白く煙る、名そのままに淡いカスミソウの、ブーケ。 様々な花束で、あくまでも脇役として控えめに主役を包む、優しい花だ。 だから、センクウがカスミソウだけを束にしてもらいたいと言った時、花屋の若い店員は、「え?」と聞き返した。 「他の花は用意してあるから、カスミソウだけでいい」 あらためてそう告げると、彼女はにこやかに笑って、作業に取り掛かった。 花を選ぶ時、最初にカスミソウの名を挙げれば、必ず「それから、どれにしますか」と問われる。 単独で望まれることなど、まずない花。 可哀相だと思わないでもないが、物言わぬ白い小さな花は、人の思惑など承知の上で、ただ静かに微笑んでいるようにも見える。 主役になろうとは思わない、そんなのは恥ずかしい。 まるでそう告げるかのように。 そんなことがあったものだから、塾に戻ってきた時、センクウには他の花を合わせるつもりはなくなっていた。 他の誰かにあげるものでもない。自分の部屋に飾るのに、買ってきただけだ。 だから、恥ずかしがることなどないから、たまには主役になるといい。 センクウは、そんなことを思う自分に、一人苦笑した。 三号生地区にまで辿り着き、いったん宿舎の部屋に戻ろうか、それともこのまま温室に行こうか迷う。 街に出ていたため、私服であるし、髪も下ろしてある。 塾内にこの格好でいるのは、あまり好きではないのだ。 ひどく、周囲から浮く。 マントを羽織って髪を立ててしまえば、その格好と髪型の奇抜さが勝るためか、そう違和感もなく馴染めるのだが、普通にしていると髪の色のせいか、場違い極まりなく見られる。 十年もの付き合いがある同輩たちだが、センクウが髪を立てるようになったのが九年ほど前からだから、彼等も「普通の格好」のセンクウを忘れてしまっている。 ひどい時には、いきなり呼び止められ、「何処から入った」と詰問されさえする。 髪型や服装が違うだけで、自分だと分かってもらえないのは、嫌な気分だ。 正午を少し回ったところだから、今戻るほうが、人は少ない。 だが、だからこそ今日は、センクウは温室に行くことを選んだ。 たかが外見のことだ。 別人に見られたとしても、それは些細なことだ。 人を避けてまで忌避するのは、あまりにも情けない。 何より、あと一ヶ月、いや半月もしないうちに、全てが変わる。 卒業という節目は、もう目前に迫っていた。 (いつまでも、あんな格好しているわけにも、いかないしな) 塾を離れてしまえば、こうした「普通の格好」でいることになる。何かあって皆で会おうということになった時にも、そのまま会うだろう。 ならば今の内から少しずつ、自分も同輩たちも、この姿に慣れておいたほうがいい。 どう見られ、どう思われようと、その程度、大したことではないはずだ。 溶け込めないことを苦にしていた、何年も昔の自分では、もうない。 (……そこまで言い聞かせないと納得できないというのも、問題あるような気もするが) 自嘲して気分を切り替え、センクウはカスミソウの花束を持ったまま、温室へと向かった。 ここのところ、伊達は三日に一度ほどの頻度で現れるようになっている。時には連日姿を見せることさえある。 それも、来れば必ず寝ていくというわけでもない。 寝るつもりで来て、なんとなくその気にならず、あるいは眠気が訪れず、結局話していることになる―――というだけでは、どうやらないようだ。 なんにせよ、それほど頻繁に午後の授業を投げ出してくるとなると、さすがに問題がある。 立場上、一言くらいはセンクウも言いはした。 「あまり鬼ヒゲを困らせるなよ」 と。 しかし言って聞く伊達ではないし、どころか 「俺の勝手だろうが。それとも邪魔だってのか」 と、むっとされて、それが嬉しかったから、それきり何も言っていない。 鬼ヒゲのことは憐れと思うし、指導者としては屈辱的だろうから、伊達を咎めもせずにいることはすまないと思う。 だがどうやら伊達は、そのかわり、温室に来ている時以外の授業はきちんと出てやっているらしい。もちろん、その場にいるというだけで、本当の意味で参加しているわけではないのだろうが。 ここ二日ほど見かけていないから、と思ってみれば、案の定今日は来ていて、伊達は手枕で横になり週刊誌を眺めていた。 たぶん伊達には、これだけ花のあるところに、またあらためて外から花を持ち込むというのが、奇異に見えたのだろう。 訝しげな顔をする。 だが、 「なんだ?」 と問い掛けると、 「なんでもねえ」 と面倒臭そうに答えた。 伊達が雑誌を閉じて箱の上に放り出し、起き上がる。 それから、センクウの抱えるカスミソウを見上げて、 「花束っていうと、よくそいつが入ってるよな」 そんな言葉に、センクウは小さな花に抱く同情を思い出す。 たまにはカスミソウだけの花束というのもいいだろう、と言おうとしたが、 「それ、なんて名前なんだ?」 続いた伊達のその言葉に、思考が止まった。 言葉も止まって、放棄される会話。 (……伊達も、二十年くらいは、生きているよな……?) 頭の中でようやく動き出した思考が、言葉を生む。 (なのに、知らないのか?) いくら男だからといって、これほどありふれた花の名を。 やがてその理由が、記憶の中から浮かび上がってくる。 その頃には、伊達はセンクウの沈黙のわけと、彼が何を考えたかを、正確に察知していた。 「……つまり、知ってて当たり前な花なんだな?」 伊達が言う。 忌々しそうに、嘲笑って。 どうすれば取り落とされた会話の続きを拾うことができるのか、センクウは考えたが、分からなかった。 考えあぐね、どうすれば良いのか戸惑い、焦る。 見ている前で、険しかった伊達の笑みが、弱くなっていく。 そして、諦めたように小さく、 「昔、雷電にも同じ顔された」 伊達が言った。 「同じ?」 「同じことを聞いたんだ。あれはなんて花なんだ、ってな。そうしたら、そんな顔された。今なんて言ったんだこいつは、ってな顔」 「……なんの花を、聞いたんだ?」 言いかけて、伊達は一度口を閉ざした。 あらためて顔を上げセンクウを見据え、それから、ぽつりと言う。 「桜」 と―――。 「その時には、そういう顔をする……その顔の意味も、分からなかったけどな。黙ってるから腹が立って、言う気があるならとっとと答えろ、とか言ったっけな。けど、俺はその時、本当に桜なんて……、春に、見たことはあっても、名前は……知らなかった」 そこまで言って、顔を上げていることに疲れたように、顎を落とす。 「嫌になるな」 呟いて、肩を竦めた。 花束に縁がなければ、普通の生活をしていても、カスミソウの名を知らないことはあるかもしれない。 けれど、桜の名を聞かれた雷電は、どれほど驚いたことだろう。 いつのことか、その場所が何処か、それによっては大したことではないのかもしれないが、伊達が雷電に花の名を尋ね、沈黙に対してそうも呆気なく腹を立てたということは……。 いつの話か、何処でのことか。 尋ねれば伊達が困るだけだ。 センクウに問うつもりはないし、態度に出したつもりもなかった。 だからおそらく、ただの自虐だ。 「ここを抜けて、あいつらに会って、……豪学連に入る、少し前のことだ」 伊達は自分からそう付け加えた。 言いたい言葉、言っておきたいこと、言わないほうがいいこと、言ってはいけないこと。 全てが区別もつかないまま一気に溢れ出して、センクウは言葉を失う。 その中から、言える言葉を探す。 「これはな」 これでいいとは思えないが、静けさに苛まれる伊達を見ておれず、置き去りにされていた話を、無理やり拾い上げた。 「カスミソウ、というんだ。本来は初夏の花なんだが、今ではいつでも手に入る。花束には、ミスティブルーなんかと一緒に、欠かせない花の一つだからな」 とうてい自然には思えない話の戻しようだ。その上、こんな知識など伊達は要していない。 それを話題にしてしまうセンクウの動揺など、伊達には目に見えて明らかだろう。 だが、伊達はもう一度センクウを見上げて、ゆっくりと頷いた。宥めるように笑いながら。 「霞の草、って書くのか?」 いつまでも突っ立ってないで座れ、と自分の隣を目で示して、伊達が問う。 「ああ」 「ミスティブルーってのも、霧の青、か。そういうイメージなんだな。靄みたいな。……こんなのが本当に霧みたいに一面咲いてたら、綺麗だろうな」 センクウの手にある花束を見て、伊達が言う。 温室の緑に重なって広がる、何処までも果てしない見渡すかぎりの、淡く小さな、優しい白。 花束など問題ではない、それだけが全ての世界。 白い花の幻想が、痛みを包み込む。 (本当に、綺麗だ―――) 「……伊達」 「ん?」 「花の名前、覚えてみるか?」 センクウが問うと、伊達は一瞬、眉を痙攣させた。 やけに難しい顔をしてしばし考え、 「そんなもん覚えて……どうしろってんだ」 ぶつぶつと、まるで言い訳のような調子になる。 「余計なことでも、何かの役に立つかもしれんだろう?」 少なくとも、二度とこんな思いはしなくて良くなる。 ヒャクニチソウ、アザミ、ツユクサ、サルビア、ウイキョウ、カサブランカ、マリーゴールド、ムラサキシキブ、ホトトギス、デイジー、コデマリ、アンスリウム、バーベナ、フリージア……。 道端のありふれた花、温室の花、蔓草、大樹に咲く花。 「……覚えきる自信はねえぞ」 「授業に出ないなら、その頭、ここで使えということだ。鬼ヒゲには俺から、特別講義をしていると言ってやってもいい」 「それを言うかよ」 ようやく伊達がいつもの彼らしく笑い、センクウもそれに応えて、いつもどおりに笑った。 (了) |