ガラス戸を開けると、熱帯の緑が俺を出迎えた。 ここには季節がない。 俺は肩に積もっていた雪を払い落とし、コートを脱いだ。 落ちるが早いか雪は溶けて水になり、黒々とした土に染みていく。
脱いだコートをかけた腕が熱い。 そうなまったわけじゃないはずが、汗が流れてくる。 つい振り仰いでガラス越しに見上げる空には、冬の日が白々と輝いていた。
「伊達か?」 奥から、低い優しい声がする。 俺が俺に戻れる、過日とよく似たこの場所。 やがて、眩いほどの緑の向こうに、主の顔が覗いた。 俺を俺に戻してくれる、数少ない場所と、人だ。
「洋装を見るのは久しぶりだな」 「そうか?」 「ああ。この前も、その前も和服だった。おまえには、どちらもよく似合うが」 「褒めても土産はないぞ」 促され、白い足のテーブルにつく。 慣れた手つきで置かれるのは、一杯の紅茶だ。茶器の触れ合う音が耳に心地いい。しかし、 「……ここに来る時は、洋服のほうがいいかもしれんな」 和服にこのテーブルと紅茶は、少し不自然だ。俺が呟くと、小さな笑い声が返ってきた。
他愛のない話をする。 他愛のない話だけをする。 俺には、語れることはほとんどない。 だからもっぱら、相槌を打つ係だ。
博士号をとり、今では植物学者として相応の地位もあるこの男の話は、ほとんどが動植物のことについてだ。 それから、採集や調査のために出かけた旅のこと。 頭でっかちの学者では入り込めない密林の奥へも、この男ならば平然と踏み込んでいける。 そのくせ、 「新種なんだろう?」 「ああ。だが、名前をつけられて、人間のものになるのは勿体無い気がしてな」 だから、発見した新種の花をそっとそのままそこに残し、誰にも言っていないという。 無遠慮な森林開発団や、狂ったような学者連中には到底持てない発想だ。
「スケッチはしてきた。見るか?」 「ああ」 世界でただ一人、彼しか知らない花。 色鉛筆を使って描いたらしい、その花の絵。 流れてゆく、心地好い時間。 ゆっくりと満ちてくる、眠りの潮。 丁度カップも空になった。
年に一度か二度、来るかどうかという俺のため、ビニールシートとシーツ、大きな枕が、七つある全ての温室に用意されている。 おまえは、使われないかもしれないのを承知で、必ず清潔なシーツを用意しておいてくれる。いつか俺が来たその時のために、何枚のシーツを無駄に洗うのだろう。 「おやすみ」 横になると、いつも必ずこの声が降ってくる。 そして、軽く肩に触れていく癖。
あれから何年たっただろう。 町も変わり人も変わり、俺は今やヤクザの頭だ。 その辺の暴力団ごときと同じにされてはたまらないが、人様に威張れる身分でないことだけは間違いない。 考え方も思うことも、感じるものも昔とは変わった。 時が過ぎれば、様々なものが変わる。 たまに出会う昔の仲間も、やはり皆、どこか必ず昔とは違う。女房がいたり、子供がいたりする奴もある。 だが、どれほど多くのものが移ろおうとも、変わらずにありつづけるものも、ある。
「センクウ」 「うん?」 変わらずにいてくれと、そう願う。
こんなところに銃弾など撃ち込ませたくもないから、本当は来ないほうがいいのだとは分かっている。 だが、残しておいてほしいと願う。 この空間を。 おまえの優しさが形になった、この時間を。 なくしたくはないと思う。
「なにか食いたい。後でだが」 「用意しておこう。……おやすみ」 もう一度、同じ言葉が降ってくる。 そしてもう一度、俺の肩に手が触れた。
(了) |