春に別れて S

 春の日差しを浴び、内に緑を抱いて白く輝く真昼の温室。
 温室の中に季節はないが、それでも春の柔らかい気配に包まれたガラスの箱庭は、これまで毎年、一年のうちで一番明るく見えていた。
 これまでは、毎年。
 今、何故か陰りを帯びて見えるのが自分の心情のせいだということは、センクウには分かっていた。
 ここに温室を建てたのは、六年くらい前だ。
 それからは毎日の日課として、面倒を見に来ていた。
 その時間の中で、咲いた花があり、枯れた花があった。
 だがそれら全て、今日でなくなる。

 進路を決めた時から、ずっと分かりきっていたことだった。
 センクウが選んだのは、進学。
 取り立てて就きたい職もなく、むしろ、窮屈な社会生活の中で人に追われ、あるいは人を追って、あくせく働くことを考えると気が滅入った。
 ずいぶん甘えた考えだとは思ったが、ふとそんな愚痴を洩らした時、羅刹があっさりと言い切ったのだ。
「だったら、おまえの好きなことをすればいいだろう。学者にでもなったらどうだ?」
 と。
 それが一番性に合っている気がして、その方向で考え始めた。
 しかし受験期間はもう真っ只中で、そもそもこの男塾という場所が、高校のようなものなのか、それとは全く違う教育機関なのかは、未だに謎だ。
 場合によっては一年間保留し、大検を受けるところから始めなければならないのか、と塾長に確認に行くと、これまたあっさりと、
「推薦してやろう」
 と言われた。
 そしてまたやはりあっさりと、いくつかの候補が挙げられ、選んだ某私立大学に、論文一本で合格してしまった。

 学費から何から全て自分でまかなうとなれば、どう頑張ったところで、収入より支出のほうが多くなる。
 温室の維持費も馬鹿にはならない。
 奨学金を受けるという手立てはあったが、どちらにせよこの場所に、これまでのように毎日通うことは無理なのだ。
 この温室は、処分するのが最も適当な措置だった。
 売れるものは売り、商品にはならないものは、造園業者に話をつけて引き取ってもらうことにした。
 その搬出が、今日、これから行われる。
 育ててきた花と別れることについては、未練はない。
 確かに淋しくはあるが、誰かの手に渡ってそこで大事にされるならば、惜しんだり悔やんだりすることなどない。
 今のセンクウにとってただ一つ気掛かりなのは、伊達のことだった。
 センクウは伊達に、何も話していない。
 本当は昨日、温室を処分することを告げるつもりではあったのだが。
 いや。
 昨日ではなく、もう何日も前から、告げねばならないとは思っていたのだが、言い出せないまま時が過ぎた。
 「毎日」と約束した以上、何か予定が入ったのでなければ、今日も伊達は来るだろう。
 そのことを思うと、妙に落ち着かないのだった。

「センクウ?」
 近づいてきていることは気配で分かっていたが、後ろめたさが振り返るのを躊躇わせる。
 だが、今日は言わなければならない。
 やがて隣に伊達が並び、その視線を頬に感じる。
 訝っているのが分かる。
 今の今まで、ぎりぎりになって言わざるをえなくなるまで、今日のことを告げられなかった自分に、センクウは小さく笑って溜め息をついた。
「結局、言えなかった」
「はあ? なんなんだ」
 要領を得ない、伊達の声。
「講義は、これで終わりだ。それから、……もう、ここもなくなる」
 あまりに唐突な話に、伊達が驚くのが知れた。
「すまん」
 そして、短く詫びる。

 伊達ほど聡ければ、センクウたち三号生が、今年で出て行くことを予想するのは容易だったはずだ。
 それに全く思い至らずにいたのは、こうして過ごしてきた時間が、それほどに心地好かったせいだろうか。
 そうであればいいと、センクウはひそかに願う。
 やがて伊達は別に怒るでもなく、
「つまり、俺が今日ここに来たのは、無駄足ってことか」
 呟いて、肩を竦めた。
 同じ方向を向く伊達を、視界の端に確かめる。
「すまんな。本当に。昨日、言うつもりだったんだ。……言えなかったが」
 伊達の言うとおり、今日ここまで来させてしまったのは、無駄足だ。
 だが、そうなると承知しながら、言わねばならないと思いながら、隠そうとしていた。
 搬出のための準備を、昨日、伊達が帰るまで全くしなかった。
 伊達が出て行った後で、先刻まで徹夜で続けていた。
 言うべきことを、言いたくなかった。
 もうすぐにこんな時間が終わると知れば、その時を待たずに終わりになりそうな予感を、センクウはずっと無視できなかった。

「あんたの『毎日』ってのが、こんなに短いとは思わなかったが、まあ、仕方ねえ。……昨日言われなくて、良かったようにも、思うしな」
「伊達?」
「言われてたら、ここには来なかった。……もう二度と来なかった。分かるだろう、俺の性分くらい」
「……そうだな」
 伊達の性格からして、間違いなく、そうなっただろう。
 名残を惜しむだの、未練を覚えるだの。
 そもそもそういった感情の薄い男でもあるし、何より、そういうものを人に知られることを嫌う。
 ほんの僅かにも付け入る隙を与えまいとするのが、伊達だ。
「あんたには、感謝してる。……少なくともこの俺が、こんなことを言うようになったのは、あんたのせいだろうからな」
 「おかげ」ではなく「せい」と言うところが、伊達らしい。
 つい笑う。
 そんな伊達にとってこの二ヶ月の時は、どういう意味があったのだろう。
 そっと横目で見やった顔は、真っ直ぐに温室に向いて、何かを思う眼差しをしていた。

 大型のトラックが二台近づいて、そこから作業服の男や女が降りてきた。
「運び出すだけだろう? 手伝ってやるよ。授業料代わりだ」
 伊達は手近な南天の木に上着を引っ掛けた。
 にやりと笑う伊達の申し出を受けて、センクウは搬出を手伝わせることにした。
「なんだこりゃ。外から見た時には分からなかったが、いろいろ準備してあるんだな」
 広がった葉がどこかにぶつかって折れたりしないように囲いをかけたり、ものによっては鉢から抜いて根を縛ったり。
 この準備には昨日の午後六時頃からつい先刻まで、20時間近くかかっている。
 だがそんなことは言う必要のないことで、センクウは、どれから運び出すかを告げた。
 そして、温室の中とトラックの傍とを往復しながら、自分のしたことの意味を考えてた。
 言うべきことを言わなかったこと。
 徹夜になってまで、伊達の目から今日のことを隠そうとしたこと。
(……今日また、会いたかったんだな)
 少しでも長く、少しでも多く、共にいる時間を作りたかった。
 伊達といる時間。
 それは、影慶や羅刹、卍丸と過ごす心地好さとはまた別の、満たされた時間だった。
 彼のためにできること、与えてやれるもの。
 自分が人にとって、とりあえず代替のきかない「何か」であること。
 他の誰かではなく自分を、必要としてくれるのだと思えること。
 それはずっと、影慶たちの傍では手に入れられなかったものだった。
 それをくれたのは、伊達だったのだ。
(だから、「授業料」なんて……)
 「時」の代価を支払うべきなのは、ともすると自分なのではないか、とセンクウは思い、手を止めて伊達を見る。
 伊達に知られないよう気付かれないよう、恩恵を受け取っていたその後ろめたさ。
 ただ与えてやっていたのではなく、もらってもいたことを、告げていない。
 だがそんな感情のことなど、伊達が知りたがるはずもない。
 センクウは黙って、作業に戻った。

「卒業式、てな、いつやるんだ?」
 人が去り二人になって、伊達がセンクウに尋ねた。
 準備は塾そのものと三号生の間だけで行われている。ニ号生筆頭である赤石は送辞を読む立場上あれこれと関わっているが、一号生たちの近辺には「卒業式」の気配さえ漂っていないのだろう。
「今週末、か。金曜だ」
「あと、三日か。……そういう時期だ。少し遅いくらいか。……急だと思えるのは、俺だけ、だな。あんたは、最初から分かってたろうからな」
「……そうだな」
 いくらか残念そうにも聞こえる伊達の声。
 だが、そちらを向くことができない。
 伊達を見ることができない。
 仕方なく、からっぽの温室を眺める。
 しかしそこに思い浮かんでくるのも、あの中で過ごした他愛のない時間のことだった。
「―――じゃあな」
 伊達が気を回したことは分かった。
 たぶん、懐かしんでいる、惜しんでいると思ったのだろう。
 たしかに愛惜はあるが。
 そんなものより、このまま別れてしまいたくはない、と思った。

「伊達」
 言わないほうがいいのかもしれない。
 そう分かっていても、言わずにもいられなかった。
 言うべきことを言えなかったのとは、まるで逆に。
「卒業はするが、そう遠くに行くわけじゃない。俺は、ここまで車でならニ十分程度のところに住む予定でいる。……たまには、遊びに来る」
「なに、わざわざそんなこと。そりゃああんたたちの勝手だろう。OBは立ち入り禁止、なんて規則、ねえんだろうが」
 他愛なく、なんでもないことのように、極自然に。
 望むよりほんの少し遠い、距離。

「……そうだな。馬鹿なことを言ったか」
 伊達が喜ぶはずもないことは承知していたにも関わらず、言ってしまった自分の浅はかさに呆れる。
 必要なのは距離だ。
 伊達が望む、遠くもなく近くもない距離。
 会いたいと望むことは、伊達にとっては煩わしい距離なのだ。
 これ以上近づかないかぎり、この、一番近い距離を保てる。
 そんなことは、分かっていたはずだ。
 離れないためには、近づかないでいることだ。
 なんでもないこと、にしてしまう他ない。
 まるで冗談のように、大したことではないかのように。
 伊達に会うのではなく、塾に遊びに来るだけ。
 たったそれだけに、してしまうしかない。
「そうだな。どうせならたまには、教官の代わりにしごきにきてやろうか」
 笑う。
 笑った声を出す。
 屈託もなく。
 そういうのは、得意だった。
「あんたに俺がしごけるか?」
 ほっとしたような伊達の言葉を、頭の中だけで受け止め、返す。
「さて、分からんぞ?」
「そいつは大した自信だな」
「フフ……。それより、今日は思いがけず手伝わせて悪かったな。助かった」
「ああ。気にするな。俺は、あんたにもう一度会えて良かった」
 もう二度と会うことなどないかのような物言いに、
 頭の中だけにしておきたい言葉が胸に届く。
「だから、これで最後でもないだろう」
 つい零れる。
 それに当たり前のように返ってくる
「最後だろう。こんなふうに、のんびりしてられるのは」
 伊達の言葉と、はっとしたような沈黙。

「いい時間だった。感謝してる」
 言いながら、伊達が手を出した。
 その手を見下ろし、センクウはとるのを躊躇った。
 少なくとも伊達は、こういう時間をあえてこれから先も作ろうとは思っていないのだ。
 これから先にあるのは、ただ、かつてこの塾に在籍していたOBとしてふらりと現れ、二言三言、かわすだけの時間。
 もう少し時を作ってくれと望めば、手に入る微かな時間さえ、失うのかもしれない。
 距離。
 こだわらない関係。
 立ち入らない位置。
 何も望まないでいること。
 伊達の望む距離と関係と位置を、保つこと。

 別れを告げるしかない。
 のんびりと二人で過ごしてきた時間に。
 それが、この温室がなくなることの、一番大きな意味だったことに気付いた。
「……俺もだ。楽しかった。……元気でな」
 もう二度と会わないかのような別れを言葉にし、告げて手をとる。
「ああ。あんたもな」
 一度互いに力を込めて、手を離す。
「じゃあな」
 今度こそ伊達は、振り返らずに歩き出した。
 もう一度。
 センクウは思わず呼び止めようとしたが、もう何も言うことがないことに気付いて、思いとどまった。
 遠ざかっていく背中を見送る。
(……もう、「俺」は必要ない。すぐに、気付く……)
 安らぐために必要だった心の強さ、人を受け入れる強さを、伊達はもう手に入れたはずだ。
 それを与えたのは間違いなく自分かもしれないが、手に入れてしまったなら、もう「与え主」は必要ない。
(俺の役目は、終わったんだ)
 あとにはただ、空っぽの温室だけが残っていた。

 

(了)

…………姫?(爆
「D」以上にお嬢っぷりが爆裂してる気がしますネ。
悩んだんです。
『夜の庭S』あたりからずっと、達観させてしまうか、それとも迷わせるか。
で、達観させてしまえばよかったものを、迷わせてしまったら、このザマです。