三号生地区の南側に、小奇麗な温室がある。 充分な広さと設備を持った、本格的なものだ。 まさか男塾の敷地内にこのようなものがあるとは、誰も、夢にも思うまい。 所有主については、語るまでもない。 三号生、死天王が一人、センクウである。 最初は片手間に、見捨てられてぼろぼろの花壇の面倒を見ていただけなのだが、気がつけばこんなものまで建ててしまっていた。 その日も彼はいつもと同じように、午後の空き時間に温室を訪れた。 日差しは暖かいが、風は冷たい。 だがガラス張りの建物の中は快適だった。 熱帯性の植物を育てるつもりがないので、真冬以外は、風を遮って太陽光を取り込むだけにしている。 エアコンの唸りも聞こえない、静かな空間。 特に手を入れてやらねばならないものはないが、ただぼんやりと過ごすにも、殺伐とした校舎よりは、ここがいい。 持ってきた読みかけの四六判は、おそらく今日中に読みきることができるだろう。 温室の中ほどに作った、くつろぐためのスペース。 芝生を植え、簡単なテーブルセットを置いてある。 それから、仮眠くらいはとることもあるかと持ち込んだ薄手のシーツ。 「………」 それを、無断借用して……いや、そもそもこの温室の中に、勝手に入り込んでいる男。 センクウが見下ろしているのは、伊達だった。 シーツの半分を下に敷き、残り半分を上にかけ、手枕で横になっている。 人の気配には異常にさといはずの伊達だが、目を開けようとはしない。 気付いていて無視しているのか、とセンクウは少し困った顔をする。 しかし、そのわりには自然だ。 もし本当に眠っているのなら、起こすのは可哀相かと、センクウは気配を消した。 途端、伊達は跳ね起きた。 白いシーツと、散った青い芝が視界を塞ぐ。 センクウが驚く間もなく、手刀が喉に突きつけられていた。 「……あんたか」 少し掠れた声で、憮然と呟く。 「いきなり、気配消すんじゃねえ」 それから、疲れたような溜め息をつく。 センクウが伊達の言動を理解するまでに、たっぷり一分は要した。 驚きのあまり頭が働かなかったのではない。普通に考えては、理解のできない挙動だったのだ。 「それは、逆じゃないのか?」 よくよく考えたのち、センクウが尋ねると、 「ああ?」 不機嫌きわまりない声が返ってきた。 「寝ているなら、邪魔をするのも悪いかと思って消したんだ。消したことに気付くのは、消えるまで感じていた、ということだろう?」 「それがどうした」 「……気配がなかったのが急に現れた、というならともかく、あったのが消えて、何故飛び起きる? 気配を感じていたということは、それくらいには覚醒していたということだし、それなら夢うつつにでも、これで寝やすくなる、とか、思うものだろう?」 しごくまっとうなセンクウの論理に、伊達は少し考えた。 それから、急にまた少し不機嫌になって、眉間に皺を寄せる。 「伊達?」 「……気配消すなんてな、何か仕掛けてこようとしてるってこと、……かもしれねえだろう」 聞き取れるぎりぎりの小声で、呟く。 納得はいったが、わだかまりが残った。 センクウの気配を感じながらも寝ていたということは、少なくとも伊達は、気配があるうちは安心していたのだ。誰が近づいてきているのか、までは考えておらずとも、知っている、危険のない誰かのものだとくらいは把握して。 それが、気配が消えた途端、敵と見なして攻撃に出た。 たとえ今までは危険のない相手であっても、いつ裏表逆になるか分からない―――と。そういうことなのか。 伊達自身、自分の反応が異常であることは自覚しているのか、芝生を睨むように俯いたまま、黙っている。 「悪かったな。俺がいても邪魔でないなら、寝直したらどうだ」 センクウが詫びたのは、起こしたことに対してではない。 考えたくないことを考えさせてしまったことに対してだ。 伊達は、人の思惑にも、おそらく同じ理由でさとい。 気遣われている、と気付いて、ますます不機嫌になる。 たぶん、一瞬は出て行こうかと迷ったに違いあるまい。 だが 「そうさせてもらう」 そう言って、ごろりと横になり目を閉じた。 抑揚のない退屈な物語を読みながら、センクウは、再び寝入ってしまった伊達を見やる。 どうやら本当に寝ているらしい。 (……何故?) そっと、音を立てないように本を閉じた。 桃から聞いた話だが、伊達という男は、ほとんど寝ようとしないという。 「あいつの『寝る』ってのは、数時間目を閉じてるだけ、みたいですよ」 そして、誰かが意識を向けただけで目を開く。 呆れ混じりの心配顔で、桃が言っていた。 (目を閉じていただけなら、俺だということまで読んでいただろうし……。それなら、あんなに驚くこともない……はずだが) まるで信用されていない、とは思えない以上、今ここにいる伊達は、そして先刻も、いつもよりははるかにきちんと「眠っていた」ことになる。 (分からん男だ) 温室にいること自体は、不思議でもない。 小学生レベルの「授業」など出ても仕方がないと抜け出して、散歩でもしているうちに見つけたのだろう。三号生地区だということなど気にかけるような男ではない。 鍛えた体でも寒いものは寒い。耐えられることと、寒さを感じないことは別だ。それで、暖かそうな温室の中に入り込んだ。 というところだろう。 だが、ここで「眠っている」理由は、思いつかない。 「伊達は眠らない」ということ自体が桃の勘違いである可能性もあるには、あるが。 結局それから二時間。センクウが本を読み終えるまで、伊達はずっと眠っていた。 つい配慮を忘れて乱暴に本を閉じた、その音でぴくりと肩が動き、伊達はゆっくりと起き上がると、眩しそうに細めた目を、瞼の上から指で押さえた。 それから、曖昧な欠伸を一つ。 「起こしたか?」 「いや、構わねえ」 伊達にしては珍しく、嫌味も不敵さもない笑みを見せる。 「よく寝てたな」 「ああ」 不気味なくらい素直な反応に、センクウは次の言葉に詰まる。 そしてつい、 「おまえは眠らない、と聞いていたが」 言うつもりのないことを口にしてしまった。 「ああ?」 詮索を拒む、威嚇の表情。 センクウとしても、余計なことを詮索したくはない。 「周りの勘違いか」 そう言って、この話は終わりにした。 中途半端に途切れ、誤魔化され、不自然な沈黙。 「あんただからだろう」 いきなり伊達が言った。言って、ふいと顔を背ける。 「俺、だから?」 「ああ」 「……?」 「それに、こんな場所だからな」 ぐるりと温室の中を見渡す。 「静かで、平和な匂いしかしない。土と、緑と、花と、あと、肥料か。ま、俺には似合わねえが」 「それは分かるが、何故、俺が?」 「あんたも平和だろう」 「……そう、か?」 「ああ。あんたからは、血の匂いがしねえからな」 口の端を小さく上げる微笑に、自嘲が見え隠れした。 「あんたは人を殺したがらねえ。本当は、荒事は嫌いなんだろう?」 「馬鹿なことを。荒事が嫌いで、何故拳法なんてものを身をつけると」 「嫌いでも、そうさせられるってことがある。理由は、いろいろだろうが」 「………」 「俺は今までに三度、あんたが戦うところを見てる」 何処ともつかない前方に視線を動かす。 「八連で一度、天挑五輪で二度。三度とも、あんたは相手を助けてるじゃねえか。富樫の時は、命懸けでな」 「見落としがある。俺は独眼鉄を」 「あんたの意思じゃねえだろう」 センクウの言葉を、伊達は、さもくだらない反論だと言いたげに遮った。 「あの一瞬だけ、まるで別人だ」 「………」 「あんたとしては、素直に引き上げてやりたかった。が、俺たちのほうが優勢になってきて、そんな甘いところは見せるわけにいかなくなった。あの時あんたは、扉のすぐ傍にいたな? 伝令がきたんだろう」 「……穿って考えすぎだ」 「いいや。少し考えりゃ分かることだ。だいたい、あのあとのあんたはフェアすぎた。フェアどころか、自分から不利な方向に首突っ込んだろう。飛燕の拳に、拳で応えることなんざなかった。お得意の鋼線さえ飛ばせば、空中にいる飛燕は避けられなかったんだぜ? なんていったか、派手な決め技。あんたほどの使い手が、落とす場所を確かめもせずに仕掛けるとは思えねえ。二度目も、富樫の挑戦、受けてのものだったな。それで、最後には奴を助けた。自分が負けりゃ死ぬこと、三号側は後がなくなること、……筆頭さんと仲間の期待裏切ること、分かってたろうが。あれは、罪悪感のせいもあるんじゃねえのか?」 「買いかぶりだ」 悪ぶるつもりはないが、面と向かって言われると、落ち着かない。 罪悪感云々はともかく、独眼鉄への処断については、伊達の推測どおりだった。 身じろぐと、膝の上に置いていた本が滑り、ページの隙間から栞が落ちた。 とろうとのばした手が同時で、伊達が一瞬早く引いた。 センクウは本を拾い上げ、適当なところに栞を挟みなおす。 その手の動きを、伊達はじっと目で追っていた。 「あんたは、綺麗な手ェしてる」 なんの前触れもなく言われて、センクウは驚いて伊達を見やった。 だが、彼が見つめているのはもうセンクウの手ではなく、伊達自身の手。 「俺と違って」、と伊達は言わなかったが、センクウには聞こえた。 望むと望まざるに関わらず、否応なく戦いと争いの中に、地獄の底に叩き落されたのは、他の誰よりも、伊達だ。 生き延びるために、他人の命の糧を奪い、命そのものを奪い。 この世の地獄。 哀しい顔をしない男が、哀しみを持たないわけではない。 痛みに耐えて平然と立ち続けることと、痛みを感じないことも、また違う。 どんな言葉でも、慰めようのない傷がある。 「……ここは、気に入ったか?」 だから、尋ねた。 「ん? ああ」 頷いて、伊達が小さく笑う。 「また、くればいい。そろそろ、外でサボるのはつらい季節だからな」 言いながら、こみ上げてくるものがある。 身を切る風の痛みを無視して、外にいることはない。 ここにくればいい。 この場所では、安心して眠れるのなら。 「……あんた、やっぱり優しすぎる」 ふっと息をついて、伊達が立ち上がった。 芝の上から小道へ下り、止まる。 「たぶん、またくる」 振り向かずにそれだけ言って、歩き出した。 誰かのために、殺生を拒んできたわけではない。 罪を背負って生きるのが苦痛だっただけだ。 だが、それゆえに、敵ではない誰かをも助けられるのなら、悪くはない。 「今度は枕でも持参したらどうだ?」 背中に向けて言う。 歩みは止めず、肩越しに顔を覗かせて伊達が笑った。 「その分厚いヤツ、置いていけよ」 棚に積まれたプランターの向こうに、姿が消える。 時間潰しにしかならない小説だったが、枕として役立つならそれもいい。 「馬鹿を言うな」 一人呟いてはみたが、センクウにはもう、持ち去る気はなくなっていた。 (了) |