願 い

 校舎の裏手、広大な敷地の片隅に、墓地がある。
 弔ってくれる者のない、孤独な亡骸を眠らせる場所である。
 伊達がここへ来るのは二度目だった。

 真夏とは思えないほど風が冷たかった。涼しいというより肌寒い。空は薄い灰色で、弧を描く鳶の影が黒い。普段ならば暑苦しくてかなわない学ランが、今日は少しも苦にならない。
 伊達は初めて来た時と同じ墓の前に立っていた。
 手くらい合わせてやればいいと自分でもわかっているのに、ズボンのポケットに突っ込んだ手は、長いことそのまま動かない。
 今更祈ってなんになる。無意味だ。
 そんな思いが、ガラじゃないという気持ちに上乗せされて、五分ばかりも伊達はそのままの姿勢でそこにいた。

 紫蘭。
 冷たい石に刻まれた名はその二文字。
 家族も友もない憐れな男の骨を、江田島はひそかにここへ供養したのだ。
「奴の気持ちを本当に理解できるのは貴様だけだ。納めてやれ」
 と渡された骨壷を、伊達がこの御影石の下、小さな穴の中へ入れた。
 それが一度目。
 そして、世間が盆と呼ぶ今日、二度目。
 一度目の時も、江田島が膝を折って手を合わせるのを、立ったまま黙って見ていた。
 意味などないのだ。
 どんな思いももう届くことはない。
 もし届いたとしても、死人はもはやなにもできない。
 墓参りなど、生きている人間の自己満足だろう。

 こんな無意味なことより―――、と伊達の中におぼろげな言葉がよぎる。
 その先は続かない。
 だがもう心の中にはある。
 生きている内に、なにかしてやれたなら、と。

 同じ地獄に落とされ、同じ地獄の底を這いずり回って生きてきた。
 だが自分には今、こうして平穏に倦めるような場所があり、気軽に名を呼び合える仲間もいる。大切なものもある。
 同じ地獄を辿ったはずが、紫蘭はそういったものを一つも持たないまま消えた。
 もしあの時、せめて命を救えたならば、未来を残しておけたなら。
 だが、どんな思いももう無駄なのだ。
 伊達は小さく溜め息をついた。

 祈る気分になどやはりなれなかった。
 見渡せば、いくつかの墓石の前にある、新しい花、枯れた花。
 死んだ人間は、花など見ない。
 あることも知らない。
 もう何一つ、手に入れることはない。
(地獄なんざ珍しかねえ。抜け出そうとしなかった奴が悪い)
 横目に見やった名に向けて、心の中でそう呟き、目を伏せた。

 何故こんな場所に足を向けたのかと、いささかの後悔を抱えて伊達は道を戻りはじめた。
 可哀想な奴だった、安らかに眠れよと、しんみりした気分になれるような、なるのもいいような、そんな気がしてのことだったが、自分にそんな器用な真似ができるはずはなかったのだ。
 憐れみはあるが、ただそれだけだ。
 紫蘭は、自分の境遇を呪うのみに終わった、自分の無力に負けたのだ。憐れみ以上のものなど、かける気にもなれない。
 だが、くだらぬ奴だと忘れることも、何故かできない。

 重い足取りで歩く。
 目に入る墓石は、古いもの、新しいもの、小さいもの、大きいもの、様々ある。どれも同じ石で作られている。これだけの数の墓があっても、建てるのはいつも「塾長」であるせいだろう。
 家族がいる者もあったろうに、ここに葬られたということは、見捨てられたのだ。骨さえ見捨てられ、拒まれた男が、ここに何人も埋もれている。

 伊達の足が止まる。
(そのほうが、よっぽど地獄だぜ。そんなくらいなら、ハナっから一人のほうがいい。なあ、紫蘭よ)
 家族などいない。だからここに葬られる。それならば「塾長」のくれた愛惜が心地好いだけで、なにも哀しくない。家族のいないことを悲しんだり嘆いたりするような、そんな心は、あの地獄の底にとうに落としてきた。家族がおらず、もう会えないことは、あの世界では全ての子供たちに共通する、他愛ない当たり前のことでしかなかったから。
 伊達も今まで一度として、俺の家族はどこにいるのだろうなどと考えたことはなかった。

「ネギ」
 不意に、そんな声が聞こえた。
「ネギ、どこへ行った」
 遠くから、微かで大きくはないが、はっきりと聞こえる低く柔らかい声だ。
 耳に馴染む。
(なるほど)
 墓参りを、彼等ならばするだろう。
 ひときわ荘厳な巨石の前に立ち、在りし日の思い出を懐かしむこともあるだろう。
 実際あの墓の周囲は、今日ふと通った時もきれいに掃き清められていた。おそらく今ごろは、新しい花が供えられているか、これから備えられるのだろう。
「センクウ」
 伊達の呼んだ男の手で。

「伊達か?」
 声が少し大きくなった。距離が変わったのではなく、顔をこちらに向けたせいだろう。
 墓石の間を抜けて近づこうとすると、ぱた、と右のつま先になにか柔らかく軽いものが乗った。
 伊達が見下ろしたのと、
「ミウ」
 と伊達を見上げた子猫が鳴いたのは、同時だった。
 黒っぽい子猫。
 伊達は興味もないが、アメリカンショートヘアという種類の猫だ。

 猫などどれも同じようにしか見えないが、どうやらこれは、つい先日の夏祭り、雨の中で拾った子猫のようだった。
 塾では面倒を見られないだろうと、センクウが引き取っていった。
 墓参りに連れてきたのだろう。
 伊達がすくい上げると、子猫はあたたかい体をよじって少し暴れた。
 まだ、てのひらに乗るような小ささだ。小さいだけに爪が細く鋭いらしく、引っかかれるとチリチリと痛む。
(小せぇくせに)
 生意気にも伊達の肌を傷つける。いくらか可笑しかった。

「伊達、十日ぶり……くらいか?」
 伊達の前に現れたセンクウは、ゆっくりと笑う。
 ついつられる笑い方だ。
「それくらいだな」
 伊達が答えると、センクウは一つ頷いた。そして伊達の手の中を見て、
「なんだ、ネギ。拾い主を覚えていたのか?」
 と、言った。

「ネ、ネギ?」
 伊達がそう繰り返して尋ねたのも、無理はない。
 どうやらそれがこの子猫の名前のようだが、ネギとはまた妙な名前である。
「変か?」
「変かって、……なんでネギなんて」
「なんとなくだが」
「なんとなくねぇ」
 伊達はつくづくと、自分の手の上の子猫を眺めた。

「別に、野菜の葱のつもりでつけたわけじゃないぞ」
 とセンクウが言う。そしてネギを伊達の手から取り上げた。子猫はまだ、胸ポケットに入ってしまうほど小さい。
「まあ、どうでもいいけどな。ネギ、ねぇ」
「あえて何故と言われれば、ネギボウズを連想したからだったか……」
 ふわふわでもこもこの子猫が丸まっている姿は、たしかにそう見えないこともないだろうが、ネギと呼んで違和感を覚えないところが、伊達にはよく分からなかった。第一それなら、たんぽぽの綿毛のほうを普通は連想しないだろうか。
 ともあれ、子猫はその名に文句も言うまい。
 這い出そうとして軽く頭を押さえられ、反対に頭からもぞもぞとポケットの中へ潜り込んで、尻尾が飛び出した。

「墓参りか?」
 その丸っこい尻を撫でながら、センクウが問う。
 伊達は答えようがなくて困惑した。
 墓参りというならば、手くらいは合わせるべきだろうからだ。
 仕方がないので、
「まあ」
 と曖昧に濁しておく。
「三号……のじゃないな。紫蘭か?」
 図星をさされて、違うというのも馬鹿らしいと、素直に認めた。
「俺も、手くらい合わせてこよう」
 伊達がどうしてもできないことを、いかにも当たり前のように言って、センクウは新しい石の並ぶあたりへと歩き出した。
 「じゃあ俺は」と言い損ねた伊達は、なんとなく少し遅れて後を追った。

 紫蘭の墓の前で、センクウは手を合わせ、いったいなにを考えているのか、数分間もそのままでいた。
 伊達には理解できないことだ。
 てっきり、数秒間で片付くと思っていた。
 だが目を開けて手を下ろしたセンクウは、
「今度、花を持ってきてやろう」
 じっと墓石を見つめたまま言う。伊達に、あるいは紫蘭にというよりは独り言のようで、そのくせ二人ともに言ったようでもあった。
 風に舞い上げられた土と、落ちて腐った葉の積もる台座を、手で丁寧に払い、拭う。

 白い手が汚れる。
 なんでこいつはこんなに優しいんだと、伊達は妙な不満を覚えた。
 放っておけばいい。
 なんの関わりもない。
 それなのに手を合わせて長い間瞑目した。
 もう充分なことをしたはずだ。
 なのに、自分の手が汚れることを少しも構わず、頬についた泥でも拭いてやるように、そっと優しく石を拭う。
 いたたまれない。

「伊達?」
「なんでもねぇ」
「……そうか」
 言いたくないことなら、なにも聞かない。だから言わなくていい。それでもいい。
 穏やかで、少し寂しそうな眼差しがそう語っている。
 こんな顔をされると、本当ことを話してやりたくなってたまらない。
 仕方がないので、伊達は背中を向けた。
 そして、そんなあからさまな真似をした自分が余計に馬鹿らしく思えてならなくなった。
 言ってしまおう。
 だが、なにをどう言えばいいのか、それが分からなかった。
「なんでもねぇんだ」
 替わりにそれだけ言った。

「それよりあんた、なに考えてりゃあんなに長いこと手ェ合わせてられるんだ」
 沈黙が来ればそれは不自然なものになりそうで、急いで話を変える。
 センクウはどうということでもないように呆気なく、
「いろんなことだ」
 と、答えにならない答えを言った。
「いろんなで分かるかよ」
「埒もないこと、と言ったほうがいいか」
 分からねえ、と言うかわりに、伊達は肩を竦めた。

 センクウは小さく笑って再び墓碑を見る。
「生まれ変わりが、あるといいな」
 ぽつりと呟いた。その手がネギの頭を撫でる。
 もしこんなふうに猫に生まれ変わり、優しい人のポケットの中であたたかく包まれているならば、それはきっと幸福だろう。だが、
「前より悪い人生が待ってるかもしれねぇぜ」
 伊達は、そう言わずにいられなかった。
 そんな哀しいことを言えばセンクウの顔が曇る。見なくても分かる。見てしまえばひどく後悔する。
「まあ、可能性の話だ」
 伊達はとっさに付け加えた。

 こんなとってつけたような言葉では、誤魔化すことなどできるはずもない。分かっていた。
 だが、センクウは苦笑を広げるようにして、あたたかく笑った。
「ああ」
 と深い声で頷く。
 面食らって伊達は言葉を失った。
 不器用な誤魔化しに苦笑した、という様子でもない。
 理解ができない。
 だがどうやら、哀しませずに済んだらしい。
 分からないが、それならばそれで悪くはなかった。

「あんた、墓参りに来たんだろう。済んだのか」
 伊達はここからでも見える大きな墓石のほうを顎で示した。
「いや。こいつが逃げ出したからな」
「行って来いよ。俺は帰る。こんなところにいるのは、他の奴に見られたかねえ」
「おまえらしい。そうしよう。それじゃあ。たまには遊びに来い」
「学生が。忙しいんだろう」
「それでもお茶の一杯くらい飲ませてやる時間はある」
「……暇な日を教えてくれ」
「そうだな。火曜日の夜か、土曜だな」
「考えておく」
「なんだ、教えたら来てくれるんじゃないのか」
「細かいことにこだわるんじゃねえよ。……じゃあな」
 その言葉を汐に、互いにそれぞれの方向へと歩き出した。
 伊達の背に一度、ネギの甲高い鳴き声と、それになにか言ったらしいセンクウの声が聞こえた。

 ふと足を止めて振り返った時には、センクウの姿はもう見えなかった。
 紫蘭の墓は他の墓にまぎれるようにして、小さく見えていた。
(もし生まれ変わりなんてものがあるなら、今度こそ、幸せになれるといいよな)
 手も合わせない。
 目も閉じない。
 それが伊達の、初めての墓参りだった。

 

(終)

えー、本日9月25日。
一ヶ月以上遅れての、お盆話になりましたゴメンナサイ。
でも、やっつけ仕事で書かなくて良かった、と思える程度には、
マトモなものになったかと思います。
なにが起こるってわけでもない話ですが、気に入ってもらえたら幸い。