講義五日目。 正面の門から三号生地区に入り、センクウの待つ温室への慣れない道を歩きながら、伊達の頭の中には、目に入る全ての木々、草花の名前が浮かんでくる。 温室にあるやや珍しい花より、もっとありきたりの花のほうがいいだろうと、昨日はこのあたりを歩きながらの講義だった。 それを見ながら歩くのは、まるで復習でもしているような気分である。 もちろんそれも悪くはないが、油断すればふと口を突いて出そうなのが、怖かった。 縁のなかったものを一気に詰め込んでいるため、脳細胞に馴染まないらしい。忘れはしないが、おとなしくしていてもくれないのだ。 梅、飛び梅、菅原道実? 「東風吹かば」から始まる歌もあったが、あれの作者も彼だったか、別人だったか。 そんなことがとめどもなく出てくるのである。 それが独り言になりそうで、白い花をつける梅の木を遠くに見ながら、伊達はことさらしっかりと口を閉じている。 春の日差しを浴び、内に緑を抱いて白く輝く真昼の温室。 センクウはその前に佇んでいた。 いつもは中で待っているというのに、珍しい。 それも、私服だ。 何度か彼の私服姿は見たことがあるが、どちらかと言えば洒落た格好だった。 それが、今日はブルージーンズに長袖の黒いティシャツ、という姿。 髪も項で一つにまとめている。 そして、背側のベルトに挟まれているのは白い軍手。 「センクウ?」 自分が近づいてきていることには気付いているだろうに、なかなか振り返りもしないセンクウを、後ろから呼ぶ。 軽く、片手だけ上げられた。 いったいなんなんだ、とようやく隣に辿り着き、顔を見やる。 透明なガラスの中に溢れる草花を見ながら、センクウが溜め息混じりに笑った。 「結局、言えなかった」 零れるのはそんな言葉。 「なんなんだ」 「講義は、これで終わりだ。それから、……もう、ここもなくなる」 「え」とも言えず、伊達はただセンクウの横顔を見つめた。 センクウは伊達を見ないまま、 「すまん」 短く詫びる。 花の名前に邪魔はされたが、伊達の頭の中では瞬く間にセンクウの言葉の意味が理解された。 そして、今の今まで想像だにしなかった自分に呆れる。 邪鬼を失った今、死天王を始めとする三号生たちに、ここにとどまる理由はないのだ。 彼等は十年もの間ずっと男塾にいて、あまりにもそれが当たり前のようになってはいたが、今年、卒業していく。 面倒を見る者がいなければ、この温室もただ荒れていく。 そうなる前に、おそらく業者でも呼んで引き取らせるつもりなのだろう。 だから作業を手伝うために、センクウは珍しくラフな格好をしている。 「つまり、俺が今日ここに来たのは、無駄足ってことか」 「すまんな。本当に。昨日、言うつもりだったんだ。……言えなかったが」 伊達はいつもと変わりない温室を見やった。 初めてここを訪れたのは、一月の半ば頃だ。 あれからいったい、何度ここに来ただろう。 居心地のいい場所だった。 それがもう、消える。 「あんたの『毎日』ってのが、こんなに短いとは思わなかったが、まあ、仕方ねえ。……昨日言われなくて、良かったようにも、思うしな」 「伊達?」 「言われてたら、ここには来なかった。……もう二度と来なかった。分かるだろう、俺の性分くらい」 わざわざ別れを告げに足を運ぶなど、伊達にはできないことだ。 温室がないとなれば、この地区にも近づかないだろう。他に何か、目当てのものがあるわけでもない。 何もせず、おそらくはあるらしい卒業式だけを迎えて、送り出すだけになっただろう。 「あんたには、感謝してる。……少なくともこの俺が、こんなことを言うようになったのは、あんたのせいだろうからな」 「おかげ」ではなく「せい」と言う伊達に、センクウは少し笑ったが、温室から目を逸らしはしなかった。 何か思いに耽るようなその横顔を一度見て、伊達もまた、視線の方向を同じくする。 ここにあった、気まぐれな昼寝の時間。 そういえば、わざわざ運び込んだシーツや枕なども、箱ごともう撤去されているのだろう。 (また、眠れなくなっちまうのか) 伊達は自分に問う。 答えは、分かっている。 本当はもう、寮の中でくらいならば眠れるように思うのだ。 たしかにあそこは雑音も多く男くさく、あまり綺麗な場所でこそないが、幾人のもの仲間が作り出しているのは、間違いなく安らぎの空間だ。 いきなりは無理だろうが、眠ろうとしさえすれば、やがて自然と眠れるようになるだろう。 いつからか、はっきりとしたことは分からないが、誰にも言わないできたものを吐き出してしまったあの時が、その境目だったようにも伊達は思っていた。 そしてまた、隣の男を横目に見る。 許されないと思っていた。 誰にも理解されないと思い込んでいた。 それとも、過去に揺らぐ自分の弱さを、人に知られたくなかっただけなのかもしれない。 今も、理解はされていないかもしれない。 あの地獄の中にあったものは、同じ地獄をくぐり抜けてきた者にしか分かりはしないとも思える。 だが、分からないままでも、それごと自分を受け入れてくれる人間は、確かに存在するのだ。 分かってくれと願えば、分かろうとしてくれる者は。 たぶんそれは、今いる全ての仲間たちに言えることだろう。 (だが、切っ掛けは、あんただった) この温室と、その中に咲く花や草のように、いつも変わらずここにいた。 つかず離れず、不用意に近づいてこようともせず、ただ決して逃げることはなく、ここに在りつづけてくれた。 桃たちほど近しくはなかったからこそ、心地好かったのかもしれない。 その距離があればこそ、そしておそらくは、いずれ遠からずこんな夢は覚めると気付いていればこそ。 見せられるものもあったのかも、しれない。 大型のトラックが二台近づいて、そこから作業服の男や女が降りてきた。 「運び出すだけだろう? 手伝ってやるよ。授業料代わりだ」 伊達は手近な南天の木に上着を引っ掛けた。 寄付してしまうものと売るものとがあるため、その指示に従って二台のトラックに積み分ける。 どうやら昨夜、講義が終わった後から準備を整えていたらしく、全てただ運び出すだけの状態になっていた。そのため、作業は呆気ないほど簡単に、一時間程度で終わった。 汗もかかないまま、学ランを着なおして、伊達は業者のチーフらしき男と話をしているセンクウを眺める。 そして、空っぽの温室。 こちらも近いうちに解体業者が来るのだろう。 これまで手間隙かけて育ててきたものを、全て手放す気分というのは、どんなものなのだろう。 ふとそんなことを思ったが、想像だにできないことで、考えるのはやめる。 「卒業式、てな、いつやるんだ?」 人が去り二人になって、伊達はセンクウに尋ねた。 準備は塾そのものと三号生の間だけで行われているらしく、伊達たちのところにはなんの変化もないのである。 「今週末、か。金曜だ」 「あと、三日か。……そういう時期だ。少し遅いくらいか。……急だと思えるのは、俺だけ、だな。あんたは、最初から分かってたろうからな」 「……そうだな」 センクウは今も、空っぽの温室だけを見ている。 やはり感慨深いものがあるのだろう。 おそらくは何年もの間、ずいぶんと多くの時間をこの場所で過ごしてきたに違いないのだ。 花が咲いたり枯れたり。 人が訪れたり、出て行ったり。 その最後の最後に紛れ込んできた、自分は珍客だったに違いない。 「―――じゃあな」 思いに耽る邪魔はしたくない。 伊達はそう言って、慣れない正規ルートではなく、馴染んだ抜け道のほうを選んで、歩き出した。 最後に、もし誰かに見つかったら、抜け穴の存在を教えてやるのもいいかもしれない。 もう必要のないものだ。 「伊達」 背後から呼ばれ、足を止める。 やっと、センクウがはっきりと自分を見ていた。 「卒業はするが、そう遠くに行くわけじゃない。俺は、ここまで車でならニ十分程度のところに住む予定でいる。……たまには、遊びに来る」 「なに、わざわざそんなこと。そりゃああんたたちの勝手だろう。OBは立ち入り禁止、なんて規則、ねえんだろうが」 「……そうだな。馬鹿なことを言ったか」 センクウが洩らす、小さな笑い。 一瞬何故かぎくりとした自分には気付いたが、その理由は、伊達には分からなかった。 「どうせならたまには、教官の代わりにしごきにきてやろうか」 だがセンクウが屈託なく笑って、ほっとする。 「あんたに俺がしごけるか?」 「さて、分からんぞ?」 「そいつは大した自信だな」 「フフ……。それより、今日は思いがけず手伝わせて悪かったな。助かった」 「ああ。気にするな。俺は、あんたにもう一度会えて良かった」 「だから、これで最後でもないだろう」 「最後だろう。こんなふうに、のんびりしてられるのは」 言ってから、伊達は自分で気付く。 そうだ、という事実に。 僅かに強張る空気を払うため、息をつく。 「いい時間だった。感謝してる」 そして、手を差し出した。 その手を、センクウがとる。 「……俺もだ。楽しかった。……元気でな」 「ああ。あんたもな」 一度互いに力を込めて、手を離す。 「じゃあな」 今度こそ伊達は、振り返らずに歩き出した。 その背を呼び止める声は、もう聞こえなかった。 (了) |