銘々が勝手に過ごしていた午後が終わり、三号生たちはそれぞれに、宿舎に戻ってくる。
 なんとない憂鬱の陰が区域全体に立ち込めていて、冗談一つ飛ぶこともなくなった、静かな日暮れだ。
 理由は誰にも分かっていることで、あえてそのことを口にしようとする者はない。
 そして、誰が言い出したわけでもなく、全員が心に浮かべているであろう、「卒業」の二文字。
(もう俺たちには、ここは意味がないのかもしれんな)
 ただ一人の男に打ちのめされ、魅了され、彼と共にあるためだけに、何年もの間とどまり続けたが、その「彼」がもういない。
 食堂の片隅で、羅刹は重い溜め息を繰り返している。
「辛気臭ェぞ」
 頭上から少し苛立った声がして見上げると、卍丸が器用に四人分の盆を持って立っていた。
 そのうちの一つを羅刹の前に、そして一つを自分の前に置き、残る二つを空いた席の前に置く。
「考えて面白くねぇことなら、考えなきゃいいだろうがよ」
「それが簡単にできれば、苦労はない」
「目の前のモンのこと考えるこったな。今は、飯をいかに美味く食うかだ」
 言ってにやりと笑い、卍丸はマスクを傍らに置くと、勢いよく掻き込み始めた。
「それが美味い食い方か」
 些細なことだが、少しは気分も軽くなった。
 羅刹は箸をとり、軽く手を合わせた。

 影慶とセンクウが現れたのは、羅刹たちの食事がそろそろ終わろうかという頃だった。
「遅ェじゃねえか」
 最後の味噌汁を飲み込んで、卍丸は食後の一服を取り出すと、隣のテーブルに移る。
「今更ながらに、邪鬼様の偉大さには恐れ入る」
 影慶が少し笑って自分の手で肩を揉み、筆頭代理の仕事が思いがけずハードであることを匂わせた。
 天挑五輪が終わってしばらくは、魂が抜けたような様子だったが、さすがは死天王の将、一人の男だ。
 己の成すべきこと、そして、どう生きることが「邪鬼の右腕」と称された男に相応しいかを、己で掴み取ってきた。
 今では、いくらかの感慨をこめて邪鬼の名を口にすることもある。
 未だその名を禁忌のように扱う者たちに比べれば、そして、影慶が邪鬼に抱いていた尊敬と親愛の情を思えば、なんという強さかと、羅刹はそのたびごとに感じ入らずにはいられない。
「で、おめえは相変わらず花の世話か」
「ん? ああ」
 卍丸の言葉に、センクウはいつものように、穏やかに微笑む。
 だがそれが、羅刹には少し含みがあるように見えた。
 気のせいと言われればそれまでだ。そう思うと「何かあったのか」と問うこともできない。

 羅刹がその言葉を口にしたのは、センクウが、ほとんど手をつけていない飯茶碗を見ながら、箸を止めてしまった時だ。
「どうした? 食欲がないようにも見えんが、何かあったのか?」
「まさかダイエットかよ」
「馬鹿を言え」
 茶化す卍丸に、センクウは苦笑する。
 それからまたじっと茶碗を見つめて、
「……まだ、残ってるか?」
 誰にともなく問う。
「飯か? そりゃあ……この時間だからなぁ」
 体格に相応しい以上の食事をとる、屈強な男たちの集まりである。いつも最後には、巨大な炊飯器は全て空になると決まっている。
 夕食の時間も終わりに近い今、もう一杯分あるかどうかは微妙だった。
「珍しいな」
 影慶がふっと笑う。
「俺が食うんじゃない」
 それに、センクウは反射的に答えた後、急に口篭もった。
 失言のようだ、と羅刹と卍丸は顔を見合わせる。
「……見てくる」
 センクウはそれだけ言って立ち上がり、片付け終わっていない食事を残して、厨房へと入っていった。
「なんだぁ?」
「さあ、な」
「ふむ……。自分が食うのでない、とすると……」
 他の誰かにやるのだろうが。
 手ぶらで戻ってきたセンクウは、自分の食事を盆ごと取り上げると、それを持ってまた厨房に消えた。
 卍丸が後をつけていく。
 顔を突っ込んで覗いてみれば、センクウは丁寧に手を洗っているところだった。
 その脇では、調理係の婆さんが、丼に持った飯、水を入れたボウルや、梅干の壷、鮭フレーク、削り節、山菜や海苔を用意している。
「センクウ。何するんだ?」
「ん? 少しな」
 婆さんが塩を混ぜてくれた飯を手にとり、いきなり作り出すおにぎり。
 なんでそんなもんを、と卍丸は思い切り眉を寄せた。
 それに気付いているくせに、センクウは何も言わない。
「ンなもん作って、夜食にでもするのか?」
 問うと、
「いや」
 それだけ答えられる。
 こうなれば根競べだと、卍丸はじっと手元を見つめ続けた。
 根負けしたというよりは呆れて、
「ここのところよく、大きな猫を見かけてな。腹をすかしているかもしれんから」
 センクウが答える。
 卍丸は謎が解明され、満足な様子である。
 何処かに迷い猫でも入り込んできたのだろう。放っておけずに、面倒を見ることにしたというわけか。
「手伝ってやろうか?」
 言いながら、もう手を洗い始めている卍丸に、センクウはこらえきれずに笑った。
 そうして、形の整ったものが四つと、いびつなものが二つ、大皿の上に並ぶ。
「少し、出てくる」
 それだけ言い残して、センクウは外に出て行った。

 羅刹は大きな溜め息をついた。
「誰にやるんだろうな」
 影慶が薄く笑って言う。
「猫だっつってたぜ」
 言いながら椅子に戻る卍丸に向けて、羅刹は疲れたようにのろのろと首を振った。
「何処の世界に、猫のエサに握り飯を持っていく奴がいる。いいとこ、ミルクか猫まんまだろうが」
「あ」
「だいたい、あの量を食べるとしたら、猫と言える大きさではないだろう。まったく、覚られることを承知で嘘をついて、隠そうともせんか。困った奴だな」
「始末に負えん」
 羅刹はむすっと腕を組む。
「まあ、そう締め付けることもないだろう。……好きにさせてやろう」
 最後くらいは。
 その言葉を、影慶が飲み込んだのが分かる。
 ふと沈黙が落ちて我に返れば、食堂にはもう、彼等三人しかいなかった。
 この塾を出て行けば、もう二度と会うことがあるかどうかも分からない。
 普通の学生が社会人になるのとは違うのだ。
 拳法家として生きてきて、今更、他の生き方など分からない不器用な男ばかり。
 卒業すればもう二度と、こんなふうに四人で顔をつき合わせて食事をすることなど、なくなるのかもしれない。
 追い払いがたい沈黙と静寂が、積み重なっていく。
 今、目的もなく口を開けば、余計なことが飛び出しそうだと、なんとなく分かる。
 言うことを、よくよく考えて。
「猫の一匹くらい、許してやるか」
 羅刹は一言一言、確かめるように、呟いて笑った。

 そして、そう言ってしまった手前、「猫の具合が良くないからついていてやる」と言い出したセンクウを許すはめにまでなり、項垂れる羅刹と、笑う影慶、卍丸であった。

 

(了)

影慶の設定としては、ひたすら打ちひしがれているほうがメジャーですが、
実際にはそんな弱い男ではないと思う私の影慶は、これ。
影慶最終形態(ナニソレ)です。
八連の時にはアレだったのが、最後にはこうなるのです。
死天王の将として、邪鬼の腹心として、
彼には徹底的にカッコよくあってほしいのです。