも、珍しくて悪かねえけどな」 ぽん、と伊達の手がセンクウの腕を叩いた。
それが強張りを解除してくれたかというと、逆だ。 これまでと変わらない軽口と態度に、スイッチは更に深く倒れた気配だった。 「……すまんが、振りほどいてくれ。自分では、離れられん」 センクウが言うと、伊達はこらえかねて吹き出した。 「あんた……。律儀ってえか真面目ってえか。程があるぜ、そりゃあ。―――花火の日に、キスした時はけっこう余裕だったくせによ」 「あ、あれは……その……」 今だから比較できるが、本当にただ愛しくて、大切で、ただそれだけの、親愛のキスだった。頬ではなく唇にしたのは我ながら不思議なことだったが、こうも明らかな性衝動ではなかった。 抱き締めたいとは思ったが、抱きたいではなかったのだ。
「はぁ」 と伊達が溜め息をついた。そして、 「いつものあんたに戻れよ。俺は、あんたンとこでまで気ィ張ってたかねえんだ。どう言やいいのか分からねえが……」 ずいぶん長く、少なくとも五秒以上は考え込み、 「あんたがいつもどおり余裕かましてりゃ、俺は安心して寄っかかってられるんだ。だから、あん時と同じように、言やいい。『抱きたい』ってだけな」 と、答えた。
「……いいのか? おまえも男だろう。そんなふうに簡単に応じられることでは」 ようやく腕が自分のものに戻り、センクウは少し体を離して伊達の顔を見た。 伊達は困ったような顔で眉を寄せ、言葉を紡ぐ。 「あんたはどうか知らねえが、俺はいい。誰にでもケツ貸す気はねえが、……あんたは、まあ、いいさ。ちったぁ覚悟がいるが」 「伊達……」 「もし、俺があんたをどうしても抱きたいって言ったら、抱かれることは嫌だと思っても、きっと我慢してくれるんじゃねえのか?」 「待て。俺はそんな我慢をさせるくらいなら、自分が我慢……」 「あんたの場合の話だ。そんな気がするってだけのな。俺の場合は、また違う。……あんたが俺を、その、なんだ、……好きだと思ってくれて、そうしたいってんなら、……構やしねえ」
されるのが嫌だってより、みっともねぇ有り様なんだろうなと思やそれが嫌だたぁ思うが、あんたが笑わねえなら、それくらい我慢できるさ。 と伊達は言い、付け加えるように小声でポツリと、 「……俺も、あんたのことは」 ―――そこから先は、センクウだけが知っている、この部屋だけの情景と、言葉である。
(おしまい?) |