19XX年 1月12日(土)PM 1:43―――
その日、伊達が訪れた時、センクウは丁度電話中だった。 玄関口に近いところに電話機が置いてあるものだから、センクウは話しながらドアを開け、中に入れと仕草で促す。 伊達はいつものソファに勝手に落ち着いて、テーブルの上にある雑誌を開いた。 どうということもない、ありきたりな情報誌だが、暇は潰せる。 やがて話を終えたセンクウが、そのままキッチンに行き、やがて温かい紅茶の入ったカップを二つ、持って戻ってきた。 一つを伊達の前に置いて、一つは持ったまま、隣に腰を下ろす。
「大学の連中からか?」 聞こえてきた話の内容に、教授がどうとかいう言葉があった。 伊達が問うと、センクウはあまり面白くなさそうに頷いた。 苦笑するでもない、何か、本当に困惑している様子。 「なんだったんだ。ンな顔して」 「いや……大したことじゃないんだが、スキーに誘われてな」 「行きたくないのか?」 「あまりな。どうにも、疲れるんだ。あれこれ振り回されて」 なんとなく、分かる気がする。 もとより伊達自身が雑多な人付き合いを苦手としているから、そういう感覚のほうが理解できる。
そんなふうにして始まる、とりとめのない話。 伊達がセンクウのマンションを訪れるようになって半年ほどたつが、特に何をするわけでもなく、いつもこんな調子だった。 しかし伊達はあれこれと世間話をするのは苦手だし、センクウにしても口数は多いほうではない。 ひどい時には、来て、簡単な挨拶だけ交わして、そのまま伊達が寝てしまい、起きて帰る時にまた一言二言交わすだけ、ということさえあった。 だが、それでもいいと思えるからこそ、伊達はセンクウのことが気に入っている。 本人も自覚済みのことだ。 他の相手にこんな真似を続けていれば、いかに伊達とて、相手の心中を考えずにはいられなくなる。寝床として利用しているだけも同然で、それを喜ぶ者もいるまいだろうから。 けれど、疑う余地もないくらい嬉しそうな顔をして出迎えてくれるセンクウを見ると、伊達は安心してその好意に甘えることができた。 もちろん、寝る前、起きた後、話をすることもある。 他の連中がどうしているか、などほとんど情報交換のようなものだが、笑い話もそこには含まれるから、退屈することはない。
足元には、黒味の強いアメリカンショートヘアが丸くなっている。 去年の夏に伊達が拾った子猫は、今や立派に大きくなって、額の「M」の字もはっきりと鮮やかだ。 センクウによって「ネギ」と名づけられた「彼」が、退屈そうに欠伸をして、伊達の膝によじ登ってきた。そして、また一つ欠伸。 「なんだ、眠いのか」 伊達がネギの前足をとって立たせると、鼻の頭に鼻をくっつけるようにして、水色の目を覗き込む。 不思議そうな顔をするだけで答えないネギに、小さく、笑った。
「伊達」 隣からセンクウの手がのびて、伊達の腕に触れた。 そしていきなり。 「キスしたい」
「あ、あのなぁ……」 伊達はソファからずり落ちる。 ストレートすぎて、呆れるしかない言いようだ。 しかし、 「駄目か?」 と微笑まれると、何故か拒めない伊達だった。 ただし、伊達としては「させる」よりは「する」ほうがいい。 その辺りはセンクウも理解しているらしく、迫ってこようとはせずに、伊達の反応を待つ。 「仕方ねえ奴だな」 伊達はネギを床に下ろすと、自分から顔を近づけて、軽く唇をついばんだ。 舌と舌が触れ、開いた口の中に、侵入する。 そこで急に、センクウが一瞬、顔を引いた。 何かに戸惑って離れようとしたのだ。 伊達は距離をとり、少し困ったようなセンクウをうかがう。 「なんだよ」 自分から言い出しておいて。 無言で付け加える。 「その……来る途中、煙草を吸わなかったか?」 「ああ」 道々、二本灰にした。 吸殻の一つは、このマンションのロビーの灰皿に押し付けてきた。 「すまん。苦手なんだ」 申し訳なさそうに、センクウが目で詫びた。
伊達は、煙草はたまにしか吸わない。 吸っている時のほうが珍しい。 理由もなく吸わないでいるし、理由もなく吸う。 平均すれば一ヶ月で一箱開けるくらいのペースだが、時には何ヶ月も、その気にならないこともある。 今日、一日で二本、それも連続で吸っているのはかなり珍しいことだったが、それにも理由などない。 一本なんとなく吸って、なんとなくもう一本、くわえただけのことだ。 「あんたが吸ってるとこは、たしかに見たことねえが……」 「煙も、匂いも、な。それから、どうやら、味も」 「そのわりにゃあんたの傍でスパスパふかしてた奴もいるじゃねえか」 「あいつは、いつも風下にいたり、窓に寄ったりするからな」 「ああ、そういえば」 何度か共に食事をしたことがあるが、たしかに、夜風に当たるような何気ない調子で窓を開け、そこで一服取り出す姿が思い出せる。 外を歩いている時、たしか一度だけ、急にセンクウに場所を代われと言い出したこともあった。 そして、火をつけた。
「少し、待ってろ」 勝手知ったる他人の部屋。 言い置いて伊達は洗面所に行き、自分が持ち込んだ液状の口内洗浄剤を口に入れた。 寝起きの、口の中がべたつく感触が嫌いだと買ってきたものを、まさかこういう理由で使うとは思ってもみなかった伊達である。 (どうかしてるな、俺も) 鏡に、苦笑している自分の顔が映る。
「これでいいぜ。やりなおし、だ」 隣に腰掛けて、強引に引き寄せる。 唇に、笑う吐息が触れた。 習性というか、自然にというか、伊達は相手の体をそのまま押し倒し、上に覆い被さって駆け引きを楽しむ。 時折こぼれる低い笑い声で、相手が女でないことは分かっているのだが、口紅の味がしないだけ、むしろマシかもしれない、などと思う。 悪戯に、対等に、そして気まぐれに、追って、追われて。 そして不意に。 伊達はそのままセンクウの肩に頭を落とした。 「眠……」 「こら。俺の上で寝るな」 苦笑しながら、センクウが起き上がる。 しかし急襲してきた睡魔は強烈で、起き上がって寝室を借りるのが面倒臭い。 「ここで、いい」 センクウが自分の下から抜け出すと、伊達はソファの肘掛を枕に、そのまま目を閉じた。 やがて、上から毛布がかけられる。 「おやすみ」 肩を撫でていく、優しい手の感触。 そして、甘い夢。
三時間ほど熟睡して、伊達はセンクウと別れた。 外に出ると、夜の気配を含んだ風は冷たく、空は張り詰めて硬い灰色をしていた。 今夜も冷え込みそうだ、とジャケットのポケットに両手を突っ込んだ。 その手に触れる、薄いビニールのかかった箱。 昨日買ったばかりのマルボロ。まだ二本しか吸っていない。 (………) 少し考えて、伊達はそれを目についたくずかごに投げ入れた。
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