通ル魔

 寝坊大王の桃が珍しく時間どおりに起きたので、その日は久々に、ぞろぞろと十人ばかりも連なって、塾への道を歩いていた。
 いつもだと、遅刻しては何をさせられるか分からない松尾たちは先に行き、教官が何も口を出せない伊達たちは、桃を叩き起こしてから、松尾組よりは二十分ほど遅れて出ることになる。
 それで運が良ければ間に合うし、運が悪ければ間に合わず、時にはどう頑張っても起きない桃を放置して、出てしまうこともある。
 特にこんな春先の朝など、いつもの桃ならたっぷり一時間は寝て過ごすのである。
 それがどうしたことか今日にかぎって素直に起きだしたのは、暑いくらいの陽気のせいだろう。

 年齢不詳の長ラン集団が十人も固まって歩いていれば、普通の人間は避けて通る。
 しかしここ二年の間で、塾生たちが見かけほど怖くないことを知っている近隣の住人たちは、愛想のいい松尾たちと、挨拶をかわしていた。
「まつおー、ひでまろー」
 向こうからやってきた小学生が二人、親しい友達のように駆け寄ってくる。
 こういう光景は、いかに愛想が良くても、桃たちの場合には起こらない。人徳というか、人の持つ雰囲気というか、松尾や田沢たちは、そういった意味では何故男塾にいるのかが分からない連中でもある。
「おう、どうしたんじゃ?」
「れいのあれ、うまれてたぜー。いまみてきた」
「本当か?」
「マジマジ。すげーから、みてこいよー」
「おお! なあ桃。ちっと寄り道してもいいかのう?」
「ん? ああ」
 まだ半分眠っているような桃の返事に気力はなかったが、松尾を先頭に、椿山や田沢も駆け出した。
「生まれてた、って、なんでしょうねぇ? 野良犬でも?」
 飛燕が首をかしげる。
「見に行く、か?」
 Jが言うと、誰も反対する者はなく、桃たちものんびりと後を追いかけた。
 伊達は別に興味もなかったが、自分ひとり離れてそのまま塾に向かうのもなんだと思って、それに従った。

 そこは二十坪あるかどうかという小さな空き地で、冬を乗り越えた草がようやく青々と色づきはじめていた。
 朽ちたような廃材、錆だらけの自転車が放置してあるところを見ると、もう何年もこのまま放っておかれているらしい。
 松尾たちはその奥の廃材の傍に集まり、何かを覗き込んでいた。
「うおー、こりゃあすごいのう!」
「でも少し気色悪いぜ」
「でも、こんな季節に無事に産めて良かったなぁ」
 面白そうにあれこれと話している後ろから、
「何を見てるんじゃ?」
 富樫が覗き込む。そして、奇妙に顔を歪めた。
 あまり愉快そうではないが、間もなくやれやれといったように笑う。
「ほれ、こいつがお母さんじゃ」
 松尾が何かを手にとって、ひょいと富樫に突き出した。
「ほぉ。こりゃあでかいな」
「じゃろう? この間見つけたんじゃがのう。さすがに寒そうで弱っとったから、ここにほれ、こうして」
 きらきらと光を反射しているのは、アルミホイルらしい。
 それで効率良く日光を集めたのは利口だが、火事になりかねないとは思わなかったあたりが、彼等らしい。
 とにかく、松尾たちが見つけた「それ」は、大きいと言われる母親が手でつまめる程度のもの。犬や猫ではないらしい。
 富樫の脇から覗いた飛燕が、なるほどと頷いた。
「本当に大きいですねぇ。普通、産卵の時期は夏か秋でしたか。私もよくは知りませんが。それをこんな時期に頑張って産んだんですから、きっと強い子になるでしょうね」
「おう。ほれ、桃も見てくれ」
 松尾が「それ」を持ったままやってくると、ひょいと桃たちの真ん中に差し出した。

 薄い茶色の、松尾の手のひらほどもある、大きなカマキリだった。
 産卵後の疲れのせいか、暴れもせずにおとなしい。
「たしかに、こりゃでけえな」
 虎丸がカマキリの三角形をした顔を覗き込む。
 小さい胸、堂々とした腹、立派な鎌。
 これが人間なら肉惑的な美女なのかもしれない、と思わせるような、めりはりのある体つきだ。
「ほれ、伊達も見てくれ」
 一歩下がったところにいる伊達の顔の前に、松尾がカマキリを差し出す。
 伊達はその瞬間、加減もなくその手を叩き払った。

 大きな雌カマキリは一度地面に落ちてから飛び立ち、奥の茂みへと消えてしまう。
 松尾は、そして桃たちも、茫然となった。
「くだらねえ。行くぞ」
 伊達がそっけないのはいつものことだが、声音には怒りに等しいような剣呑さが滲んでいる。
 さっさと去ってしまった伊達を見送って、いったいなんなんだ、と残された者たちは互いの顔を見た。

 その日の伊達の不機嫌といったらなかった。
 いったいどうしたんだ、と尋ねることもできないほどに不機嫌なのである。
 だから、午前中の授業が終わり、昼休みを挟んで午後に入った時、伊達が教室に戻ってこないことを知った時には、松尾たちは思わず安堵してしまった。
 殺気立ったような伊達といて平気な人間など、そうそういるものではない。
 いつもなら一言愚痴くらいは言う鬼ヒゲだが、彼にもその気配は伝わっていたのか、今日に限っては何も言わなかった。

 伊達はその頃、いつものように例の場所に向かっていた。
 自分が、彼等にとっては些細なことで異様に不機嫌になっていることと、それを皆が扱いかねて困り果てていることには、気付いている。
 迷惑をかけたくない、というのではなく、自分が情けないのだ。だから、早いところ平常の自分を取り戻したかった。
 落ち着かなければならない、と思って、行こうと思った場所がセンクウの温室であることに少し苦笑して、既にいくらか気は晴れている。
 何故そんなにもあの場所が気に入っているのか、伊達自身にも分からないが、そういう自分のらしくなさを自嘲しながら、悪くはない気分になる。
 壁の穴から三号生地区に入り、一応は人目につかないよう遠慮しつつ、無事辿り着く。
 案の定もうそこにいた温室の主は、いつもとまるで変わりなく、伊達に笑いかけてきた。
 そのことに、何故かほっとする。
 鉢植えの、ごく小さな薔薇を植え替えている彼の傍で、横になる。
 もともと薔薇というのは野草の一種らしいが、人が手を加えてきたために、自生の力は弱くなっているという。
 ことに、こういった特殊な品種改良を受けたものは、手がかかる。
 あるかなしかの微笑を浮かべながら、優しい目をして、黙々とそんな作業をしている姿を見ていると、心が休まる。
 そして眠気に誘われるまま、伊達は目を閉じた。

 夢を見た。
 夢だと分かっていながら、逃げることもやめることもできない、最低の夢。
 自分を何処か遠い空間から、眺めている夢。
 不意に「自分」に意識が重なって、口の中に広がったのは、生臭い、血の味だった。

「……っ!!」
 伊達が跳ね起きる。
 それがいかに唐突なものだったか。
 センクウの手から落ちた鉢が、ごろりと転がって中の土と花を零す。
 一気に噴き出してきた冷たい汗に、首筋から背中まで、じっとりと湿っていく。
 つ、つ、と引っかかるようにして流れていたこめかみの汗が、やがて一気に滑って足の上に落ちる。
 荒くなった呼吸を落ち着けようとするが、呼気に合わせて、吐き気がこみあげた。
「伊達? 大丈夫か」
 奥歯を噛みしめ口元をおさえた伊達を、センクウが心配げに覗き込む。
 伊達は横目に、落ちた鉢と花を見て、
「放っといていいのか」
 うめくようにそれだけ言った。
「良くはないが……、真っ青だぞ。悪い夢でも、見たのか?」
 伊達は答えない。
 口の中に、夢の底から持ち出してきた錆の味が広がって、吐き気をおさえるので精一杯だった。
「気分が悪いなら、吐いてきたらどうだ。あっちに水場がある」
 背に手を添えて促され、伊達は示された場所へと向かったが、実際に吐けるようなものは、何もなかった。

 伊達がいくらか落ち着いたところで、センクウはほったらかしにしていた花を、おざなりに元に戻して棚へ返した。
 花より自分のことを優先してくれる気持ちが伊達には嬉しかったが、そんなささやかな喜びを覆い尽くす、どす黒い何か。腹の底に渦巻いて、胸の中を満たして、頭の中まで食らい尽くそうとする。
「何か飲むか?」
「いや」
 出した声が掠れていて、伊達は鋭く舌打ちした。

 悪夢の理由は分かっていた。
 カマキリ。
 伊達は、あの虫だけは心底嫌いだった。
 嫌悪というより憎悪に近かった。
 交尾のあと、雌が雄を食う。
 体の大きな雌のほうが、自分の半分もない雄を、生きたまま食ってしまう。
 聞き知った時はまさかと思っていた。
 実際に目にしてからは、その虫の名前を聞くことすら、嫌いになった。

 伊達はそのまま、何も言わずに温室を出た。
 珍しくセンクウがドアのところまでついて来た。
 何か尋ねようか、それとも何も尋ねないほうがいいのだろうか。そう迷っている顔をしていた。
 好奇心や興味のためではなく、どうすれば伊達が悪夢を忘れられるのか、思い悩む顔。
 そんな彼に何も言わず、置き去りにするのは―――そこは「彼の場所」だが、伊達にはそんな気がしてならなかった―――、置き去りにしてしまうのはいい気分ではなかったが、他にどうしようもなかったのだ。
 話せることではないし、話したいことでもない。
 話したところで、自分も相手も、ただ鬱々となる話なのだ。
 そして、適当な嘘で誤魔化して、何事でもないように話せるほど、軽くもない。
(くそったれが)
 気のせいか、左の手首が熱く疼いているようだった。

 

(了)

ここまであからさまに「続き」がありそうな終わり方で「了」じゃないですね(汗
とは思うものの、これだけでも独立してはいるわけで。
次のお話へどうぞ。