は て  は て
涯の涯

 四限目の授業が終わる。
 鬼ヒゲが出て行くと同時に、塾生たちは思い思いの場所に散っていく。
 こんな塾にも一応学食はあり、昼はそこで済ませる者が多いが、少し器用な者は、寮の厨房を借りて自分で食えるものを作ってくることもある。
 伊達は、飛燕お手製の弁当を虎丸の前に置き去りにして、教室を出た。
「おーい、伊達ぇ。また食わんのかぁ?」
 後ろから、虎丸の声が飛んでくる。
 答えるのが面倒で、伊達は軽く片手を上げて、それだけにした。
 塾一の力持ちを自負する虎丸は、塾一の大飯食らいでもある。ここ一週と少しの間、毎日のように与えられる弁当を、満面の笑顔で片付け始めた。
 彼の周囲に集まっていた者たちも、横合いから箸をのばしてつまんでいく。
 飛燕の作る弁当が美味極まりないことは、言うまでもない。

 伊達は一人、校舎裏に立つ万年桜の大樹のもとに来た。
 今は梅の季節だが、年中花をつけているこの気の狂った桜は、今もはらはらとその花びらを降らせている。
 散る傍から咲き、咲く傍から散る。
 掃除当番泣かせではあるが、それは寒気のするような絶景でもある。
 無論、この景色を気に入っている者は少なくないが、ここはほとんど、桃と伊達の指定席だった。
 伊達がこの場所を気に入っているのは、桜のせいというより、静かであるためだった。
 降る花が音を食らうのか、ここには何故か、騒音というものがない。
 そして、伊達がここに来るのは、ただなんとなく過ごす時ではなく、気が滅入っている時だった。

 根元に腰を下ろした伊達の肩を、滑るようにして花が落ちていく。
 ふと影がさしてその影を辿れば、不満げな顔をした飛燕がそこにいた。
「なんだ」
 伊達が問う。
「私の作ったものに、何かご不満でも?」
 一度や二度ならばともかく、連日とあっては、我慢がならなかったらしい。
「そういうわけじゃねえ。気にするな」
「気になります」
 答えを聞くまで帰らない、という意思の窺える目に、伊達は面白くなさそうに立ち上がった。
 何も言わずに去ろうとする伊達の手を、飛燕がとらえる。
 伊達は、その手を見下ろし、飛燕を見た。
「おまえらも、変わったな」
 そして言う。
 声にはなんの感慨もない。
「豪学連にいた頃は、何があったところで、俺に詰問しようとなんざしなかったろう」
「あっ」
 飛燕は慌てて手を放した。
「申し訳、ありません」
「謝るな。それでいいんだ。変わっていけばいい。俺は、それを望んでいる。特におまえは俺とそう年も違わねえし、師弟だったわけでもねえ。それを、ご大層に祭り上げられちゃ、俺も息が詰まるからな」
「伊達……」
「俺をそう呼ぶのにも、慣れたか?」
 伊達が笑いかけると、飛燕は微かに狼狽した。
「はい。なんとか」
 動揺を押し殺した答えを聞き、伊達は一つ頷いて、歩き出した。
 飛燕はもう追ってはこない。
 今更また元の問答に戻ることは、できないのだろう。
 伊達はそのまま、塾から出た。

 あてもなく、足の向くままに歩いて、広々とした空間を持つ堤防で立ち止まる。
 小さな広場が作ってあり、そこで、小学校も低学年と思われる少年たちが、野球の真似事をしていた。
 甲高い声が、伊達のところにまで届いてくる。
 堤防のアスファルトを、河原とは逆に少し下りた先、ペンキの剥げたベンチに腰掛け、硬い木の背もたれに身を預ける。
 目の前の道を、自転車が二台、並んで通り過ぎていった。
「……じゃねえ?」
「そんなこと……」
 瞬間に聞こえた声もまた、少年のものだ。
(今日は、土曜か)
 午前中で学校が終わったのだろう。
 やがて制服姿の中学生や高校生が、伊達の前を通るようになった。
 声をひそめる思慮があるのは、中学生以上だろう。顔を上げて見ずとも分かる。
 小学生くらいでは、伊達を恐ろしいとも思わないだろうし、時代錯誤の長ランをおかしいとも思わない……いや。そもそも道端にいる一人男のことなど、目に入ってはいないのだ。
 目の前にある、楽しみを追うのに夢中で。

 どれくらいそうしていたか、日差しは赤く色づいて、はるか河の向こうにあるビルの谷間に身を埋め、影は長くのびる。
 夕日を浴びて、水面は金色に輝いていた。
 ゆらゆらと揺れながら流れていく、光の川、そのあまりの眩しさに、目を細める。
 こだまする、子供たちの楽しげな声。
 彼等の居る風景を見ていられずに、俯いた。
 目を閉じ、無邪気な声に耳を傾ける。
 頭の中で反響し、重なり合い、記憶に混じり、やがて悪魔の哄笑めいた、狂気。

「伊達」
(!)
 名を呼ぶ声に目を開き顔を上げれば、いつの間にか、センクウがそこに立っていた。
「探したぞ」
 笑いながら、隣に腰掛ける。
 そして、温かい缶コーヒーを一本、伊達の手に押し付けた。
「何か用か」
「用というか……探してきてくれと頼まれたからな」
 少し困ったような様子で、センクウは自分の手に残した、緑色のお茶の缶のプルトップを起こす。
「ご苦労なこった」
 探せと言われて来て、センクウも腰を下ろしてしまうということは、連れて戻れという意味ではなかった、ということだ。
 その意図は、読める。

「誰に頼まれた」
「剣だが」
 てっきり飛燕の名が出てくると思っていた伊達は、意外な相手に驚いた。
 桃はこれまでに一度として、何故食わないだのなんだのと、言ってきたことはなかったはずだ。
「けど、なんであんたが」
「わざわざ俺のところに来て、『俺が行くよりいいだろうから』とか、言っていった。伊達。俺のところに来ていること、剣には話してあったんだな」
 いや。
 一度として、何処にいるという話は、したことがない。
 にも関わらず桃がわざわざセンクウを選んだということは、桃はいつからか、どうしてか、伊達が教室に不在の間何処に誰といるか、知っていたということだ。
 相変わらず得体も底も知れない桃に、伊達は諦めて溜め息をついた。

「十日ほど前からだそうだな」
 探せという理由を聞いてきたのだろう。センクウが言う。
「俺があれこれ詮索されるのは嫌いなことくらい、知ってるだろうが」
 その話はしたくもさせたくもない。
 やめさせようと思わなくても、声にはあからさまな苛立ちが混じる。
「ああ。だから、理由を話してくれとは言わん。話せることなら、とっくに誰かに話しているだろう。ただな、ここのところ俺のところにも来なくなっているし、それもやはり、十日ほど前からだろう? その……もし俺のせいなら、せめて謝ろうかとな」
 伊達は目を剥いて、センクウを見た。
 まさかそんなふうに考えているとは、思ってもみなかったのだ。
 笑っていない、困惑と不安の入り混じる葉の色の目。
 さすがに何も言えなくなって、伊達は顔を伏せた。
「あんたのせいじゃねえよ」
 それだけは、はっきりと言ってやる。

 誰のせいでもない。
 切っ掛けは分かっているが、彼等にしても、誰一人として悪意があったわけではない。
 ましてや、センクウには責など欠片ほどもない。
 むしろこの一ヶ月半、彼からはどれほど恩恵をこうむってきたことか。
 そんな相手を自分の言動で不安にさせたかと思うと、伊達は自分の情けなさに怒りを覚えずにはいられなかった。
「それなら、いいんだが」
 信じかねているような、歯切れの悪い言いよう。
 覚悟を決める他ないのかもしれない。
 伊達は、いつの間にか夜に彩りを変えた河原を見やった。
 もう、子供たちの姿もない。

「夢のせいだ」
 あの日、十日、正確には九日前に見た、最悪の夢。
 けれどそれだけ言って、何処からどう話せばいいものか、伊達は考え込んだ。
 両手の中で、生ぬるくなった未開封の缶を弄ぶ。
 簡単な話ではない。
 そして、たぶん誰も聞きたくはないだろう話。
 たとえ誰であっても、知らないほうが良かったと思う話だ。
 そして、本人に聞かせたくはなかった話も、混じる。
 それでも伊達は、話すことを決めた。
 このまま放っておけば、センクウはまた、何事もなかったことにして、そして二度とこの話には触れずにいてくれるだろう。
 だが、そうやって記憶の底に封じ込めたものが多くなれば、心が重くなる。
 あまりにも無条件に自分を案じてくれる誰かに、見当違いの心労など、これ以上負わせたくなかった。
 伊達が考えている間、センクウはただ黙っていた。人がそこにいる気配はあるが、促す様子もなく。

「俺は」
 伊達がようやく口を開くと、ただ
「うん」
 と静かな囁きだけが返ってきた。
「ここ五年……、七年、くらいか。まともに寝ることができなかった」
「そんなに?」
「ああ。寝ようとしても、深く眠り込めるわけでもなくてな。眠りが浅いと、夢を見る。いつも、ろくな夢じゃない。昔は……いや。今だってどうか分からねえが、毎日みたいにそんな夢見てると、自分がぎりぎりになるのが、分かってな。まともな精神状態じゃなくなってくんだ。それに比べたら、眠らずに済ます方法を覚えるほうが、簡単だった」
「それが、あそこでは、眠れたんだな」
「ああ。そう深くもねえが、いつもよりはちゃんと、『眠る』ってのに、ずいぶん近く。理由は、言ったとおりだ。あそこには、嫌なものが何もない。あんたからも血の気配はしない。あんたがいてくれれば、普通に『眠る』こともできるようになった」
 本人には、できるなら言いたくなかった、生易しいこと。
 だが、そんな話をしながら苦さが消えない。
 その理由が、あまりにも苦い。それゆえに。
「それで……、昔の夢なんだ。それが、実際にあったことなのかどうかは、俺は、覚えちゃいねえ。……記憶に、ねえからな。ただ、そうだったとしても、不思議じゃねえ。そんな、夢だ」
「うん。それで?」
 初めて、先を問われた。
 話す気になった自分を、やはり助けるためなのだろう。
 そんな心遣いが、伊達は何故か、哀しかった。

「カマキリ……」
「え?」
 突然出てきた脈絡のない単語に、センクウが驚いたのか、伊達を覗き込もうとする。
 伊達は顎が胸につくほど俯いて、顔を隠した。
「十日前。……カマキリを、見たんだ」
 困惑しているのが分かる。
 あまりにも、つながりがなさすぎる。
 普通の人間にとっては。
「登校する途中で、松尾たちが見つけて、飼うってんじゃねえだろうが、面倒見てたらしい。俺は、あの虫だけは、嫌いなんだ」
「……どうしてだ?」
「あれは、仲間を食うから」
 用済みの雄を、己の糧にして腹に宿す明日。
 狂気の虫。
 それを当たり前に行う、狂気の中に正気で暮らす、狂った生き物。
 あれは、
「俺と」
 血まみれの鎌。
「同じだから」
 口の中に蘇る血肉の味、眩暈、そして耳鳴り。
 何も見えなくなる。

「夢の中で俺はわき目もふらずにガキの死体を食ってる。骨までしゃぶり尽くしてそれでも腹が膨れねえから動けねえ奴の腹を裂いてまた食いはじめる。そうすると別の奴等も群がってきてそいつらもぶちのめして殺したそいつらをまた食って食えば食うほど腹が減って仕方がなくて気が付けば周りは死体だらけでそれがいつまでたってもあったかくてそれを見て安心するんだまだこんなにあるって―――」
 言葉と共に記憶の底、腹の奥から堰を切ったように溢れる赤、瞬く間に失せていく現実と現在。
 見えるのは血まみれの暗い穴の底、散らばる小さな骨と肉。獣のようにうずくまって一心不乱に何かを食んでいる薄汚い子供の背。
 最初は幾人か見えたはずが気がつけば一人、ただ一人の子供が背を向けたまま延々と何かを貪り食らっている咀嚼の音だけが耳に残り広がるのは血の味と肉の感触とそれは記憶なのかただの妄想なのか夢は真実を語らない。

「伊達!」
 強いショックに我に返ると、痛いほど強く、抱かれていた。
 いつの間にか落としていたコーヒーの缶が、爪先に触れて転がっていく。
 腕も足も、冷たく強張って動かすことができないが、触れている部分は温かかった。
 ゆっくりと背を撫でる手を感じる。
「つらかったな」
 囁くセンクウの声も吐息も、震えていた。
「ずっと、そんな……。よく、今まで、我慢したな」
「……なんで、あんたが泣くんだよ」
 泣かれると、泣けてくる。
 何かが溶けて満ちるように。
 だが伊達は強く目を閉じて、その奥の熱を追い払った。
 泣いてなお笑い、それゆえに強くあれる男もいるだろう。
 だが伊達は、自分がそうではないことを知っていた。
 それは、性分だ。
 だからこうして代わりに、泣いてくれる誰かがいるのかもしれない。
 身に沁みる暖かさに、伊達は手を添えて、ゆっくりと離れた。

「たまに、魔がさしたみたいに、急に食えなくなる。今みてえに、理由のはっきりしてる時もあるがな。……なんで食わねえんだって言われても、こんな話、おいそれとできねえだろう?」
「そうだな」
「心配すんな。ほとぼりがさめりゃ、元に戻るんだ。やっぱりまた、魔でもさしたみたいにな」
「だが、もう十日も食わずにいて……。傷のせいで目立たんが、やつれてるぞ」
「大丈夫だ。……たぶん、もう食えるから」
「え?」
 土手の下の民家から、甘く油の香が漂っている。
 それを「いい匂いだ」と思えるのが、その証拠だった。
 伊達は茂みの中に転がり込んでいた缶コーヒーを拾い上げると、制服の袖で土を拭って、一息に飲み干して見せた。
「あんたのおかげだ」
「俺は、何も。聞いていただけだから。話して楽になったんじゃないか?」
「……かもな」
 伊達は、そういうことにしておいた。
 いつもなら認めるまいとすることが、今は不思議と自然に頭の中に言葉になってあったが、それを言うのはやめた。
 わざわざ言うのは、さすがに気がすすまない。
「帰るか」
「食えるようになったというなら、何か食っていくか?」
「……それにしても、一度は戻ってからだな。この格好とその格好じゃ、何処にも入りたくねえぞ」
「違いない」
「で、あんたの奢りか?」
「快気祝いにな」
「馬鹿野郎。……ありがたく、奢られてやるけどな」
「だったら、せいぜい味わって食えよ」
「はいはい。それにしてもあんた、よくこんな街中にそんなマント姿で出てきたな」
「慌てさせるおまえが悪いんだ」
「俺のせいかよ」
「心配したんだ。俺も、剣たちもな」
「……ああ。悪かった」
 たぶんもう二度と、悪夢に狂わされることはないだろう。
(俺も、変われるのかもな)
 そんな気がして、伊達は澄み渡った夜空を見上げた。

 

(了)

「通ル魔」のタイルトの意味がここで明らかになってどうしましょう。
それにしても甘さ真骨頂って感じに甘い上にヌルいです。
センクウさんの涙腺はゆるゆるです。