卒業の儀

 伝統的な日本の卒業式には、「蛍の光」が欠かせない。
 歌に縁がなく暮らしてきた者たちでも、この音楽だけは閉店の合図などで必ず耳にしているため、歌うことができる。
 もちろん、それと上手いかどうかは別だ。
 野太い声で歌われる「蛍の光」を聞きながら、自分たちが卒業する時にも歌わされるのか、と思わないでもない在校生たちである。
 だが桃には、歌もクソもなかった。
 彼の頭の中にあるのは、この一事のみである。
(絶対に俺が手に入れてやる。……センクウ先輩の、第二ボタン……!)

 十何年も慣れ親しんだ男塾を離れるとあって、閻魔の目にも涙。
 そして、五年くらいは彼等の指導を受け薫陶を受けてきたらしい、鬼の目にも涙。
 奴隷たちは、その点はけっこう冷めている。
 答辞を読んだ影慶が、三号生筆頭となる赤石へ、何か言葉をかけている。さすがの赤石も感極まっているらしく、やや赤い目をして頷いていた。
 さすがに今日は卒業式ということで、全員が正装である。
 正装とは、すなわち改造なしの正規の制服のことだ。
 だから赤石も肩当なし、袖のある制服を着て、律儀にホックまで留めている。
 三号生たちも、着古してボロボロになった迫力のあるものではなく、この日のためにとっておいたのか、傷もほつれもないものを着ている。
 普段はマントで過ごしていた死天王もしかりである。
 何より、三号生たちにしてみれば、これは男塾という場所との別れである以上に、今は亡き大豪院邪鬼という男との、告別式でもあった。
 そのせいか、式の最中は全員が喉元を緩めることもなかった。

 桃は素早く辺りを見回し、卍丸と共にいるセンクウを見つける。
 その傍に、何故かというか案の定というかやはりというか結局というかまたしてもというかコンチクショウというか、伊達もいて何か話しているのだが、そんなことは無視してずかずかと近づいた。
「先輩!」
 卍丸を押しのけてセンクウの正面に立つ。
「な、なんだ?」
 殺気じみた気迫の篭もった声に、センクウが一歩退く。
「俺に第二ボタンください!」
 桃は、そう言って右手を突き出した。
「ボタン……? どうした? とれたのか?」
 その反応に力が抜けそうになるのをこらえ、首を横に振る。
 いくら桃でも、自分の制服のボタンがとれたからといって、もう用済みだろうとばかりに人のを奪うほど鬼ではない。
「記念です。そういう習慣があるんです。いいからください」
 世事に疎いのか、伊達もセンクウも要領を得ない顔をしている。
 卍丸はその意味を知っているらしく、珍獣でも見るような顔で桃を眺めていたが、そんなものは、桃、当然無視である。
「第二、ってどれだ?」
 センクウは自分の胸元を見下ろす。
 普通は上から数えて二番目を意味するが、彼等の制服の場合、ボタンは右の実用ものと、左の飾り用がある。
「両方です!」
「両方? ……記念なら、一つでいいんじゃないのか?」
「いいから、く・だ・さ・いっ!!」
「あ、ああ、分かった」
 密着するほど迫ってきた桃に気圧されて、センクウは自分の制服のボタンを二つ、無造作に千切った。
 それを桃の手に置く。
「ありがとうございました! 大事にさせていただきまっす!」
 にんまり。
 桃は笑って深々と頭を下げた。

「それにしても、何故俺のボタンを?」
 センクウが誰にともなく言う。
 意味の分かっている卍丸は、困った顔をするが、言うに言えないことでもあるし、多大なる疑問もあるのだ。
 何故桃が、センクウを。
 今までそんなそぶりを見せたこともない。
 たしか、桃はかなり徹底的に一方的に端迷惑に、伊達を追いかけていたはずである。
(あ゛)
 ぴん、とひらめく卍丸。
 要するに。
(伊達にやらないためか)
 そして疲れ果てて肩を落とした。

 卍丸は、伊達が頻繁にセンクウのところに通っていたことについては、影慶の口から聞かされて知っている。
 かつてセンクウが「猫」と嘘をついた相手は、伊達だったのだ。
 意外ではあるが、他人の都合などお構いなしの傍若無人な伊達と、たいていのことは笑って聞いてくれるセンクウは相性がいいのかもしれない。自分とセンクウがそうだったように。
 と、納得していた。
 つまり、仲のいい伊達に、万一にもセンクウがボタンを渡してしまわないように、桃は先手をうったのである。
(意味も知らねえのに、そんなわけの分かんねえことするわきゃねえだろうってのに、困った野郎だな)
 こんなのが総代だと思うと、先行きが不安になる卍丸である。

 疑問顔のセンクウと伊達に、桃は口から出任せを言っている。
「単なる思い出の品です。それなりに関わりはあったし、話もしたかったのに、結局そんな暇もないままになりましたからね。ですから、せめてボタンだけでもこれに付け替えようかと思ったんですよ」
「じゃあ、卍丸のも貰ったらどうだ?」
「そ、そうですね」
 いらないものだが、この言い訳を通すためには、くれと言わないわけにはいかない。
 卍丸は笑いをこらえつつ、できるだけ普通の顔を保とうと努力した。
「お願いします」
 桃が頭を下げるが、おざなりだ。
 卍丸は意地悪く、
「どーすっかなぁ。俺としちゃあ、たとえボタンでも、おまえと始終一緒にいるなんてのはなぁ」
 嫌がって見せた。
「じゃ、いいです。嫌だってものを無理やりもらうわけにはいきませんからね」
 しかし桃は、それを理由にあっさりとにこやかに言い切った。
 卍丸、打つ手を間違えたようである。

「それにしても、面白い習慣だな」
 疑うこともなく、センクウは本当に面白そうに微笑んでいる。
 普通の相手なら、これで少しは心が痛むものだが、桃には柳に風、暖簾に腕押し、糠に釘。効果はない。
 もっとも、センクウ本人は効果など考えているわけではないのだが。
「で、どうして二番目のボタンなんだ?」
「それは、俺も分かりません。まあ、習慣なんてそんなものでしょう」
「そうか」
 そして、センクウは少し考える顔になった。

「伊達」
 名を呼んで、その男へと振り返る。
 そして、ホックを緩めて襟の内側に手を入れると、塾章を外した。
「受け取ってくれないか」

(どっか―――ん!! なん……ッだそりゃあ!?)

「これは俺がここに入った時から、ずっと使っていたものでな。マントも、これで留めていた。本当は記念にとっておこうと思ってたんだが、良ければ、今使っているのをなくした時にでもいいから、使ってくれないか?」
 意味もよく分からない第二ボタンとは月とスッポン、思い入れと、そこから生じる意味と価値は、天と地ほどにも違う。
「なんで、俺に」
 伊達の場合、これを聞いて「くだらねえ」と吐き捨てない時点で、もう受け取ることは確定したも同然である。
 桃は真っ白になって佇み、卍丸は笑いをこらえるのに必死のあまり、真っ赤になっている。
 そんな二人を少し訝ったようだが、センクウはそのまま、少し照れたように言う。
「同じ場所にいて、同じ時間を過ごして、俺はそれが楽しかった。だから、その礼と、そんな時があったことの証だ。それとも、こういうのは嫌いか?」
 そうして伊達は、
「そうは、言わねえよ」
 と素直に受け取り、あまつさえその場で付け替えた挙げ句、自分のものをセンクウに渡した。
「あんたのほどの、歴史はねえけどな」
 そんなことを、言いながら。
 さらさらと、桃は砂になった。

 ちなみに、これ以後、男塾の卒業式では、先輩と後輩、あるいは卒業生同士で、塾章や学年章を交換する光景が見られるようになったという。
 これが「換章の儀」と呼ばれ男塾の歴史に刻まれるのは、もう少し先のことである。

 

(お−わ−り−)

実は、このシリーズの中でもかなり大好きな話です、これ。
自分で書いていてなんですが、天然すぎるセンクウが我ながらおかしくて。
「とれたのか?」の一言には、モニターに向かって「おいおい!」とつっこんでやってください。
それにしてもかわいそうな桃ですが、こんな桃が、またやっぱり大好きです。