例年より特に冷え込んだということもないが、その日にかぎって、関東方面は未明頃から雪が降っていた。 北風が湿った雪をさらって、家々の壁を叩く。 まだ明けやらぬ冬の朝は、凍てついた風だけがうるさい。 そんな雪も、男塾という場所にとれば恰好の鍛錬道具で、特別招集をかけられた一号生たちは、暗いうちからグラウンドを裸足で駆けずり回らされていた。 そう飛びぬけた人材はないが、小石だのなんだのを入れた雪合戦に、明るい声を上げて興じているのだから、全員、根性くらいは座っているらしい。 校舎裏にまで届いてくる声を聞きながら、桃は人知れず微笑んだ。
晴れた昼ならば日差しの温かいこの南側も、ようやく東の空が灰色に明るんできた六時過ぎ、湿った雪の舞う曇天ではうそ寒く、風が直接吹き付けてこないことだけがせめてもの幸いだ。 こんなところに桃を呼び出しておいて、肝心な伊達の姿はまだ見えない。 五分ばかりは早く来た桃だが、それからもう三十分はたっているだろう。 (俺が遅刻してくることを算段に入れてるのか……) そう思うと、口元がほころぶ。 今になっても遅刻常習犯の桃には、他人の遅刻を責める資格もないし、そんな気もなかった。 そもそも、六時というとんでもない時間指定にも関わらず、桃が時間より早く来ていたこと自体、異常なのだ。たまたま昨夜徹夜したから、眠気覚ましの散歩ついでだったのだが、伊達はそんなことは知らない。 無駄に待ちぼうけを食わされたくない伊達が、本当の予定時刻より一時間ばかり、早く言った可能性は大いにあった。 七時なら、少し気の早い者が登校してくる時間で、一方、その人数は少ない。 何か内密な話があるなら、人の多い昼間や、抜け出すのに手間を食う夕方や夜より、この早朝はいかにも適当だった。
雪は降り続いている。 冷たく風に吹かれる雪の舞う中、毅然と佇む桜の老木を見やる。 雪に混じり、花片が散っているが、容易には見分けもつかない。 植物は寒暖に感想など持たないだろうが、人も凍えるこの季節、なおも休まずまるで何事でもないかのように花をつける姿には、一種鬼気迫るものがあった。 桜は何を思い、春も夏も秋も冬も、雨の中、風の中、日差しの中、闇の中、そしてこの雪の中、散って腐り地に返るだけの花をつけるのか、つけてきたのか。 人の訪れも稀な校舎の裏で、なんのために。 そして、いつまで。 そして更に、いつか、この花も枯れて朽ちる日がくるのだろうか。 そんな日が、必ずいつかは来ることを思うと、正体の知れない痛みが胸を締め付けた。 それは、人は誰も皆、いずれは死ぬ、という哀しい事実に重なったためかもしれない。
桃はふと、この桜はそんな事実を、哀しいなどと思わないがために、幾百の時を生きてきたのだろうな、と思った。 ただ強く、何のためと語ることもなく黙したまま、身を刻む痛みにも暑さにも寒さにも耐えて、自若と。 (おまえは知っているのか) 近づき、幹に手を触れ、問う。 (自分がなんのためにここにいるのか) 見上げた枝の合間から、雪をかぶった枝の向こうに、曇った空が見えた。 白いものが、ゆっくりと沈んでくる、この世は水底。 桜が語るはずもなく、音は皆雪に飲まれ花に食まれ、グラウンドから聞こえてくる声も遠い静寂。 素知らぬ顔でその静けさの中、桃の存在すら気にもかけず、桜は佇む。 枝を広げ、瞼を伏せたようにも、天を見上げるようにも、見える桜。 湿りを帯びて凍った幹が痛々しい。 だが見上げれば、物言わず、瞬きもせず、立ち続ける花の面影。
サク、と雪を踏む音と共に、 「なんだ、えらく早ェじゃねえか」 背後から声がして、桃が振り返ると、伊達がいつの間にかそこに現れていた。 いくら桜に気をとられていたとはいえ、今の今まで近づいてきていたことにも気付かなかった自分に、桃は少し呆れて肩を竦めた。 「早いって、もう六時はとっくに過ぎてるだろう」 「丁度七時だな。どうせさっき来たところじゃねえのか」 「六時前からいたさ」 「嘘つけ」 案の定だ。 「今日に限っては本当だ。ま、いいけどな。それで?」 冬の朝にこんなところで、無駄話をして時間を引き延ばす趣味はない。 我に返ってみれば体は凍えきっていて、耐えかねるほどでこそないが、意味もなく耐えるよりは、さっさと温かいところへ戻りたい桃だった。 それで単刀直入に訊いてみれば、返った答えはこれだ。 「ガラじゃねえや。もういい」 伊達は顔をしかめるようにして少し笑って、 「悪かったな」 それだけ言って背を向け、歩き去った。
腹が立つよりただ茫然としてそれを見送ったあとで、 「なんだったんだ」 気の抜けた呟きが洩れる。 相変わらず、時々まるで分からない男だ。 かれこれ四年ばかりも、毎日顔を突き合わせ、時には共に一つの戦場に立ち、互いの背を預けて戦ったことさえあるというのに、たまにこんなことがある。 まったく読み違えてしまうというか、意図も見えなくなるというか。 それをいちいち追及することは、伊達が嫌う。 いつものように諦めて忘れることにして、桃もまた、帰ろうと歩き出した。 校舎の角を回りこみかけてふと振り返ると、一人寂然と立つ桜は美しく沈黙し、枝には雪か花か、風に嬲られながらただただ白く、咲いていた。
(終)
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